以前、「筑紫潟の風」と題し、ウェブサイトを運営してきましたが、諸般の事情により休止。今回、リニューアルし再出発します。
新着情報
ARTICLE「岩戸山と今城塚」などを掲載しました。
NOTE「八葉石から神籠石へ」アップしました。
神籠石は、かつて八葉石などと呼ばれていたことが、故古賀寿さんの研究で知られていました。「八葉石から神籠石へ」では、それがなぜ神籠石と呼ばれるようになったのかを、新たに発掘した文献史料などから考察しました。
明けましておめでとうございます。
COLUMN「遺跡発掘」アップしました。
今回ご紹介する「遺跡発掘-埋もれた歴史に挑む-」は、2000年夏に執筆したもので、遺跡の発掘調査の手順と考古学の魅力についての紹介文です。16年以上経って改めて読み直すと、恩師である酒井龍一先生の考え方に色濃く影響を受けていることがよくわかります。
COLUMN「海水皆赤し」を掲載しました。
今から1327年前。百済救済戦争に動員され、30年間抑留された男が故郷筑後国上妻郡に帰って来ました。「海水皆赤し-百済戦役と「日本」成立」では、その奇跡の生還の物語をまとめています。
ARTICLE「八女市童男山古墳群採集の石人について」を掲載しました。
「八女市童男山古墳群採集の石人について」は、学部生時代に投稿したデビュー論文です。1体は筑後考古学研究会が見学会実施中に発見した、新発見の石人でした。帰省中に実家のうどん屋を手伝いながら、岩戸山歴史資料館へ通いました。不安定な形状で大きく重いため、実測には大変苦労した思い出があります。
COLUMN「堂ヶ平の甍」掲載しました。
福岡県八女郡広川町の人里離れた山中に、古代寺院跡と経塚があります。「堂ヶ平の甍」は、その紹介文です。
COLUMN「その時、街は戦場になった」を掲載しました。
記録が少なく、その実態が長年不明であった荒木駅列車襲撃。「その時、街は戦場になった‐終戦間際の荒木空襲‐」では、近年発見された米軍の空襲映像や、地元荒木国民学校二十年会の皆さんからの聞き取りなどから、その時の状況を探ります。
個別のページから直接PDF版をダウンロード可能にしました。
これまでは、メニュー画面の表まで戻る必要がありました。個別記事からダウンロードできるように、ページ最下端左側に、PDF版ダウンロード用ボタンを設置しています。
OTHERS「(講演録)古代山城・高良山神籠石の構造を考える」を掲載しました。
2007年2月に熊本県立温故創生館で講演した「古代山城・高良山神籠石の構造を考える」をアップしました。事前取材の映像が上映された後に、当時の太田館長との対談や、最後は満員のお客さんとのじゃんけん大会でお土産を持ち帰っていただくなどコーナーがあるなど、大変面白い企画でした。面倒な音声の文字データ化を快く引き受けていただいたMさんに感謝します。
COLUMN「久重が製造したのはアームストロング砲だったか」を掲載しました。
故郷久留米に佐賀から呼び戻された田中久重は、どのような大砲を造ったのでしょうか。彼の手記にあるように、アームストロング砲と呼んでいいものなのでしょうか。「久重が製造したのはアームストロング砲だったか」では、その大砲の姿と、名称の問題を整理しています。
COLUMN「久重はどのような人物だったか」を掲載しました。
この「久重はどのような人物だったのか‐伝えられるその言葉から‐」では、からくり儀右衛門こと、久留米出身で東芝創業者の田中久重はどのような人物だったのかを親族や弟子、関係者の証言から探りました。
COLUMUN「相似墳をキーワードに考えた磐井と継体」を掲載しました。
『日本書紀』に描かれた筑紫君磐井と継体天皇の対立は、果たして事実なのか?前方後円墳の設計の共通から、筆者は、両者の親密な関係を指摘してきました。この「相似墳をキーワードに考えた磐井と継体」は、その研究成果を簡潔にわかりやすく解説したものです。
ARTICLE「北部九州における神籠石型山城の配置」を掲載しました。
