岩戸山と今城塚-二つの前方後円墳における平面形態の比較試論-

小 澤 太 郎

岩戸山古墳の別区に並ぶ模造石人(福岡県八女市大字吉田)

1.前方後円墳における平面形態の比較についての研究略史と本稿の視座
 前方後円墳の平面形態の研究については、戦後すぐに発表された上田宏範の作業[上田1950]が出発点となる。上田は、幾何学的な墳丘の形状から高度な設計技術の存在を想定し、次のような操作を行なった。すなわち、後円部直径を6等分した長さを一単位とし、前方部の隅角稜線が古墳中軸線と交わる点で前方部を後長と前長とに分割、それぞれの整数比を求める方法によって、前方後円墳を8型式に分類した[上田1996]。
 以来、築造企画性に関する先学の研究は数多く行なわれている*註1。代表的なものには、後円部径を8等分した1 単位を基準(区)とし、前方部の長さを5~8区に分類する方法[宮川1983]等がある。いずれの研究者も、前方後円墳は成立の当初から一貫した計画的築造企画に基づいて築造されたとする点では、一致した認識を示しており[北條1986]、注目される。しかし、それぞれの研究者が独自に仮設した基準によって形式分類し、平面形態の変遷を追及している状況があり、このような、多様な分析方法と指向性は研究全体を分かりにくくしている[柳沢1995]との指摘がある。
 一方、北條芳隆は、築造企画性に関する先学の研究方法に、次のような疑問を提示した[北條1986]。すなわち、資料的な制約によって、それらの研究が対象とした前方後円墳の全てが発掘調査をし、墳丘各部の計測値が確定しているわけではない。ゆえに、計測値が確定しないまま推計・復元作業を行なえば、更に推論を重ねることになる。そして、そこから発生する不確定要素が付加されることで、分析の有効性が低下してゆくのである。このような方法論的な限界を踏まえて北條が採用したのは、任意に拡大縮小させた墳丘測量図を直接重ねて、前方後円墳の平面形態を比較検討する研究方法(以下、重合法*註2と呼称する)であった。
 事実、この方法は、先に紹介した上田宏範[上田1950]が先鞭をつけたものである。上田は、河内や大和など、近畿地方の大形前方後円墳の中に、墳丘各部の計測値が極めて近いものがあり、墳丘測量図を重ね合わせると、プランが同型(同似)になるものがあることを指摘した。また、このような同形墳や相似墳*註3 の存在から、その築造における設計図の存在をも想定した点は重要である。次に、この重合法による作業を具体的に実施したのが、和田晴吾[和田1981]である。和田によれば、前方後円墳の平面プランは、基本的に、全長と後円部径、前方部幅、くびれ部幅によって決定することができる。中でも墳長と後円部径は、墳丘規模に大きな影響を与え、かつ時期的な形態の変化に左右されることが少ないとする。そこで、後円部径と墳長、前方部幅と墳長の割合を示数化し、京都府向日丘陵の前方後円墳とその他の主要な前方後円(方)墳とを比較したという。ただし、示数化した数値については省略されており、本文中では提示されていない。ともかく、比較の結果、奈良の箸墓古墳と向日丘陵上の五塚原古墳・元稲荷古墳が極めて近い数値を示したという。更に、測量図や墳丘の輪郭などを重ねた結果、後者の2基が箸墓古墳の1/3 相似墳の関係にあることを発見した。
 この和田による方法を引き継いだ北條[1986]は、箸墓古墳の相似墳を抽出する作業として、岡山県浦間茶臼山古墳・同湯迫車塚古墳・京都府元稲荷古墳・同五塚原古墳を取り上げ、それぞれの後円部/墳長・くびれ部/墳長・前方部幅/墳長の示数を求めた。それらと箸墓古墳の数値との近似から、和田が取り上げた元稲荷古墳・五塚原古墳だけでなく、浦間茶臼山古墳・湯迫車塚古墳についても相似墳である可能性を考えた。その上で重合法による作業を行い、相似墳であることを追認し、箸墓古墳を基準とする一群として「箸墓類型」を設定している。
 先述した北條の指摘を参考にすれば、前方後円墳の平面形態を比較検討する場合、想定された復元図に基づいて行なう操作よりも、現状の墳丘測量図を使用する重合法の方がより客観性が高く、再現性にも優れているものと思われる。すなわち、測量図には墳丘に関する全情報が表現されており、重合法によって、墳丘各部の位置や等高線の方向など、類似性をはかる諸要素について検討が可能となる[岸本1992]からである。
 そこで本稿では、和田・北條の方法[和田1981・北條1986]を用い、古墳時代後期を代表する二つの古墳、岩戸山古墳と今城塚古墳の平面形態についての比較検討を行なう。まず、対象となる2古墳について概説した後、方法と手順を述べる。その後、後円部径/墳長・前方部幅/墳長の示数を求めて散布図による分析を行う。更に、重合法に基づいて墳丘細部についても検討し、両古墳相互の関係について追及して行きたい。

