久留米城下「災害」の研究

小 澤 健 ・ 小 澤 太 郎

作品タイトル

ありし日の久留米城本丸(画/小澤 健)

Ⅰ.はじめに
 久留米市篠山町にある久留米城は、別名篠原城とも呼ばれます。元和7年(1621)に有馬氏が丹波福知山から21万石の大名として入城し、城と城下町を整備しました。その後、明治4年(1872)の廃藩置県で城は取り壊されますが、現在の久留米市街地の基本的な姿は、城下町として整備された江戸時代に造られたのです。現在の久留米の街を知るには、江戸時代の城下町のことを知らなければならないと思います。
 関ヶ原の戦い以降、徳川300年の長く平和な世の中で、城本来の“敵からの防衛”という役目は薄れていきます。前回の研究(文献13)でも、平和な時代に造られた久留米城が、防衛よりも、格式や見栄えを重要視して造られたのではないかという結論になりました。では、久留米の城と城下町に住む人々は、平和な時代を平穏に暮らせていたのでしょうか。
 資料を調べていくと、平和な時代の久留米城下を襲った「敵」は、災害だったのではないかと思えてきました。記録が残る寛文4年(1627)以降、慶応3年(1868)までの241年間に、合計82件の洪水や火災、地震、暴風などが城下を襲っています。その中でも特に目につくのは火災です。火災は木造建築物が集まる城や城下町にとって、大変脅威だったことが想像されます。例えば、江戸城は明暦の大火(1657)で、天守・本丸・二ノ丸・三ノ丸が焼失しています。この後、江戸城天守は再建されませんでした。近隣の城では肥前鍋島家の佐賀城があげられます。享保11年(1726)には、城下から出火し、天守・本丸・二ノ丸・三ノ丸が延焼し、その後の天保6年(1835)には再び二ノ丸が焼失しています。 
 また、城の火災は、特に天守は落雷が原因であるものも後をたちませんでした。例えば慶長7年(1601)に焼失した金沢城や、寛文5年(1665)の大坂城は代表的な例です。
 なお、久留米城の外堀とされる天然の要害である筑後川は、一方で毎年のように洪水を引き起こすことから、「暴れ川」として有名な川でした。以下では、久留米城と城下町を襲った災害、特に火災と水害についての調査をまとめました。

