小 澤 太 郎
復元された今城塚古墳の埴輪群(大阪府高槻市)
時は西暦528年2月1日、筑紫国御井郡(現久留米市)を舞台に古代最大といわれる決戦の火蓋が切られました。継体天皇の命により派遣された数万のヤマト王権軍を迎え撃つのは、八女地方を本拠地とする筑紫君磐井の北部九州勢。しかし激戦の末、ついに磐井は敗れ斬殺されたと『日本書紀』には記されます。
同書によれば、磐井は以前より密かにヤマト王権に対する反逆を謀っていました。やがて朝鮮半島の新羅と内通し、ついに527年6月、伽耶諸国支援のため朝鮮半島に出兵するヤマト王権軍を阻止し、挙兵したというのです。
このような磐井への評価は、常に時代と共に変化してきました。戦前においては、磐井は天皇に弓を引いた逆賊、すなわち朝敵とされ、戦後になっても、中央に対する地方豪族の反乱という見方が大勢でした。
ところが近年では、磐井の勢力が、ヤマト王権と同盟関係にありながらも、かなり自立した存在であったと考えられるようになっています。なおかつ、私は磐井が継体天皇を擁立した有力豪族の一人ではなかったかとも考えています。
実は、継体天皇の即位は、極めて異例なものでした。継体は、後継者となる皇子がいなかった武烈天皇の死去後に王位に就くわけですが、彼は応神天皇の五世の孫にあたる近江(現滋賀県)出身の地方豪族でした。母方は三国(現福井県北部)出身で、継体自身も三国で成長するなど、王統としてもかなり遠い血縁でした。即位に当っては、武烈天皇の妹を正妻として迎え、いわば入り婿の形で王統を継承したのです。
しかし、そのような出自に対する抵抗勢力のためか、即位後20年もの間大和に入れず、現在の大阪府や京都府に設けた宮を点々としています。
一方、最近の古墳研究では、真の継体天臭・陵とされる今城塚(いましろつか)古墳(大阪府高機市)と筑紫君磐井の墳墓とされる岩戸山古墳(八女市吉田)とが、同じ設計図から造られた可能性が非常に高いことがわかってきました。
今城塚古墳は、全長190mもある前方後円墳で、6世紀前半のものとしては、全国一の大きさを誇ります。一方の岩戸山古墳は、全長約134mの前方後円墳で同じ全国第3位の大きさです。両者は、規模こそ違いますが、縮尺を変えた墳丘測量図を重ねると、平面図・断面図ともにピタリと重なります。つまり、両者は同じ形なのです。その大きさの比率は、今城塚10に対して岩戸山が7となります。
このように、古墳の大きさに違いがあるけれども、形が司じ古墳を「相似墳(そうじふん)」と呼びますが、今城塚古墳と相似墳の関係にある前方後円墳は、岩戸山古墳以外にもいくつか見られます。
例えば、継体天皇の即位以前の正妻、目子媛(まなこひめ)の墓とされる味美二子山(あじよしふたごやま)古墳(愛知県春日井市)と、その父親、尾張連草香の墓と言われる断夫山(だんぷざん)古墳(名古屋市)や即位後の正妻である手白香皇女(たしらかひめみこ)の墓とされる西山塚古墳(奈良県天埋市)等が著名です。
いずれも、継体の妻や外戚といった、関係の深い人物の墳墓ばかりです。そして、今城塚古墳を10とした場合の比率は、断夫山古墳8、西山塚古墳6、味美二子山古墳5となります。
このように、継体天皇の墳墓と同じ設計図を用いる事を許されたのは、中央での地位が不安定な継体天皇を擁立し支持した豪族や妻たちでした。また、古墳の造営に際しては、設計図の提供だけでなく、天皇お抱えの測量や土木技術者達が派遣された可能性も考えられます。
そう考えてくると、従来は維体と敵対関係にあるイメージで捉えがちだった磐井も、元もとは、継体擁立の立役者であったのではないかと思われるのです。しかも、岩戸山古墳の規模から、尾張連に次ぐ程の大きな貢献があったものと想像しています。
磐井の時代以前から、北部九州と継体天皇のゆかりの地、北陸・近江とは文物の交流が盛んでした。そうした中で、磐井と継体との親密な関係がつくられていったのかも知れません。
継体天皇は、大和入りの翌年(527)、その磐井の討伐を決意します。ようやく中央での地盤を固めた天皇が、その擁立の功労者を討つ…果たしてそこには、どのような埋由があったのでしょうか。ヤマト王権による国家形成の大きな第一歩であったこの事件。繰り返す歴史の渦を感じます。
*『広報ひろかわ』2004年5月号より〔写真差し替え〕。
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