2.対象とする二つの前方後円墳
 以下では、本稿で取り上げる2基の前方後円墳について概説する。
 岩戸山古墳[第1 図]   福岡県八女市大字吉田に所在する、北部九州で最大規模を測る前方後円墳である。「人形原」と呼称される丘陵上の、標高約55mの地点に立地する。本格的な発掘調査はなされていないが、戦後間もない1946 年に、周堤部の円筒埴輪列等が調査されたことがある。また、1963年には、北部九州を襲った集中豪雨によって前方部封土の一部が流出し、露出した円筒埴輪列や散乱した石製表飾品を確認している[波多野・小田1964]。そして1969・1971 年の環境整備事業に伴い、別区や周堤、墳丘の一部をトレンチ調査している[佐田編1972]。
 墳丘は、地形に制約され西向きに造営されている(主軸方位は、N-75°-W)。その墳丘形態の特徴は、前方部が大きく開き、後円部が僅かに高いものの、前方部との比高差はほとんどないところにある。墳丘は二段築成で、地山整形後、ほとんどが盛土で形成されている。中でも後円部の調査では、盛土の上半部と下半部で、明確に積土の状況が異なる点[佐田編1972]は注目される。墳丘の周囲は、一重の周溝と周堤が巡る。周堤の北東隅には、「別区」と呼ばれる一辺43mを測る方形の土壇がある。主体部については未調査だが、1994 年に地中レーダーと電気探査が実施され、石室の存在が確認されている[森・門脇編2000]。
 古墳の規模は、全長175m、全幅160m、墳丘長131~138mを測る。後円部径は60~88m、高さ約13.5m、前方部は、幅92~98m、高さ約12.5mで後円部の方がやや高い。
 出土品には、須恵器や埴輪の他に、100 点にも及ぶ石製表飾品、いわゆる「石人石馬」がある。古墳の築造年代は、出土した須恵器などから6世紀前半と考えられている*註4。また、その被葬者については、『筑後国風土記』逸文に見える「筑紫君磐井之墳墓」の規模が岩戸山古墳のそれと合致すること[森1956・石山1987・佐田1991]、かつ、本墳の規模や年代、郡衙との位置関係*註5、石製表飾品の出土状況やその内容などから、筑紫君磐井の寿墓と考える説が一般的である*註6。言うまでもなく、磐井は527 年に時の継体朝に対して「反乱」を起こしたとされる人物である。

第1 図  岩戸山古墳の墳丘測量図(八女市教育委員会1988 と佐田1973 を合成して再トレース)

 今城塚古墳[高槻市教育委員会1998・1999・2000・2001・2002・2003][第2 図]   大阪府高槻市郡家新町に所在する。淀川北岸で最大級の前方後円墳とされ、芥川西岸の標高約22~29mの台地上に立地する。1996 年から測量調査や規模確認調査が継続的に実施されており、その規模や墳丘構造、墳丘の改変状況が明らかになりつつある。
 墳丘は地形を利用して東西方向(主軸方位は、N-65°-W)に造られており、前方部が大きく開く平面的な特徴を有する。前方部を向いて右手の墳丘のくびれ部には、東西長35mの造出が取り付く。墳丘の周囲には、二重周濠と堤が巡る。北側の内堤中央部分には、「張出」があり形象埴輪群像による祭祀空間(範囲は東西長62~65m、南北長6m以上)であったことが判明している。ただし、主体部については、後述するように、墳丘が大きく改変されており不明である。
 古墳の規模は、全長350m、全幅342mで、墳丘長190mである。後円部は直径100m、高さ11m、前方部は幅140~148m、高さ12mと推定されている。ただし、中世末には墳丘全体を大規模に改修して城郭が