「北部九州における神籠石型山城の配置」は、大学時代に人文地理学の講義と、酒井龍一先生から日々薫陶を受けていたセトルメントアーケオロジーの影響で書いた論文です。当時は、コンピューターを使わず、手計算と作図で空間分析を行っていました。古代山城を研究する考古学者からは、小澤は地図で遊んでるだけだとの批判も浴びたことも懐かしい思い出です。日本考古学では、小林達雄と酒井先生くらいで、まだなじみの薄い手法でしたし、ティセンポリゴンにも拒絶反応示すこともしかたなかったのかな。ただ、地図上に神籠石の位置を落とした分布図のみを見て、議論にならない土壌であれこれいうのではなく、より客観的な議論ができることを目指した論文でした。
FIELD WORKとSERIESをメニューに加えます。
研究成果としてまとめる前に、さまざまな現地調査を行いますが、その成果をまとめた「FIELD WORK」と紙コンテンツで発表前の原稿を連載する「SERIES」を新たなメニューとして加えます。準備ができたものから掲載しますので、こちらもぜひお立ち寄りください。
FIELD WORK「久留米市域の坊津街道」を掲載しました。
先日予告したFIELD WORKシリーズ第一弾、坊津街道を掲載します。あまり取り上げられることがない魅力を紹介。また、踏破した場合の消費カロリーは?そのカロリーは、いったいおにぎり換算何個分なのか??答えは「久留米市域の坊津街道」をご覧ください。
トップページ画面にフォトモーションが加わり、「FIELD WORK」を「SERIES」に編入しました。
増えてしまったメニューを再編し、動きのある画像を挿入することで、トップページを見やすくしました。また、「NEWS」タイトルの表示数を3から6に増やしています。
SERIES:FIELD WORK「幕末久留米藩開発の肥前国松浦郡石炭山現地レポート」を掲載しました。
幕末久留米藩は、蒸気船3隻を購入していました。この運用には、当然大量の石炭が必要となります。しかしこの問題は、地元久留米でも全く取り上げられてきませんでした。今回、断片的に残る久留米の史料や肥前松浦郡に残る資料から、現地を突き止めることができました。その現況を「幕末久留米藩開発の肥前国松浦郡石炭山現地レポートで」ご報告します。
OTHERS「(講義録)日本の古代建築はどう変わったか」を掲載しました。
久留米大学での選択必修科目「日本考古学2」より、古代建築についての概説です。これをやっておかないと、学生さんたちが、その後続く、筑後国府跡や国分寺、集落についての講義を聞いてもチンプンカンプンになってしまうので…内容はこちら「(講義録)日本の古代建築はどう変わったか」をご覧ください。
ARTICLE「筑後国府跡出土軒瓦の様相」を掲載しました。
大学を卒業し、就職して家庭を持って、人生様々悩んでいた20代末に執筆した論文です。この「筑後国府跡出土軒瓦の様相」は、長年発掘調査が行われ、偉大な先輩が遺構論を中心に展開してきた同遺跡でオリジナリティーを出そうと、仕事でも試行錯誤していた頃のものです。
OTHERS「液状化実験映像」(約10秒)公開します。
久留米大学での日本考古学の講義で、地震考古学の回には、学生さんを数班に別けて、この簡単な「液状化現象実験」を実施していました。これは、そのプレ実験の様子です。当日、実験装置のセッティングを終え、学生たちが水槽の縁をトントンと叩き地震動を起こすと、あっという間に地盤が液状化し、重量物は沈降、軽量物は浮上します。このような実験を体験することで、学生さんたちの地震痕跡への関心が高まります。なお、砂以外の材料は、百円ショップで揃えています。
ARTICLE「高良山城における列石の改変と水門構造」を掲載しました。
高良山城(神籠石)の列石は後世に複数回の改変を受けていることや、水門の規模について、現地踏査の成果や未公表だった過去の発掘データから再検討したものです。子供のころから登り親しんだ高良山を改めて登りなおして、様々な発見がありました。その詳しい内容はこちらをご覧ください。なお、PDF版は、今回からInDesignで組んでいきます。初めてでしたので、細かい設定が思うようにいかず…掲載まで大変時間がかかってしましました。