図1 天保時代久留米城下町図(文献8に加筆

Ⅱ.久留米城と城下町
 久留米城は、現在の久留米市篠山町・城南町一帯にあります。別名、篠山城・篠原城とも言われる、連郭式の平山城です。
 久留米城が最初に築城されたのは永正年間(1504~20)。その後、天正15(1587)年、豊臣秀吉の九州平定後、毛利秀包が入城しました。この頃の久留米城は現在本丸東側にある蜜柑丸が中心で、この東側が正面になる造りだったようです。次に慶長5(1600)年には、田中吉政が筑後一国の大名として入城します。しかし、吉政は柳川城を本城にしたため久留米城は支城の1つとなりました。その後、元和元(1615)年の一国一城令により久留米城は廃城となりました。現在の形になったのは元和7(1621)年、有馬氏が入国してからです。初代の有馬豊氏は入国してすぐに久留米城の大改修を行い、4代藩主有馬頼元の頃にようやくすべての整備・改築を終わらせました。
 有馬家が改築した久留米城は、北側に本丸、その南に二ノ丸・三ノ丸・外郭・城下町(防衛の施設としては侍屋敷や寺町など)を置いていました。また、北・西側は筑後川を天然の外堀とし、北・東側は川との間に広がる湿地帯を利用して防衛していました。東向きの城を拡張する際に南向きの連郭式に変更したのは、西・北・東側に天然の要害があり、城郭と城下町を広げられなかったからだと思います。
 本丸は巽櫓をはじめとする7つの櫓を二重の多門櫓で取り囲み、本丸御殿を内部に配置したものでした。連立式天守の代表例の名古屋城に似ていて、その発展形態といえると思います。つまり、21万石にふさわしい重厚で風格のある本丸だったのです。
 城下には、東西に延びるメインの通町筋を軸として、京隈小路・庄島小路・櫛原小路・十間屋敷・鉄砲小路・寺町といった、敵の攻撃を受けた際の防衛拠点が数多くありました。これらは、久留米城の南側を守るような配置になっています。
 つまり、筑後川の重要な川港である南西側の瀬下町から通じる道には、京隈侍屋敷が接しています。久留米・柳川往還に繋がる南側からの道には、庄島小路と十間屋敷がありました。また、日田街道に繋がる東側からの道には、櫛原小路・十間屋敷・鉄砲小路と寺町が接していました。これらの武家屋敷に囲まれる形で町屋が存在します。
 『福岡県の地名』(文献9)によれば、城下町の中心部分には今町・築島町・魚屋町・亀屋町・池町・鍛冶屋町・細工町・呉服町・両替町・田町・米屋町・原古賀町・三本松町・紺屋町・新町・通町といった町が並んでいました。これらは、前述した通り武家屋敷に囲まれるような形で配置されています。前述した瀬下町も港町として城下の南西に接していました。また、今町から通町までは東西に細長く配置されており、町屋を東西に貫く大通りが数本存在しました。南北に細長い原古賀町や、武家屋敷と町屋をつなぐ大通りも南北に数本ありました。通町八~十丁目までの大通りは、享保3年以降、幅4間(7.2m)ほどに拡幅変更されました。それでもこの数値は通りを挟んで向かい合わせに面する間口と間口の幅なので、現代の通りの景観より、ずいぶん狭く感じられたと思います。
 池町というのは、途中から移転し消滅した町の名前です。この町に面して、池町川という川が流れています。城下町の中心部に近い町は、この池町川が形成した谷を埋め立てて造成されています。「築島町」という名称からわかるように、土地を埋め立てたことがそのまま町名になった例もあります。重要な川港である瀬下町も、砂を埋め立てて造られた町で、寛永20(1643)年から工事が開始され、数年がかりで完成しました。そのため、久留米の城下町は、城の本丸の標高が一番高く、二ノ丸・三ノ丸・外郭・城下町と、徐々に標高が低くなっていました。

グラフ1 災害の種別割合(n=82)

Ⅲ.災害の記録
 今回、久留米城下の災害を知るために、次の文献史料から事例を集めて調べました。
 「古代日記書抜」(文献10)
 「米府年表」(文献2)
 『石原家記』(文献3)
 「米府記事略」(文献5)
 『久留米市誌』上巻(文献6)
 『加藤田日記』(文献7)
 その結果、久留米城下町に起きた各種災害は82件。3年に1回は大なり小なりの様々な災害に襲われていたという計算になります(巻末付表参照)。
 この災害を、種類別に表しました(グラフ1)。
 この中で、一番目につくのが「火災」です。82件中45件(55%)と、他の洪水、暴風、地震、落雷などの数を大きく離しています。また、大火ともなると城下町の大半を焼き尽くしました。久留米城下最大最悪の災害は「火災」と言ってもいいかもしれません。
 続くのは「洪水」です。22件(27%)と、比較的多く発生しています。また、火災ほど内容が詳しく記録されていませんが、濁流が1mを超える高さまで流れ込んできたりすることもあったようです。その被害は決して小さくは無かった、といえるでしょう。
 また、その他の暴風(8%)・地震(6%)・落雷(4%)なども、件数こそ少ないですが、家屋が倒壊したり焼失したり等の被害を城下に与えています。
 このように、調べてみると火災以外にもたくさんの天災・人災に襲われているということが分かりました。ただ、それでも久留米城の中枢部分にはほとんど被害がありません。ますます不思議です。
 以下では、発生件数が多い火災・洪水の例を挙げながらその特徴について分析していこうと思います。