第2図  今城塚古墳の墳丘測量図(高槻市教育委員会1998・2003 を合成して再トレース)

築かれており[中井1996・橋本1996]、築造当初の姿を留めていない。さらに、前方部先端の「剣菱型」[宮川1992]の特徴についても、1596 年の伏見地震に伴う地震動によって生じた地滑りによるものと判明した[寒川2002]。
 出土品には、円筒埴輪や形象埴輪の他、鉄鏃、小札、ガラス小玉、木製品、石棺片などがある。中でも埴輪類は、北西約1.2 ㎞の地点に所在する新池遺跡の埴輪窯で焼成された製品であることが判明している。また、石棺片はいずれも凝灰岩製で、播磨・二上山・阿蘇産の石材が使用されている。
 古墳の年代は、出土した埴輪の形式学的特長や古墳の形状から6世紀前半の築造と考えられている。また、埴輪を熱ルミネッセンス年代測定法で分析した結果、524A.D.±18 の年代が得られている[三尾野・森1997]。以上の結果を踏まえ、かつ、『日本書紀』や『延喜式』などの検討から、西暦531 年に亡くなった継体大王の陵墓*註7 と考えられている[森田1997]。

3.分析の方法とその過程
 前方後円墳の平面形態は、基本的に、全長と後円部径、前方部幅、くびれ部幅によって決定することができるという和田[1981]の認識を前提に、和田[1981]・北條[1986]に準拠し、岩戸山・今城塚両古墳の計測値から、①後円部/墳長・②くびれ部/墳長・③前方部幅/墳長の示数を求めた。同様に、近畿・北部九州を中心に近藤編1992『前方後円墳集成』(以下、『集成』と呼称)8・9期の代表的な古墳についても示数を求め[第2表・下]、うち、①と②について二次元プロットにもとづく散布図[第3 図(右)]による分析を試みた。そこでは、今回取り上げる岩戸山・今城塚両古墳をはじめ、従来から今城塚古墳と相似墳の関係にあると指摘されている古墳と、その他の古墳との散布図上における分布状況から、データの集中やバラツキなどをみた。その上で、岩戸山・今城塚両古墳における平面形態と墳丘細部を比較するために、「重合法」を用い、その結果を図示した[第4図]。

4.平面形態の比較分析
4-1.計測値について
 発掘調査によって、前方後円墳各部の数値が確定していない場合、複数の計測値が存在することがある。中でも、岩戸山古墳については、管見に触れたものだけでも6通りの計測値が公表されている[第1表]。また、同一研究者においても時間的経緯により数値が変化することもある。更に、計測値間の開きも大きく、最小値と最大値では、墳長で7m(約5%)、前方部幅で6m(約6%)、後円部径に至っては28m(31~48%)の差がみられる。近年、岩戸山古墳を扱う文献に引用されるのは、『集成』[近藤編1992b]の数値である。しかしこの数値は、第1表に掲載した計測値(墳長・後円部径・くびれ部幅・前方部幅)のいずれにおいても最大値を示しており、特に、後円部径では数値が極端に外れている。すなわち、これをそのまま引用することは、統計上問題があるものと考えられる。この問題を解決するために、本稿では、極端な外れ値の影響を受けにくい中央値を採用することにする。
 今城塚古墳についても同様である。墳長と後円部径については、高槻市教委[2000・2002]と『集成』[近藤編1992c]、ともに同値であり問題ないが、前方部幅については、約8m(約5%)の差がある。近年、発掘調査が進む同古墳だが、前方部先端コーナーについては、調査が未実施で前方部幅の数値が不確定であることを考慮して、ここでも中央値を用いることにした。