ARTICLE「筑後の経塚と経筒」を掲載しました。
筑後地方の経塚や経筒について初めて集成。その年代や造営の背景、立地や天台系寺院・修験道の影響にも言及しました。「筑後の経塚と経筒」へはこちらから。
NOTE「青龍丸乗揚事件の顛末」を掲載しました。
ここ5年ほど、幕末久留米藩最大の蒸気船千歳丸の廃藩置県後の足取りを追っています。千歳丸は青龍丸と名を変え、さまざまな歴史的な局面に関わっていることがわかってきました。今回は、新史料からその最期の場面に迫ります。「青龍丸乗揚事件の顛末-新史料から見た幕末久留米藩最大の蒸気船千歳丸の最後-」へはこちらから。
OTHERS「装飾古墳壁画ぬりえ 珍敷塚古墳」を掲載しました。
LOCAL GUIDESを追加しました。
Google Mapsへ遺跡や建造物などのマーカーを新設する作業を続けています。指定文化財だけではなく、地域史を考えるうえで重要なものから、筑後地区を中心に、現在約200ヵ所を設置しています。これらはグーグルマップ上に表示されていますし、検索でも候補にあがり表示されます。例えば、幕末久留米藩が開発した石炭山の場所(ローサイアリマ山)など、従来ほとんど知られていない地点もありますので、実際足を運ぶ際の手助けになればよいなと思います。
NOTE「蝦夷の土器、西へ」を掲載しました。
筑後国府跡から出土したいぶし銀色に光る謎の土器片、この土器の正体は?本文はこちらから。
NOTE「蝦夷の土器、西へ」のPDF版を公開しました。
好評をいただいた「蝦夷の土器、西へ」のPDF版のダウンロードはこちらから。
NOTE「民は波濤を越えて‐筑後川下流域の弥生社会‐」を掲載しました。
2012年度に企画したミニ展示をご覧になった田中正日子先生からご紹介いただいてまとめたもの。展示企画と執筆過程で、弥生時代における渡来人の往来、海辺の低湿地集落と山辺の集落との交易の問題など、自分なりのさまざまな視点が生まれました。その本文はこちらから。
OTHERS「装飾古墳ぬりえ 寺徳古墳」を掲載しました。
以前UPした「装飾古墳ぬりえ 珍敷塚古墳」に続くシリーズ第2弾、寺徳古墳のぬりえを掲載しました。筑後川流域の装飾古墳の基本パターン、奥壁に描かれた二段の同心円文を自由に塗ってみましょう(コチラ)。
CLUMN「日本茶の歴史」掲載しました。
依頼された「広報ひろかわ」のコラムとして執筆したものです。久留米市内の中世遺跡の調査では、数多く茶道具類が出土します。これは、八女茶の急速な普及を示しています。続きはこちらからどうぞ。
NOTE「ガラス瓶からくるめの近代化を探る」掲載しました。
城下町遺跡を発掘していると、戦前に廃棄された大量のガラス瓶が出土します。この廃棄物から近代の人々の生活が語れないか考えてみました。本文はこちらから。
ARTICLE「久留米城下『災害』の研究」を掲載しました。
久留米城下町に繰り返し発生した火災。史料からその出火、延焼の状況を分析し、城下町火災の実態に迫ります。都市災害を考える上でも興味深い成果が出ています。その内容はコチラから。
筑後地域文化誌『Agena Dogena』での連載が始まりました。
『Agena Dogena』第11号(2017年8月刊)
筑後地方の歴史文化について、さまざまな話題やストーリーを掘り起こしてきた同雑誌。第11号より3回シリーズで、「蒼海なき海軍王国‐幕末久留米藩海軍の挑戦‐」をお送りします。海に接しない久留米藩は、なぜ幕末に薩長肥に次ぐ規模の海軍をつくりあげることができたのか。廃藩置県後、その船たちはどうなってしまったのか。近年判明した新史料を中心に、久留米藩海軍の謎に迫ります。
■取り扱い書店菊竹金文堂六ツ門店 久留米市六ツ門町2‐28 TEL.0942‐34‐5411
ブックセンタークエスト(西鉄久留米駅Emax4階) TEL.0942-38-3311