Ⅳ.災害の事例
(1)火災
 ここでは、詳しく災害の様子が記録されている火事をいくつか取り上げてみました。それぞれの火災被害図は、「天保時代久留米城下図」(文献8)をベースに、「米府紀事略」巻之十八(文献5)の記載内容を元に作成しています。
 「米府記事略」には火災の範囲、被害件数、火災の被害にあった家(武家屋敷・城内のみ)の当主の名前や、被害にあった町名、役所施設、寺名、更には出火元や出火の理由、被災した武家への見舞銀の額、町方への救済米の量などについて、書いてあります。これらの情報を元に、武家屋敷は天保図等の城下絵図に載っている屋敷の名前と突き合わせて、特定された屋敷を着色しました。お家断絶や屋敷替えなどの理由で特定できなかった屋敷については、着色していません。また、町屋については、はっきりどの家が被害にあったのか分からないので、町単位で着色しています。

a.寛文7年7月17日火事(1667年)
 長町(後に通町)二丁目横町の借家より出火。長町二丁目・三丁目・紺屋町・新町・十間屋敷へと延焼。町屋は計106軒、十間屋敷も9軒焼失しました。

b.元禄9年2月8日火事(1696年3月11日)(図2・写真1)
 2月8日朝四つ、庄島立丁観音寺角の塗師白石仁右衛門宅より出火。南西からの大風も吹き、北側の田町・池町・細工町・米屋町・鍛冶屋町・今町・魚屋町・呉服町・両替町の大半が焼失しました。その東側、片原町から長町三丁目までと、中町筋・紺屋町・三本松町・原古賀町・清福寺までも類焼し、櫛原侍小路・十間屋敷・寺町は全焼します。また、鉄砲小路・櫛原村入口や、城内(外郭)にも被害がありました。城下の東半部を焼き尽くし、「米府年表」(文献2)では3、700軒焼失とされています。「白石火事」と呼ばれています。被災者となった家臣や町方には救済のための銀や米が支給されています。

図2 白石火事の火元と延焼した範囲

写真1 白石火事の火元の現在の様子

c.宝永2年1月17日火事(1705年2月10日)(図3・写真2)
 櫛原小路五番目筋の湯山庄右衛門宅より出火。櫛原侍屋敷を南へ燃え広がり、長町へ出ると通り沿いに東西方向へ燃え広がりました。長町一丁目~四丁目、中町一~三丁目、紺屋町、十間屋敷(6軒)が焼失しました。町屋まで含めた被災家屋は数百軒にのぼったといいます。被災者には、救済銀と救済米が配られました。「湯山火事」と呼ばれます。

図3 湯山火事の火元と延焼した範囲

写真2 湯山火事の火元の現在の様子

d.享保11年3月4日火事(1726年4月5日)(図4・写真3)
 城内(外郭)田代三郎右衛門宅から昼八つ頃出火。北風が強く南西方向に燃え広がり、両替町・魚屋町・今町・呉服町・鍛冶屋町・田町・池町・三本松町の半分・築島町・紺屋町・原古賀町・庄島小路が広く類焼しました。いわゆる「田代火事」です。火元の田代三郎右衛門は、役職を解かれた上、津福村の下屋敷に閉門、その後、櫛原小路に屋敷替えさせられています。

図4 田代火事の火元と延焼した範囲

写真3 田代火事の火元の現在の様子

e.宝暦5年3月26日火事(1755年3月26日)(図5・写真4)
 昼九つ、縄手小松原(京隈小路)の小林治兵衛宅より出火。娘の法事のための油揚げを料理していた鍋に引火したようです。南西の風がはげしく、京隈小路一番目~三番目筋の58軒、城内(外郭)14軒、町屋100軒に類焼しています。「小林火事」と呼ばれています。被災家臣には救済銀が支給されました。

図5 小林火事の火元と延焼した範囲

写真4 小林火事の火元の現在の様子

f.文政11年8月9日火事(1828年9月17日)(図6・写真5)
 夜半頃から大雨大風となり、城内や城下で建物の倒壊や破損、倒木の被害が拡大していました。夜八つ頃、十間屋敷の岡部五郎宅より出火。十間屋敷(7軒)、中町、通町、櫛原小路(35軒)に類焼しました。同夜にも庄島小路桑山門蔵居宅より出火。桑山家では4人が焼死しましたが、類焼がなかったようです。この日は長崎県西彼杵半島にいわゆる「シーボルト台風」が上陸していたようです。図6からも分かるように、南からの猛烈な風により北へ直線的に一気に燃え広がったとことがわかります。「文政の火事」と呼ばれます。