第1 表  岩戸山古墳と今城塚古墳の計測値・示数一覧


4-2.散布図による分析
 先述したように、北條[1986]は、箸墓古墳の相似墳を抽出する作業として、岡山県浦間茶臼山古墳・同湯迫車塚古墳・京都府元稲荷古墳・同五塚原古墳における、①後円部/墳長・②くびれ部/墳長・③前方部幅/墳長の示数を求め、箸墓古墳の数値との近似から、それらが相似墳である可能性を考えた。
 この方法の有効性の判断をするために、①③について二次元散布図を作成し分布状況を観察する。なお、計測値は北條[1986]掲載の表1 に掲げられたものを用い、それが複数ある場合は、先述した理由から、中央値を採用した。また、『集成』1 期に該当する主要な前方後円墳についても、同図上にプロットし、分布を比較した。
 第3図(左)を見ると箸墓古墳・元稲荷古墳・浦間茶臼山古墳の3古墳は比較的集中しており、これらの平面形態は類似していると言える。ただし、五塚原古墳のみがやや離れた位置にプロットされている。これは、他の3古墳と比較して前方部幅の示数が低いことが大きく影響している。しかし、後円部径の示数の方は、箸墓古墳や浦間茶臼山古墳とほぼ同じ数値を示しており、五塚原古墳を含む4基の古墳は、墳長に対する後円部径の割合がほぼ同じであることがわかる。因みに、五塚原古墳については、当時発掘調査が実施されておらず、計測は61.5m等高線上で行なわれている[和田1981]。
 このラインが描く前方部隅角は、丸く角が取れた形状を呈している。あるいは、今後の発掘調査によって、この部分が経年変化によって変形したものであることが判明する可能性もあり、前方部幅が広がることも考えられる。もしそうであるとするならば、散布図上では他の3古墳により近い位置へ移動することになる。
 以上を踏まえれば、北條[1986]で行なわれた示数を用いた分析は、散布図で分析することで、平面形態が類似した前方後円墳をある程度判別することが容易となり、この方法が相似墳の抽出において概ね有効であるとも言える。
 さて、同様の方法で、岩戸山古墳・今城塚古墳をはじめ、従来から今城塚古墳と相似墳の関係にあることを指摘されている古墳、更には『集成』8・9期における近畿と北部九州地方の代表的古墳をいくつかピックアップして示数を求め、プロットしてみた[第3図(右)]。その結果、今城塚古墳との相似墳の可能性を指摘されていた愛知県断夫山古墳・京都府五ヶ庄二子塚古墳・奈良県西山塚古墳は、今城塚古墳とともに、プロットされた状況は極めて集中する傾向にあり、この分析結果からも今城塚古墳の相似墳である可能性が高いと判断される。ゆえに、これらの一群を「今城塚類型」として設定しておきたい。さて、肝心の岩戸山古墳であるが、散布図上では今城塚型の分布域に比較的近い位置にある。墳長に対する後円部径の割合は、今城塚型の古墳とほぼ同じであり、第3図(左)における箸墓型の分布域の広がりを考慮すれば、今城塚古墳の相似墳と判断して差し支えないものと思われる。
 だが、図からもわかるように、墳長に対する前方部幅の割合がやや少ないために、今城塚型の分布域の中でもやや周縁部に位置するようである。この点については、後章において詳細な検討を試みる。

第2表  各古墳の計測値と示数一覧(上:『集成』1期、下:『同』8・9 期)

 

第3図  後円部径/墳長・前方部幅/墳長の相関と相似墳の分布
(左:『集成』1期、右:『同』8・9 期。なお、図中の番号は、第2表に対応している。)