ブックスあんとく本部 久留米市小頭町6‐21 TEL.0942‐34‐2670
※編集部から直接購入することもできます。お問い合わせは以下へ。
あげなどげな編集部 E-mail:muto_hisato@yahoo.co.jp
『西日本文化』第484号、久留米特集号が発刊。特集巻頭など2本執筆しました。
掲載されたのは、「『久留米』都市計画の系譜」「軍都久留米」の2本。都市としての久留米の成り立ちを端的にまとめてみました。雑誌『西日本文化』を発刊する西日本文化協会は、昭和34年(1959)に発足した九州北部の文化振興を中心事業とする伝統ある一般財団法人。福岡金文堂他で好評発売中。
新年あけましておめでとうございます。
筑後川旧流路から見た初日の出(福岡県久留米市小森野町)
本年もよろしくお願い申し上げます。
一年の計は正月にあり。以下は当面の活動予定です。
今月から、高良玉垂神社の神宮寺であった高隆寺跡で故古賀寿氏が採集された古瓦についての論考を執筆します。
2月には『Agena Dogena』誌に連載中の「蒼海なき『海軍王国』-幕末久留米藩海軍の挑戦(中)」が発行予定。同誌は今号から全国発売されるとのことです。もし興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひお手に取ってみてください。
3月末には、昨年発見した史料「筑後久留米本丸絵図(写)」を元に考察した「筑後国久留米城本丸石垣の普請」が発行される予定。こちらは、昨年12月16日に長崎県島原市で行われた「第4回石垣普請を学ぶ会」での発表内容がベースになります。
以降は、久留米藩海軍のその後を追った単行本刊行のための執筆活動に入る予定です。
今年も、当研究所は研究成果の公開を進めてまいります。
新年あけましておめでとうございます。
SERIES「蒼海なき『海軍王国』-幕末久留米藩海軍の挑戦-」を掲載しました。
『筑後地域文化誌Agena Dogena』(中南米マガジン社)第11号( 2017年8 月) 、第12号(2018年2月)、第13号(2018年8月)に連載した小文を一文にまとめ、再構成しました。
幕末久留米藩海軍については、戦前の浅野陽吉氏の研究以来取り上げられることがほとんどありませんでしたし、廃藩置県後の久留米藩艦船の行方についてはほとんど知られていませんでした。
本稿は久留米藩海軍史をダイジェストに捉えた初の試みと言えるかもしれません。その内容については、こちらをご参照ください。
OTHERS『大地に残る地震の爪あと(編著)』をリンクしました。
2016年に本業で作成した展示冊子。水縄断層系の活動に伴う地震痕跡をまとめたもの。まさか展示前に熊本地震が起きようとは夢にも思っていませんでした。久留米市も震度5強の揺れに見舞われ、夜中に職場に駆け付け、避難所開設に自転車で向かったことを思い出します。リンク先はこちら。
NOTE「久留米」都市計画の系譜を掲載しました。
久留米という都市の発生から展開、現代都市としてのスタートまでを概説した雑誌掲載の小文です。本文はこちらから。
NOTO「軍都久留米」を掲載しました。
明治22年(1889)4月1日、に全国30都市と共に日本初の市制施行した久留米市は、人口も面積も最小の市でした。その発展の契機を軍の誘致に見出した同市はその後どのような道を歩んだのでしょうか。当時の世相にも触れながらその歴史を概説します。本文はこちら。
SOURCE「小河吉右衛門褒状」(史料紹介)を掲載しました。
明治元年1月の参政不破美作暗殺を主導し、久留米藩尊攘派青年のリーダーとして活躍した小河真文。彼が元長州藩奇兵隊脱徒の大楽源太郎を久留米領内に潜伏させていたころの、献金者に対する褒め状の翻刻、解説を掲載しました。この翌年、尊攘派青年グループは大楽らを口封じのために殺害。明治4年久留米藩難事件へとして多数の逮捕者を出し、有為の人物が数多く失われることになります。その本文へはこちらから。
『大津遠太記録』を発刊しました。