図6 文政の火事の火元と延焼した範囲

写真5 文政の火事の火元の現在の様子

g.文政12年2月6日火事(1829年3月10日)(図7・写真6)
 「文政の火事」のわずか半年後、庄島小路石橋丁の御徒士組石井龍太郎居宅より九つ頃出火。この日も坤(南西)の風が強かったようです。庄島小路(35軒)・片原町・通町・細工町・鍛冶屋町・呉服町・池町跡・米屋町・新町(町屋合計335軒)・城内(外郭11軒)・櫛原小路(62軒)・鉄砲小路(3軒)・寺町に広く類焼しました。火の粉は、遠く筑前領や肥前領にまで飛んでいきました。藩からの救済銀は、銀壱貫三百目の吉田式衛と中川軍平を筆頭に、下は人足の七匁五分まで、身分と地位ごとに額が細かく分けられ給付されました。なお、火元の石井龍太郎については、謹慎を申しつけられました。

図7 文政の大火の火元と延焼した範囲

写真6 文政の大火の火元の現在の様子

(2)水害
a.享保5年6月21日洪水(1720年7月26日)
 雷を伴う大雨により、筑後川沿いの瀬下町では蔵なども含め20軒ほどが流失。通町・中町・細工町・米屋町も浸水しました。瀬下町の又八家は、家の棟木が八代(現在の熊本県八代市)まで流されたといい、それに結びつけてあった店の帳面が、船で送られてきたそうです。

b.安永8年8月5日大洪水(1779年9月14日)
 5日夜に筑後川の小森野堤が4ヶ所決壊。そこから城内に水が入り、魚屋町・呉服町・鍛冶屋町・三本松町辺りまで浸水します。魚屋町付近は軒先まで水につかったようです。6日より晴天、水が引き始めます。この洪水は、3日頃から大雨が降り続いたために起こった様です。

c.享和2年5月26日大洪水(1802年6月24日)
 26日夜八つ頃から始まりました。三本松町・紺屋町・原古賀町・鍛冶屋町・細工町・呉服町・田・町が浸水。低いところでは床上まで水がきたと言われます。久留米城の土塁も11ヶ所が損壊しました。

d.天保9年6月28日大洪水(1838年8月17日)
 小森野口御門・石場口・櫛原作門の3ヶ所が流失し、外郭大手門前まで水がせまりました。深さ4.5尺(約1.36m)。また、築島町・田町・今町・魚屋町・呉服町・細工町・米屋町・鍛冶屋町・三本松町・両替町も浸水。床上2、3尺(約60~90㎝)にもおよびました。瀬下町に至っては損害が大きく、米や塩、薪などが全て流れ、庭園などもことごとく浸水したそうです。この洪水では、26日から断続的に大雨が降っていたようです。

e.安政7年7月8日(1860年8月24日)大洪水
 夜九つ頃より水かさが増し、今町・魚屋町・田町・呉服町が浸水しました。9日八つ頃に高野土居3ヶ所が崩れ、七つ頃には櫛原作門が流失して三本松町まで水が流れ込みました。道路が復旧し始めたのは10日頃のようです。