4-3.重合法による分析
 さて、今城塚古墳の墳長を1とした場合、岩戸山古墳の墳長の比率は0.70 である[第1表]。その比率から図面を拡大縮小し重ね合わせたのが第4図である。まず墳丘であるが、両者の平面プランが極めてよく重なっていることがわかる。墳長や後円部・くびれ部は言うに及ばず、前方部の開きも見事に重なっている。惜しむべきは、今城塚古墳の墳丘が中世の改変によって、大きく変貌していることである。しかし、岩戸山古墳の測量図と重ねてみると、今城塚古墳の前方部には、テラス状の平坦地が一段存在するようであり、本来は二段築成であったようにも思える。
 また、ここで思い起こされるのは、岩戸山古墳の前方部幅がやや狭く、前方部幅示数が低かった点である。これについては、岩戸山古墳の前方部南西隅角部分に注目したい。測量図を見ると、付近の等高線の間隔が詰まっており、かつ、前方部先端部のラインに対して垂直に近い角度で折れ曲がっている状況が見られる。現在、前方部南西隅角部分東側には、墳丘裾部に沿って南北に細長い地蔵堂が存在している。前方部南西隅角部分における等高線の目詰まりは、地蔵堂の建設に伴い削平を受けたことによる改変の可能性が考えられる。つまり、前方部幅は、現状よりも広くなる可能性が高いのである。もしそうである場合、今城塚古墳の前方部南西隅角部分を参考にすれば、岩戸山古墳の同部分の南西側を走る-50 ㎝等高線付近まで前方部幅が広がるものと思われる。すなわち、前方部幅は97~100mを測ることになり、その示数も0.726~0.749 となる。そうすれば、今城塚古墳・西山塚古墳・五ヶ庄二子塚古墳とは、散布図上でもほぼ重なることになり、先の問題点も解消されるのである。
 次に、墳丘以外の部分にも目を向けてみる。まず、両者の主軸方位は、10°程のズレしかなく極めて近いと言える。これは、同じく今城塚古墳と相似墳の関係にある愛知県断夫山古墳と同味美二子山古墳とが、全く同じ主軸方位*註8を採用している点とあわせて考慮すると、相似墳の造営に伴い高度な測量や設計施工が実施されたことが伺われるだろう。更に、岩戸山古墳の周堤帯の外側ラインが今城塚古墳内濠の周堤帯の内側ラインに、非常に良く重なっていることに気付く。前方部側の周堤帯が一部はみ出すものの、岩戸山古墳のプランは、今城塚古墳の内濠内に、ほぼすっぽり収まっていると言ってよい。また、岩戸山古墳を特徴付ける存在である「別区」は、例外的に突出しているものの、その南東・北西角は、今城塚古墳の外濠の周堤帯とほぼ重なっているようである。
 以上のように、散布図による分析からみて、岩戸山古墳と今城塚古墳とが相似形ではないかという予測をしたのであるが、このことは、重合法により細部を検討することによって視覚的に支持されたものと考える。その操作の中で、岩戸山古墳の墳丘や周濠・周堤帯は言うに及ばず、「別区」という特異な施設までもが、今城塚古墳のプランに基づいて割り付けられているものと思われた。実際、「別区」については、周堤と同時に築造されたものであることが確認されている[佐田編1972]。すなわち、岩戸山古墳は、今城塚古墳をマスタープランとして、計画的に造営された7/10 相似墳であろうと言うことができるのである。