「大津遠太記録」は、久留米藩御船手方(筑後川と中心とした海上輸送を取り仕切る役職)で藩海軍士官としても活躍した大津遠太(1831~83)の記録です。
この度、久留米市教育委員会所蔵の同史料を本研究所代表の小澤が翻刻して解題を附し、編集と監修を久留米大学文学部国際文化学科教授の吉田洋一先生にお願いしました。発行は、佐賀大学理工学部内に事務局がある低平地研究会と久留米大学比較文化研究所の連名です。
本書では、天保年間(1830~43)に藩校明善堂での修学事情から、嘉永 6 年(1853)に「小船頭並」として出仕後、明治 5 年(1872)の最後の航海(蒸気船千歳丸)までを収載する。幕末久留米藩の和船から蒸気船へ転換していく経緯、操船術伝授に関する佐賀藩との関係などを検証する上でも好史料です。
※同書は低平地研究会(LORA)・国際低平地研究協会のニューズレターでも紹介。 (IALT)https://www.lora-saga.jp/newsletter/NL99+100.pdf
A5版、本文78頁、表紙レザック仕上げ。非売品ですが、若干残部があります。内容にご関心があり、送料を着払いにてご負担いただけれる方は、rekikouken@gmail.comまでお問い合わせください。
ちくぎん地域経済レポートに特別寄稿しました。
西日本新聞朝刊に掲載されました。
サイト移転しました。
先週、2016年12月から利用していた無料のレンタルサーバー「ウェブクロウ」がサービス停止するとの通知がありました。
検討した結果、同社の「スターサーバー」に乗り換えることにしました。それに伴い、独自ドメインを取得。新たな気持ちで再出発します。
PCでの閲覧に加え、スマホでも広告が表示されなくなりました。 どうか今後ともよろしくお願い申し上げます。
SOURCE「有馬賴貴宛行状」(史料紹介)を掲載しました。
島原出陣の際の奮戦で知られる同名の先祖を持つ久留米藩士の伊藤武兵衛。彼を先手物頭に任ずる旨の藩主の宛行状を入手しましたので、翻刻して掲載します。料紙の紙質、型式、花押などの存在から、原本と思われる文書です。 その頁へはこちらから。
講演「久留米、まちづくりの系譜」の抄録が掲載されました。
令和3年3月25日に一般社団法筑後中小企業経営者協会(筑後中経協)の主催で講演しました。久留米の立地分析から、最初の都市筑後国府、中世都市府中、有馬氏入城後の久留米城下町の建設、明治維新後の軍都としての発展、そして久留米空襲によ壊滅的な打撃と戦後復興までを纏めました。会場は、ホテルマリエンターレ創世久留米。その抄録が同協会の機関誌『Link』vol.137に掲載されています。https://chukeikyo-c.com/wp-content/uploads/2021/07/LINK137.pdf
明けましておめでとうございます。
『比較文化研究論集』第42号に論文が掲載されました。
西日本新聞朝刊にコメントが掲載されました。
『比較文化研究論集』第43号に論文が掲載されました。
論考が掲載された久留米大学大学院の『比較文化研究論集』
昨年10月に発表した「久留米藩海軍の終焉」(『比較文化研究論集』第42号)の続編です。旧久留米藩海軍の旗艦だった「青龍丸(旧名千歳丸)」が廃藩置県以降、大蔵省に移管されて以降の動向を探りました。 アジア歴史資料センターがデジタルアーカイブスで公開する史料や新潟県立図書館所蔵の絵図を中心に、日本国郵便蒸気船会社へ払下げ以降の、特に再移籍先の郵便汽船三菱会社時代を中心に、同船の活動について論じました。
【タイトル】 郵便汽船三菱会社における「青龍丸」の動向 【目次】 はじめに 1 日本国郵便蒸気船会社時代 2 郵便汽船三菱会社への移籍 3 西南戦争への徴用と定期航路就航 4 史料に描かれた青龍丸 5 金玉均の亡命をめぐる問題 おわりに
『久留米大学大学院比較文化研究論集』第43号、比較文化研究論集編集委員会編、久留米大学大学院比較文化研究科、2022年3月31日発行