表1 藩の災害対策年表

Ⅴ.藩の災害対策
 久留米藩は、これらの災害についてどのような対策をとっていたのでしょうか?大きく、「建設」・「設備」・「法令・制度」の3つに分けて考えることができます(表1)。
 まず、建設についてです。火災の後に城下町の構造が変更された例があります。例えば、延焼を防ぐために、空間を広くすることが挙げられます。両替町北の広手は、享保11年の田代火事の後に、町屋を移転して設置されました。恐らく、大手門前の空間をあけることで城への類焼を防ぐ目的があったのだと思います。この火事では、他にも対策がされています。池町は小頭町に移し、跡地を馬場にしています。また、紺屋町二丁目は原古賀町へ移転し、硝煙蔵の防火対策のため、京隈小路の一部が櫛原小路へ移転しています。それに先立つ享保3年に長町九丁目から出火して、八丁目寺町口から十丁目までが焼けた火事では、その後九丁目・十丁目の通りの幅が拡げられています。これも延焼を防ぐ効果を狙ったものだと思います。
 水害についても、頻繁に水害に遭う城内柳原の侍屋敷を延宝4年に京隈小路に移転させたり、城内外郭の堀を浚渫して土居を高くしたりするといった対策が取られています。
 次に、設備についてです。効果のほどは分かりませんが、寛文8年(1668)には、本丸・二ノ丸・三ノ丸等の城内に火用心桶を設置していました。城下にも各町ごとに設置していました。全部で8ヶ所×30個、計240個にものぼります。また、文政12年の大火の後は、城下の8ヶ所に長さ3丈の火の見梯子と喚鐘を造るなど、久留米藩が決して火災に対して指をくわえて見ているだけでは無かったことが分かります。
 最後に、法令や制度です。繰り返しされていたのは火消し役人の仕事に関する事です。火消し役人は、出火の際にいち早く現場に向かうことが要求されました。その作業を邪魔しないようにというものです。また、城の防火対策も万全でした。「御旧制調書」には、「(前略)小森野村あるいは肥前領にても、御城間近く風悪敷き節、追手御門(大手門)前へ、火消し相集め置き、指図次第御城内へ入り込み候」とあります。つまり、久留米城下町に隣接した現在の久留米市小森野や対岸の鳥栖市付近が火災にあった場合、風向きが悪ければ、普段城内に入れない町火消しを大手門前に待機させ、必要に応じて城内の火災に対応できるようにしていたのです。
 また、「御旧制調書」にはクド(竃)改めについて書かれています。火の元になる竃に対して、藩は「毎年十月、火の元用心のためにクド改め、組足軽差し出し候、かつ鍛冶・白銀(シロカネ)師・風呂屋など新たに願い出候節、火床取り建て候上相改め候」というお触れを出しています。この成果なのか、この文政年間以降は、10~12月の火災は0件です。

表2 放火に対する処罰の例

 なお、放火犯罪に対して、藩はとても厳しく対処したようです(表2)。火付け犯は、子供といえども火炙りの極刑に処された例もありました。一方、大火で被災した家臣や町屋へは、見舞金や米を支出し、その救済にも努めました。

グラフ2 町ごとの浸水被害と出火・延焼件数

図8 侍屋敷、町ごとの出火件数(丸数字)、延焼傾向(朱色濃淡) 

Ⅵ.分析とまとめ
(1)火災
a. 地域別火災の出火・延焼の傾向(グラフ2・図8)
 久留米城下町で起きた火災45件を集計しました。城下町を地域別(侍小路・町屋別)に分けて件数をまとめています。グラフ1での地域名は、概ね地図上の西から東と対応するように左から右に並べています。
 このグラフから読み取れることは、3つあります。
 1つめに、出火件数の傾向です。出火件数が特に多い場所は4ヶ所あります。西側にある瀬下町・京隈小路と、中央付近にある城内外郭。南側にある庄島小路・原古賀町。東側にある新町・通町・鉄砲小路・十間屋敷・櫛原小路です。中でも久留米城下では、城下周辺部の西・南・東の三方向から出火することが多かったようです。
 2つめに、延焼件数の傾向です。グラフ2の青い棒グラフが延焼件数ですが、西から東へ向かうほど、延焼件数が多くなっていることが分かります。延焼頻度は、東側に偏っているといえます。
 これらは、図8で見るとより鮮明に分かると思います。出火件数は瀬下町や櫛原小路、原古賀町などが目立ちます。また、延焼件数も色の濃淡で表していますが、東側に行くほど色が濃くなっているのが分かります。

グラフ3 季節別出火件数(左)  グラフ4 季節別出火割合(右

b. 季節別出火件数(グラフ3)・季節別出火割合(グラフ4)
 グラフ3では、武家屋敷と町屋、城内の季節別出火件数を表しています。このグラフで分かる通り、春と秋に出火件数がとても多くなります。また、グラフ4ではその内訳を割合で表しました。これにより、町では、春先から増加傾向にあり秋がピークであること、武家屋敷では、春がピークで冬へ向けて減少傾向となることがわかりました。