第4図  重合法による岩戸山古墳(黒)と今城塚古墳(赤)の合成図

5.おわりに
5-1.考察と今後の展望
 方法論について   散布図における分析では、相似墳といわれるものに、ある程度のまとまりが見られ、その抽出には概ね有効であった。反面、それらにややバラツキが見られることも事実である。
 この原因としては、岩戸山古墳の前方部幅の例でもわかるように、各部の計測における研究者毎(あるいはその時間的経緯等においても変化する)の誤差に大きく左右されることがあげられる。このことは、後円部/墳長・前方部幅/墳長の示数を求め、二次元散布図にプロットする方法の限界が示されたものと言える。しかし、重合法によって墳丘各部の詳細な類似性の検討が視覚的に可能となり、散布図における外れの原因も探ることができたことを考え合わせると、その有効性が理解できるだろう。すなわち、相似墳の認定には、墳丘各部の計測値の示数化→二次元散布図へのプロット→ドットの分布状況から相似墳候補の抽出→墳長比率を基準にした重合法による分析、という手続きが有効であるものと思われる。
 筑紫君磐井と継体大王について   これまでの検討で、岩戸山古墳が今城塚古墳をマスタープランとした7/10 相似墳であろうことを述べてきた。北條芳隆は、先に紹介したように、箸墓古墳とその相似墳を検討した結果、各地に認められる相似墳は、大和連合内で墳形・地割の枠組みと規模、工法などが規定され、かつ、保存されて、各古墳造営者に「配布」されたものと考えた。そして、それが各地で再現されるためには、一定の測量術や土木技術が駆使されたのであろうとし、「配布」には、墳墓造営のための技術集団の派遣を伴っていた可能性を想定した[北條1986]。岩戸山古墳の築造に際しても、同様の手続きが踏まれたものと思われ、筑紫君磐井と継体を擁する倭王権との緊密な関係が窺われるのである。
 一方、北部九州と継体大王を結びつける幾つかの考古学的な証拠が、先学によって指摘されている。すなわち、継体の母(振媛)の出身地である北陸地域において、肥前・肥後をはじめ讃岐や出雲などに展開する舟形石棺が分布していること[青木1993・和田1995]や、北部九州系の横穴式石室・石屋形といった有明海・八代海沿岸地域に特徴的な墓制が分布すること[中司1993]など、5~6世紀にかけての北部九州と北陸地域の首長層との密接な交流が伺える資料が存在することである。また、阿蘇石製の石棺が、今城塚古墳[森田2000]をはじめ、5世紀末~6世紀中頃における畿内中枢の有力古墳に搬入されている[高木1997]ことも、極めて重要であると考える。近年、田中勝弘は、継体大王を擁立した勢力の台頭の背景に、海洋や河川を利用した水運システムの把握を挙げている[田中1998]。
 このような海運や水上交通を利用した地域間交流や製品の流通状況を勘案し、北部九州勢力(筑紫君を含む)も継体擁立に加担したのではないかと想定する見解が、幾つか提出されていた[和田1995・中司2000・蔵冨士2000]。今回の操作によって得られた分析成果によって、筑紫君磐井と継体大王との直接的な接点が存在する可能性が浮上してきたことで、以上のような仮説を支持する有力な事例となりうるものと思われる。
 今城型相似墳について   従来から指摘されている今城塚古墳と相似墳の関係にある古墳として、断夫山古墳や五ヶ庄二子塚古墳、西山塚古墳等が挙げられている。大下[2000]によると、今城塚古墳の墳長を10 とした場合、断夫山古墳が8、五ヶ庄二子塚古墳が6、味美二子山古墳が5と、比例整数の関係にあるという。同様に、岩戸山古墳は7、西山塚古墳は6となる。つまり、今城塚型の相似墳には、10(今城塚古墳)、8(断夫山古墳)・7(岩戸山古墳)・6(五ヶ庄二子塚古墳・西山塚古墳)・5(味美二子山古墳)という墳長のサイズの差異に基づく序列関係が想定される。因みに、断夫山古墳と味美二子山古墳については、継体大王の二番目の后である目子媛、もしくはその父親である尾張連草香の墳墓との説が有力であり[赤塚1996・伊藤2000 など]、西山塚古墳については、継体の一番目の后である手白香皇女の墳墓との説[白石1995 など]が有力である。五ヶ庄二子塚古墳については、その立地等から継体の擁立に深く関与した人物[荒川1995]という被葬者像が想定されている。すなわち、これら今城塚型の相似墳については、継体の后やその出身である地方豪族など、継体を支援し、かつ、その擁立に加担した勢力と関係している可能性は高い。恐らくこの序列については、その貢献度により与えられた論功行賞的な意味合いがあるのではないかと想像する。
 また、岩戸山古墳は『筑後国風土記』逸文中に「生平けりし時、預め此の墓を造りき。」(日本古典文学大系)との記述があり、寿墓であった可能性が考えられる[茂木1994]。この点については、報告書中[佐田編1972]にも、後円部トレンチにおいて、盛土の上層と下層で積土の状況が明確に異なることが記述されており、盛土の積土工程に、ある一定の時間差を認めるのであれば、寿墓の可能性を支持することもできよう。すなわち、岩戸山古墳が寿陵であると考えるならば、築造以前に倭王権側によって今城塚型の設計が「配布」され、その貢献度によって規模が決定されていたのかもしれない。
 一方、第3図(右)において、今城塚型の分布に極めて近い古墳の中に、熊本県中の城古墳(肥後)、佐賀県剣塚古墳(肥前)がある。これらは、散布図による分析から、今城塚型の相似墳の可能性が考えられた。そのため、重合法により検討した結果、今城塚古墳と相似墳の関係にある可能性が強まっている。前者は火君、後者は筑紫火君に関係する古墳とも考えられており、継体朝と筑紫君・火君の関係を考える上で極めて興味深い。これらに関しては、別稿にて検討する。
 また、岩戸山古墳に後続する首長墓である善蔵塚古墳についても、同様の方法を用いて、今城塚型相似墳の可能性が高いことを確認しており、八女古墳群の首長墓系列内において今城塚型の地割の枠組が保存され伝承され、もしくは倭王権側からの「再配布」を受けて、それがほぼ正確に再現されたものと思われる。これに関しては、『広川町史』(2005 年刊行予定)をご参照いただきたい。
 岩戸山古墳と今城塚古墳の比較研究について   他方、岩戸山古墳と今城塚古墳についての比較検討を進める必要性もあろう。例えば、今城塚古墳の第5次調査では、内堤部から、東西20m、南北6mの広さを持つ埴輪祭祀区が発見されている。内部からは、復元高約170cm に及ぶ神殿風の家形埴輪や器財埴輪(蓋・大刀・盾・靱など)、人物(武人・力士・座る男子など)、動物(馬・四足動物・鶏・水鳥など、多種多様な形象埴輪が整然と配置されている[高槻市教育委員会2002・2003]。一方の岩戸山古墳でも、「別区」と呼ばれる祭祀空間が存在し、大形のものを含む多種多様な石製表飾品や形象埴輪などが出土している。これらは、今城塚古墳の埴輪群と、その種類の一致や大形であるなどの共通性が見られる点で注目される。残念ながら岩戸山古墳の「別区」は、戦中戦後の開墾のため荒らされ、石製表飾品や形象埴輪の具体的な配置状況が判明していない。今後、『筑後国風土記』から窺われる石製表飾品の内容と配置状況を参考に、今城塚古墳の埴輪群と岩戸山古墳の石製表飾品群との比較検討から、岩戸山古墳の「別区」における祭祀の状況をある程度復元できる可能性もあるだろう。
 また、蛇足ではあるが、今後、相似墳間の比較検討を進めることによって、破壊が著しい今城塚古墳の墳丘の復元には、岩戸山古墳や味美二子山古墳といった、比較的墳丘の残存状況が良好な相似墳が大いに参考になるかもしれない。
5-2.結論
 最後に、本稿で判明したことをまとめておく。
 まず、前方後円墳の平面形態における相似墳の抽出には、後円部/墳長・前方部幅/墳長の示数を求め、二次元散布図にプロットし、その分布状況を分析する方法がある程度有効であることを確認することができた。
 次に、岩戸山古墳と今城塚古墳および、近畿・北部九州における『集成』8・9期の代表的な古墳を対象にこの方法を用いた。その結果、岩戸山古墳・今城塚古墳をはじめ、従来から今城塚古墳と相似墳の関係にある可能性を指摘されている古墳については、散布図上において分布が集中する傾向が見られた。このことから、岩戸山古墳と今城塚古墳についても、相似墳の関係にあるものと思われた。
 更に、岩戸山古墳と今城塚古墳の平面形態について、重合法で観察・分析した結果、両墳は墳丘のみならず、周濠・周堤帯や「別区」までも極めて良好に重なることがわかり、岩戸山古墳が今城塚古墳の7/10 相似墳であろうと考えることができた。
 すなわち、岩戸山古墳の造営に際しては、倭王権側から今城塚古墳の設計等が「配布」されたことが推測でき、それにはその厳密な施工のための指導を行なう技術者集団の派遣をも伴っていた可能性も想定できるのではないだろうか。いずれにせよ、今回の検討によって筑紫君磐井と継体大王の密接な関係が窺え、かつ、磐井の次世代の首長墓である善蔵塚古墳への設計プランの継承を考えるとき、磐井の乱の背景についても再考の必要性があるのではないかと思われるのである。
(2003 年10 月31 日脱稿)

