筑紫君磐井と継体天皇-相似墳から見た両者の関係-

小 澤 太 郎

作品タイトル

復元された今城塚古墳周堤上の埴輪群(大阪府高槻市) 

 激戦の末、磐井(いわい)は敗れた。西暦527年から1年半余りに及んだ古代最大の内戦「磐井の乱」の結末である。では、戦争に至るまでの筑紫君(ちくしのきみ)磐井と継体(けいたい)天皇とは、どのような関係だったのだろうか。最近の前方後円墳研究では、両者の意外な関係が浮かび上がってきている。

 磐井の墳墓は岩戸山(いわとやま)古墳、一方の継体の陵墓は今城塚(いましろつか)古墳とされる。今城塚は全長190m、六世紀前半の前方後円墳としては全国一の規模だ。岩戸山は全長134mで同じく全国第3位である。実はこの両者が「相似墳(そうじふん)」だったのだ。岩戸山古墳は継体天皇陵と同じ基本設計図を用いて造営したのだろう。

 このように今城塚古墳と相似墳の関係にある古墳は、他にもある。断夫山(だんぷざん)古墳(名古屋市)などは代表例で、継体の妻の父尾張連(おわりのむらじ)の墓とされる。いずれも継体の妻や外戚、支援者といった関係の深い人物の墳墓ばかりである。そして今城塚の大きさを10とした場合の比率は、断夫山古墳8、岩戸山古墳7、だが正妻である手白香皇女(たしらかひめみこ)の西山塚古墳(奈良県天理市)は6に過ぎない。

 継体は近江(滋賀県)出身の地方豪族で、いわば入り婿の形で即位した。中央における地盤が弱い彼を擁立・支援したのが相似墳に眠る人々であった。磐井も例外ではなく、その古墳の規模から尾張連に次ぐ功績があったものと想像する。

 王宮を転々とし、ようやく大和入りした翌年、継体は磐井討伐を命ずる。擁立の功労者は斬殺されたとも豊前へ逃れたとも伝える。

*『図説 南筑後の歴史』2006年3月、郷土出版社より〔写真変更・図面割愛〕。
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