グラフ5 町ごとの間口の広さと火災の関係

c.間口の広さと火災の関係
 さらに、町ごとの間口の広さと火災の関係をみていきます(グラフ5)。出火件数と延焼件数を表示したグラフに、「啓忘録抜萃」(文献8)から計算した町毎の間口平均値を重ねてみました。結果、間口が広い大店が多かった亀屋町や両替町・紺屋町などでは、出火もなく延焼件数も低いようですが、比較的間口が広い瀬下町や原古賀町、新町・通町でも出火と延焼件数は少ないとはいえません。また、逆に間口が狭い魚屋町や池町・田町などでも出火や延焼件数は多いとはいえません。間口の広さは、出火と延焼にはあまり関係ないのでしょうか。

グラフ6 久留米市の風向きについての気象統計(文献14)

d.火災のまとめ
 以上、いくつかの分析をしてきましたが、このような傾向が出るのは、一体何故なのでしょうか。今回、『久留米市史』第1巻(文献14)より、これらの謎を解く資料を見つけました。それは、久留米市の風向きについて明善高校天文学部(昭和50~52年2月まで)・久留米市消防署(昭和53年)が調べた研究の結果です(グラフ6)。
 この資料の中で、明善高校天文学部の調べでは、北東風が31,8%、次いで北風が20,7%、東風が16.6%となっています。また、12月から2月までの期間は風の日が少なく、3月から11月にかけて風の日が多いと言うことです。ただし、この結果にはモンスーン(季節風)による風向きの影響が記されていないため、結果は必ずしも正確では無いかもしれないということも書かれています。
 では、久留米消防署の調べはどうでしょう。これについては、モンスーンによる影響もしっかり出ています。1日2時間おきに12回計測していたそうです。結果、北風が27.9%、次いで北東風が26.6%、南風が17.8%、南西風が12.0%となっています。
 これら2つの調査で、北東風と北風が久留米の風向きで一番多いことが分かります。
 筑後平野は有明海に接しており、春から秋にかけての季節は、強い風が有明海から吹き込むことがあります。つまり、南西から北東へ突き抜ける風です。冬になると先述したように、北東から北よりの風が頻繁に強く吹きます。久留米城は城下全体からみて北西側にあるので、城下で火災があっても、これらの特徴的な風向きによって免れるのではないのでしょうか。
 例えば、元禄9年2月28日(1696年4月1日)の火事です(図2)。庄島小路より出火していますが、延焼した場所を検証してみると、北東方向に火の手が広がっていることが分かります。また、文政12年2月6日(1829年3月10日)の火事でも(図7)、北東の方向に火の手が広がるという特徴が顕著に表れています。季節や風向きから、この風は「春一番」であると考えられます。
 次に、台風がもたらす強風によって一気に燃え広がる例です。文政11年8月9日(1828年9月17日)の火事がそれにあたります(図6)。この日は「シーボルト台風」(文献15)と呼ばれる九州・中国地方に大被害を与えた台風が九州に上陸していました。この台風から反時計回りに吹く南風にあおられて、一気に北へ炎が燃え広がったと考えられます。
 ちなみにこの台風は、日本で初めて近代的な気象観測がされた台風で、有名なシーボルト事件の引き金となった台風です。この台風は、九州の西側を時速55キロメートルの速さで北上して、長崎上陸時の中心気圧は900~930hPaにのぼりました。九州の西側を通るコースというのは、筑紫平野に位置する久留米にとっては、最悪のコースです。強い南風により、内海の有明海沿岸でも高潮を引き起こし、肥前領でも大変な被害をもたらしました。
 また、筑紫平野は広く、その南風を遮るものが無いため、当日は、久留米城下にも強風が吹き荒れていたのだと思います。実際は、台風が西側コースを通ることは少なく、この火災の風向きは、非常に珍しいものでした。
 これらの火災の例から、久留米城下町の燃え広がる状況は、やはり、季節風をはじめとする風向きの影響によるものであることが分かります。
 そうした中で、久留米城が火災の被害に遭わなかった大きな要因は、風向きによる火災の延焼方向に久留米城が入っていないことではないかと思うようになりました。先述したように、久留米城は城下の北西側に位置していて、グラフ6の久留米の風向き統計図でも、最も風が吹く例が少ない北西~南東の軸上にあります。もう一度進路を確かめてみます。
 享保11年の田代火事では、城内・外郭から出火しましたが、北風にあおられて南側の城下に燃え広がり、本丸・二ノ丸・三ノ丸は全くの無傷でした。文政11年の大火でも、十間屋敷から出火しましたが、台風の風によって北にあおられたものの、またしても城は無事でした。文政12年の大火でも、庄島小路から出火しましたが、南西の風だったため、城への影響はありませんでした。やはり、久留米城は城下で火災が起こっても、久留米における風向きの特徴から、その延焼方向に位置していなかったといえるでしょう。
 また、風向きの他にも城下町の延焼の仕方に関係する要因がありました。それは、東西や南北に長く延びる「通り」の存在です。通町などでは防火対策で多少通りの幅が拡げられたりはしましたが、城下全体を通しては幅4.5m以下の狭い通りがたくさんありました。この通りが、炎が走る「道」になっていたようなのです。