『ちくぎん地域経済レポート』に久留米城本丸御殿について特別寄稿しました。
掲載された『ちくぎん経済レポート』No.043、2022春季号
有馬氏の久留米入城400年を迎えた令和3年(2021)夏、久留米城本丸御殿の一部を発掘調査しました。その調査成果と石垣研究の現状について一般向けに解説しています。
【タイトル】 よみがえれ!幻の久留米城 -本丸御殿の発掘調査と近年の石垣研究から- 【目次】 1.はじめに 2.本丸御殿の発掘調査 3.久留米城は石垣の博物館 ①城主の変遷と石垣構築 ②石垣構築技術の違い 4.おわりに
『ちくぎん地域経済レポート』No.043、2022春季号、㈱ちくぎん地域経済研究所、定価1,100円(税込み) ※同誌のバックナンバーの表紙と目次については、以下のURLから閲覧できます。https://www.chikugin-ri.co.jp/backnum/index.php?storytopic=1読売新聞朝刊(筑後版)で研究成果が紹介されました。
『すこやか久留米』第17号に筑後国府跡について寄稿しました。
西日本新聞朝刊(筑後版)に研究成果が紹介されました。Yahoo!ニュースでも配信されています。
筑後国府跡についての講演が西日本新聞福岡県広域版へ掲載されました。
米軍作成の市街地地図と伝単について西日本新聞にコメントが掲載されました。
幕末久留米藩殉難十志士の慰霊祭が旧藩主有馬家によって催され、コメントが読売新聞に掲載されました。
NOTE「筑後川と千歳川‐その名称をめぐって‐」(上)をアップしました。
九州一の大河筑後川。筑紫平野を貫く母なる川の名称問題について、様々な資料から検討しました。従来言われているように、本当に筑後川の古名は千歳川なのか。また、江戸時代の幕府の裁定以降、果たして流域全体で筑後川と呼ばれるようになったのか。興味をもたれた方は、以下のリンク記事へお進みください。
YouTube「筑紫君磐井の乱の実像に迫る」好評配信中!
福岡県立九州歴史資料館企画でRKB映画社制作のYouTube動画がアクセス数を伸ばしています。日本古代国家の形成過程における大きな画期である磐井の乱をテーマにした第1期全4回の番組。配信から1年弱。4回で5万回視聴という同館のYouTube動画史上ダントツの人気シリーズとなっています。私はその第1回目に登場します。磐井の乱の背景に関する私説や、久留米市大善寺町宮本所在の御塚・権現塚古墳、大善寺玉垂宮の鬼夜などについても解説しています。
YouTube「筑紫君磐井の乱の実像に迫る」第1回へはこちらから。
拙編著『熊本・久留米俘虜収容所の風景』好評発売中!
第一次世界大戦から110周年の今年、よみがえるドイツ俘虜たちの生活。久留米大学御井図書館所蔵で初公開の写真資料219点を一挙掲載!
久留米大学教授の大庭卓也先生と小澤の共編著で、この度出版された『熊本・久留米俘虜収容所[1914-1920]の風景ーあるドイツ将校の写真帖でたどる』花書院、2014年3月20日刊・B5判横丁・140頁、定価2,000円+税。
中国・青島で捕虜となった5,000人近い俘虜の一人、エドゥアルト・ヴィル予備少尉が大切に保管していた熊本・久留米俘虜収容所で撮影された写真475点のなかから219点を厳選、解説を加え、更には特論や収容所規則類などの基礎資料も翻刻して収録しています。
写真のうち、17点については服飾などの時代考証を踏まえカラー化を試みました。100年の時間を一気に埋めるリアルな仕上がりもお楽しみください。
【内容目次】 はじめに/エドゥアルト・ヴィル旧蔵資料について 大庭卓也 第1章 熊本俘虜収容所写真帖 大庭卓也 第2章 久留米俘虜収容所写真帖 小澤太郎 〈特論〉久留米俘虜収容所の食生活 小澤太郎 〈資料〉久留米俘虜収容所規則類(大正6年改正分) 小澤太郎
なお、ご購入については以下の花書院の特設サイトをご覧ください。https://www.hanashoin.com/kumamoto_kurume_furyo/