謝 辞
 公私共に20 年来ご指導いただいている佐賀大学教授・佐田 茂先生が、昨年めでたく還暦を迎えられました。遅ればせながら心よりお祝いを申し上げ、学恩に感謝し、この小文を献呈いたします。
 また、本稿執筆にあたり、佐田先生をはじめ、九州大学名誉教授・西谷 正先生には、有益なご教示を賜わっただけでなく関連資料をご提供いただき、心より感謝申し上げます。更に、前九州考古学会会長・渡辺正気先生からは、有益なご教示を賜わりました。
 かつ、荒川 史(宇治市教育委員会)・佐々木四十臣(福岡県文化財保護指導委員)・重藤輝行(福岡県教育庁福岡教育事務所)・白木 守・神保公久・富永直樹(以上、久留米市教育委員会)・本田奈都子(前大阪文化財センター)・丸林禎彦(田主丸町教育委員会)・吉本正典(宮崎県教育委員会)の各氏からは貴重なご教示を頂戴し、文献検索等にもご援助いただきました。更に、挿図のトレースについては、畠中和子氏のご協力がありました。なお、愛知学泉大学非常勤講師・加藤久雄氏には、着想以来、草稿にまで目を通していただくなど、一方ならぬお世話になりました。氏との日頃の議論によって触発されることが数多くあります。末筆ながら、ご芳名を記して心からお礼を申し上げます。