図9 通町十丁目にあった町屋の間取りの例(文献12)

 『米府紀事略』に、火災の際通りを炎が走る様子を連想させる資料がありました。久留米の町屋は、『田中近江大掾』(文献12)に掲載された図9のように、基本的には間口が狭く、奥行きのある「鰻の寝床」状の細長い敷地になっています。建物は通りに面して木造の母屋があり、中庭があって、通りから一番離れた奥に裏屋と土蔵があるという造りでした。火事の際には、家全体ではなく、通りに面した「母屋」を中心に焼失していたようなのです。例えば、文政12年の火事で被害に遭った家の件数を記した史料がありました(「米府紀事略」巻之十八(文献5))。そこには、焼失した本家(母屋)、蔵、裏屋の3種類ごとの焼失件数が出ています(表3)。結果、ほぼ全ての町で母屋の焼失数よりも極端に裏屋・土蔵の焼失件数が少ないのです。

表3 文政12年火事における建物種別ごとの焼失件数 

 表3から、焼失軒数の割合を出してみました。母屋の焼失件数を1とした場合の土蔵・裏屋の百分率を表しています。結果、土蔵は16.7%、裏屋に至っては11.9%と、約15%程にすぎません。土蔵は基本的に瓦葺きですが、裏屋は母屋と同じ木造です。通りから離れ、小さな中庭があるだけで、被災状況に大きく違いがでていました。
 すなわち久留米城下町の火災では、通りが炎の走る道となり、通りに面した母屋を巻き込みながら火災が広がって行く様子が想像されます。そのために、母屋の焼失件数が割合としてとても多いのではないでしょうか。
 密集する木造家屋が火災に遭った際の様子は、昭和20年の久留米大空襲の記録でより鮮明に知ることができます。『久留米市史』第3巻(文献11)に、このような記述があります。「(焼夷弾が落下すると)一挙に黒煙が吹き、火が走り、たちまち市街地は火の海と化した。熱気のために猛烈な上昇気流で、各地に竜巻が起こり、強風にあおられて、火炎を吹く材木が回転しながら上空に吸い上げられ、やがて四散して落下し、延焼していった。」
 文政12年の大火でも、城下町を焼き尽くした炎は、筑後川の対岸で北東に位置する五郎丸(久留米市宮ノ陣)で2軒に飛び火し、また火の粉は北東 約18㎞の筑前甘木町(朝倉市)、北約12㎞の田代領基山口(基山町)にも飛び、所々を焼き付けたといいます。
 これらの記述から、城下町のような木造家屋密集地域での火災は、上昇気流を巻き起こして、とても遠くの地域にまで被害が広がるものであったと言えると思います。
 また、久留米城本丸が火災に遭わなかった理由としては、元和元(1615)年に出された武家諸法度以降の「平和な時代」に造られたために、幕府の規制を受けて、天守をつくることができなかったことも挙げられるのではないでしょうか。つまり、金沢城のように高層建築の天守が落雷で焼失するリスクも低かったというわけです。木造建築が密集する城下町とは異なり、久留米城は、地理的・構造的な要因や、藩の対策で、火災から免れていたのです。

