小 澤 太 郎
堂ヶ平廃寺が立地する尾根(福岡県八女郡広川町大字水原)
広川町の東奥部、上陽町(注:現八女市上陽町)との境に赤薮山(標高405m)があります。この南麓部の南斜面に堂ケ平(どうがひら)と呼ばれる地域があります。
堂ケ平は、標高160~180mの二つの尾根から成っています。山々が折重なる険しい場所ですが、西側は遥かに筑後平野を望む景勝の地です。 ここから、たくさんの屋根瓦が採集されています。中でも注目されるのは、建物の軒先を葺く瓦です。
軒瓦には文様が施されています。軒丸瓦には蓮華文様、軒平瓦には唐草文様。ひとつ の建物を葺くのに大量の瓦が必要ですから、この文様も手彫りではなく、木型に粘土を押し付けて抜いたものなのです。つまり、全く同じ文様の軒瓦が大量に生産できるわけです。
調べていくと、堂ケ平と同じ木型から 作られた軒瓦を出土した遺跡があります。旧筑前国と筑後国に分布しており、計8カ所にのぼります。 筑前国では、大宰府市大宰府政庁(都
府楼跡)・宝満山遺跡・浄妙寺跡・福岡市鴻臚館跡などが挙げられます。 筑後国では、久留米市筑後国府跡・同国分寺跡・同国分尼寺跡、そして堂ケ平です。
筑後国府Ⅰ式軒瓦の分布(小澤2001)
細かく観察すると、両国間 には、明らかに異なる作り方の特徴(癖)があります。 まず、粘土と焼きが違います。筑後国の方は粘土がきめ細かく焼き締まっています。
筑前国のものは焼き縮みを防ぐため、たくさんの砂が混ぜられています。ですから、同じ木型を使いながらも筑前国の方が数ミリ程度微妙に大きく仕上がっています。
次に、文様のある瓦当部分と丸・平瓦を接合するわけですが、接合した後、筑後国の方はヘラで縦方向に余分な粘 土を十分に削りとります。一方、筑前国のものは、指の腹などで丁寧に撫でて形を整えています。
堂ケ平出土の軒瓦は、残念ながら実物を見ていませんが、 古い写真などから、筑後国府 や国分寺で出土している軒瓦と同じ特徴を持っているのではないかと考えています。
つまり、筑前・筑後ともに 同じ木型を使用しているけれども、製作工房と工人(職人) は、両国間で異なっていると言えるのです。
では、いつごろの瓦なのでしょうか。木型の崩れや瓦の作り方から、両国ともにほぼ同じ時期に製作された可能性が高いのです。大宰府政庁や 筑後国府の例から見て、九世紀前半ごろ(平安時代前期)
に作られ、使用されたのではないかと考えられます。
次に、堂ケ平はどのような 性格の遺跡だったのでしょうか。堂ケ平以外の7遺跡は、 いずれも重要な官衙(古代の役所のこと)もしくは寺院に限られています。交通の不便な奥まった山地に位置する堂ケ平は、その立地から見ても、古代の山岳寺院である可能性が極めて高いと言えるでしょう。堂ケ平の東側の尾根は「カネツキ」と呼ばれており、ここからも寺院の可能性が伺えます。
一方、西側の尾根には人工的に削られた三段の平坦地があり、かつては平たい石が等間隔に並んでいたといいます。 恐らく堂舎の柱を据えるための礎石ではないでしょうか。
「堂ケ平」の地名もここから 起こったものと思われます。
堂ケ平に葺かれた軒瓦は、 筑後国営の瓦工房で、筑後国府や国分寺用の軒瓦とともに 製作されたということであり、それらと並ぶ重要施設であったと言えます。しかも堂ケ平廃寺(廃絶した寺)を建立した主体者は、筑後国であった可能性が高いと言わざるを得ません。
では、何のために、なぜこの地を選んだのか。謎は深まります。更なる検討が必要と なるでしょう。 数片の瓦の観察をきっかけに、多くのことが明らかになろうとしています。
*「広報ひろかわ」2001年8月号、広川町役場より〔写真・図面追加〕。
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