註1  上田宏範[1996]、椚 國男[1993]、宮川 [1983]、堅田 直[1996]氏らに代表される。
註2  この方法に対する適当な呼称がないため、本稿では、「重合法」と呼ぶことにした。なお、この重合法による前方後円墳の平面形態比較研究は、和田[1981]、北條[1986]の他、辰巳[1982]・網干[1986]・岸本[1992]などによっても行なわれている。また、(拡大縮小した)測量(実測)図を重ねて共通規格の存在を想定し、製作者集団の動態や政治的な規制等を探ろうとする同様の方法を用いた試みは、近年、装飾古墳の文様の研究[丸林2002]や馬具の研究[尼子2003]などでも見られる。
註3  以下では、あるモデルプランの1/2、1/3、あるいは2倍3倍など、比率を変えた相似形の関係にあると考えられる場合、「相似墳」と呼ぶことにする。因みに、同一のモデルプランから作られたと考えられる同規模同形態の古墳の関係を「同形墳」と称する。和田[1981]を参考にした。
註4  小田・真野[1970]、真野[1972]などによる。ただし、小田氏が根拠に挙げた4 個の大形器台については、形式学的再検討から年代を下げる見方もある[高橋・小林1990]。
註5  『筑後国風土記』逸文に「県の南二里に筑紫君磐井の墓墳あり。」(日本古典文学大系)とある。平成9年、岩戸山古墳の北約1.2 ㎞の地点で、7世紀後半~8世紀前半にかけての計画的に配置された比較的大形の掘立柱建物群が発見された。正恵・大坪遺跡(八女郡広川町)である。この建物群は、上妻評衙もしくは郡衙関連施設と考えられ、風土記に記載された県(郡衙)との位置関係ともほぼ合致する。
註6  ただし、菅谷文則氏は、磐井の死亡年から『筑後国風土記』撰述までに、200 年以上経過していることを挙げ、磐井の墓の伝承が古墳時代まで遡りうる可能性に疑問を呈している[菅谷1985・1989]。
註7  継体大王の没年については、『古事記』が西暦527 年、『日本書紀』には、531 年と記述されている。
註8  断夫山古墳の主軸方位は、N-150°-E、味美二子山古墳のそれが、N-30°-Wである。ただし、両墳の向きは全くの正反対である。また、主軸方位の数値については『集成』[近藤編1992a]記載のものを使用した。

参考文献
(論文等)
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*『史紋』第1号、2003年12月、史紋編集委員会より。
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