(2)水害
 水害の被害に遭いやすいところと遭いにくいところの違いは、主に標高にあります。
 前に述べたように、久留米城下町は池町を中心とした谷状の構造をしています。そのため、池町川に近い町屋は浸水被害が比較的多くなっています。また、瀬下町も筑後川に接していて、埋め立ててもなお標高が低いために浸水被害が多いです。しかも、これらはいずれも川にとても近い場所にあります。降水量が多くなり川が決壊した場合、一番に被害に遭うのはこれら町人が住む町屋なのです。
 ただ、洪水についてはどれも記述が曖昧であったり、大雑把にしか残っていなかったりと、資料がとても少ないといえます。そのため、久留米城下町の洪水被害の分析については、今後の課題になります。

図10 久留米城下町危険度マップ

Ⅶ.久留米城下町危険度マップ
 今回、更に「危険度マップ」というものをつくってみました(図10)。通常、危険度マップは、火災のみであったり、洪水だけであったりと1つの災害の危険度を表します。今回は、火災と水害についての集計と分析を踏まえて、久留米城下町のどこが安全で、どこが危険な地域だったのかが分かるように表してみました。
 このマップは、火災の出火件数・延焼件数・浸水件数それぞれの危険度を4段階に区分し、それを重ね合わせています。危険度が高い方が赤、低いと薄い黄色になります。城内に関しては、浸水場所がはっきりしていないために比較ができず、危険度マップからは外しています。そのため城下町だけの危険度マップになりましたが、それでも久留米城下の傾向はつかめそうです。
 その結果、一番安全なのは京隈小路です。ここは、比較的高い場所にあり、かつ主に火災の広がる延焼方向から大きく外れているので、出火さえしなければ、水害被害にもあわず、とても安全な地域だと言えます。
 逆に、洪水被害に遭いやすい城下町の中央部・西側と、延焼被害が多い東側は、同じくらいに危険度が高くなりました。それぞれ、立地や自然条件により別々の災害に遭いやすい特徴を持っています。

参考文献
〔史料〕
・1「古代日記書抜」(『久留米市史』第2巻、近世、久留米市史編さん委員会、1982年引用)
・2「米府年表」(『久留米市誌』下巻、久留米市役所、1932年所収)
・3『石原家記』(石原為平著)、筑後史談会、1941年。
・4「啓忘録抜萃」(『久留米市史』第8巻、資料編近世Ⅱ、久留米市史編さん委員会、1993年所収)
・5「米府紀事略」(『久留米市史』第9巻、資料編近世Ⅱ、久留米市史編さん委員会、1993年所収)
・6『久留米市誌』上巻、久留米市役所、1932年。
・7『加藤田日記』(加藤田平八郎著)、久留米資料叢書5、久留米郷土研究会、1979年。
〔久留米城下町絵図〕
・8『久留米市史』第2巻、近世、付図(天保図)、久留米市史編さん委員会1982年。
〔久留米城下町の地名・概要〕
・9『福岡県の地名』日本歴史地名大系第41巻、平凡社、2004年。
〔近世・近代久留米城下町の火災〕
・10『久留米市史』第2巻、近世、久留米市史編さん委員会、1982年。
・11『久留米市史』第3巻、近代、久留米市史編さん委員会、1985年。
〔久留米城下町の町屋の構造〕
・12武藤直治『田中近江大掾』田中近江翁顕彰会、1931年。
〔久留米城〕
・13 小澤 健『久留米城「縄張」の研究』第11回「城の自由研究コンテスト」優秀賞受賞論文。
〔久留米の気象〕
・14『久留米市史』第1巻、久留米市史編さん委員会、1981年。
〔シーボルト台風〕
・15 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(2014年9月9日参照)
〔城郭〕
・16 中村 均・三浦正幸監修『よみがえる日本の城21-肥前名護屋城-』、学研、2005年。
・17『精選日本の名城』新人物往来社、2006年。
・18 三浦正幸監修『決定版・図説天守のすべて』、学研、2007年。
〔江戸時代の火災〕
・19『ビジュアル・ワイド 江戸時代館』、小学館、2002年。
・20 竹内誠監修『一目で分かる江戸時代』、小学館、2004年。

付表 久留米城下町を襲った災害

 

*第13回「城の自由研究コンテスト」日本城郭協会賞受賞論文を一部加筆修正、一部図版等省略。
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