小 澤 太 郎
筑後における天台・真言密教の中核である高良山(久留米市合川町字古宮付近より)
1.筑後地方をめぐる諸環境
阿蘇外輪山に源を発した筑後川は、九州最大の平野である筑紫平野を貫き有明海へと注ぐ。この平野は福岡・佐賀両県にまたがり、福岡県側の東半部は筑後平野と呼ばれる。筑後平野の南西側は有明海に面し、東側は耳納山地と筑肥山地が入り込む。
耳納山地は筑後川の中流南岸に東から西へ連なる水縄断層系の活動により形成された山地である。鷹取山(802m)を最高峰とし、西端部には筑後一の宮の高良大社が鎮座する高良山(312m)が位置している。一方の筑肥山地は、矢部川を隔てて耳納山地の南側に広がる山地である。最高峰は姫御前岳(596m)で全体的に標高が低い。
また、筑後地方は九州における陸上交通の要衝でもある。北に筑前、西は肥前、東は豊後、そして南は肥後に接する。古代においては、大宰府を中心に駅路によって結ばれ、その中でも筑前とは筑紫平野を挟んで至近距離にある。九州を統括する行政機関であった大宰府と筑後国府間は、直線距離でわずか23kmであり、徒歩でも半日の行程で到達可能である。一方、近代以前においては筑後川を媒介とする水上交通が重要な役割を果たしており、古代以来、有明海を通じて大陸や半島との交流が活発に行われていた。
さて、当地方の経塚遺跡は、そのほとんどが筑後平野に面した耳納山地と筑肥山地の縁辺に沿って点在している。その数は、発掘調査成果や遺物の伝世、地元での伝承・伝聞、古記録などから20ヵ所以上にのぼることが判明している(表1)。
図1 筑後の位置と主要な霊山
2.経塚研究概史
久留米藩領内の辻堂や野仏・薮神・古城・塚・伝説などについて各庄屋が報告した「寛延記」という史料がある。この中に竹野郡冠村の耳納山中に経塚の存在を示す記述が見られる。領内の他の村でも数ヶ所が記載されているが、経塚の存在を伝えるのみで詳細はわからない。あるいは、近世に盛んになる一字一石経塚も含んでいる可能性もあるため、これについては注意が必要である。一方、矢野一貞の『筑後将士軍談』には御井郡阿支岐村から滑石製経筒や青銅製経筒、嘉永2年(1849)にも山本郡山本村の山間部から陶製Ⅰ類の経筒が出土したことが記されている(矢野1853)。また、近世に掘り出された確実な例としては、観音寺経塚群があげられる。寺伝や『筑後将士軍談』によると、石垣山観音寺では延宝2年(1674)に8本(のち7本を再埋納)、明和2年(1785)に1本(のち再埋納)の青銅製経筒が出土している。その後、同寺では明治21年(1888)の南門建築の際に1本、明治44年(1911)頃にも2本が発見されている(宮小路1994)。このように、開墾や寺社の改築などに伴って、経塚が掘り起こされることも多かったようである。
近代に入ると、意図的に発掘された例も登場する。明治31年(1898)、高良山の稲荷山古墳で野中完一氏によって発掘が行われ、銅板製経筒一本が掘り出されている。氏は坪井正五郎氏の弟子で、後に東京帝国大学理科大学人類学教室に在籍したこともある。この年の12月から翌年1月にかけて、高良山神籠石の調査をはじめとする九州調査旅行中であった(杉山博1999)。しかし、高良大社側にも調査記録が残っておらず、詳細は不明である。また、明治36年(1903)11月には、岩佐円助氏、岩佐又七氏により観音堂経塚、権現堂経塚がそれぞれ発掘されている。後述するように、この時の記録と詳細なスケッチが「諌山文庫」に残されており、埋納状況や副納品のおおよその内容を知ることができる。
一方で、幕末には経塚研究の先鞭がつけられている。久留米藩士であった矢野一貞は、筑後地方の考古資料に対する実証的な研究成果を数多く残したことで知られる。先述したように、その著書『筑後将士軍談』の中で経塚についても触れている。例えば、若菜八幡宮経塚の滑石経についての記述は、具体的な出土状況と石製小塔に刻まれた年号の存在を伝える唯一の資料である。この小塔についてはその類例を北野天満宮や比叡山に求めている。他にも先述した観音寺経塚群や阿支岐経塚出土経筒、山本郡山本村出土の陶製経筒は現在行方がわからない。これらについての図や具体的な寸法などが記録されており、その内容を知る上で貴重な資料となっている。
しかし、本格的な発掘と研究は、堂ヶ平経塚における小田富士雄氏ら(小田1960)の調査を待たねばならなかった。その後、観音寺経塚・城の谷経塚についての宮小路賀宏氏(宮小路1983・1994)による調査研究が続き、近年では大牟田市教育委員会による黒崎山経塚の発掘調査例(坂井編1999)がある。しかし、このような正式な調査を経て報告された例は極めて稀である。現代以降も、そのほとんどは何らかの建設工事や耕作等に伴い偶然発見されたもので、実態が明らかではない場合が多い。
3.経筒の特色と分布
経塚自体を研究する場合、その対象としては経筒・外容器・石室やマウンド等の遺構といういくつかの構成要素が考えられる(村木1998)。九州の経筒研究は小田富士雄・杉山洋両氏を中心に、主に経筒を対象として進められてきた。ここではそれらの研究成果に基づきながら、筑後地方出土経筒を整理しておきたい。
筑後の経筒には大きく青銅製と陶製、滑石製の3種類がある。青銅製には主に鋳造銅製3種(四王寺型・求菩提型・積上式)と銅版製1種(武蔵寺型)があり、陶製にはⅠ類とⅡ類とがある。中でも、九州地方に特有の積上式経筒、陶製経筒、滑石製経筒・外容器は「九州型経筒」と呼ばれる(小田1970)。以下で使用する経筒の型式分類は、青銅製のものについては小田(1970・1979)・杉山(1985・1992)・村木(1998)、陶製のものについては小田(1966)・杉山(1980)に従う。また、今回は近世に下る一字一石経は含めていない。また、複数の経筒が出土している場合、遺跡名の後の( )内に出土点数を記した。
(1)鋳造銅製経筒
四王寺型経筒 筒身に3本の突帯をもつ有節経筒で、九州独特のものである。筒身の下端部に断面台形状の台座を有し、被蓋式笠蓋で宝珠鈕が付く。紀年銘の幅は、1095~1126年で、九州の経筒としては古い段階に流行する一群である。分布域は、大宰府の四王寺山とその周辺を中心に北部九州に広く及ぶ。当地域の青銅製経筒は、計20本の存在が知られるが、このタイプはうち5割を占め、最も多く見られるものである。岩本・黒崎山・石垣観音寺(6)、観音堂・権現堂と、筑後の南端と東端部から10本が出土している。
求菩提型経筒 細長く筒身に節の無い形状が特徴的な経筒である。筒身下端に断面台形の台座が付き、甲羅形に盛り上がる被蓋式笠蓋に棒状の素鈕を有するものが多い。九州における修験道の一大中心地である求菩提山から数多く出土する。それらの中には、1140・1141・1143年の紀年銘をもつものが見られる。近年、求菩提山の北西約14kmの地点に所在する京都郡みやこ町の山鹿宮田遺跡から、溶解炉・鞴羽口・鉄滓などとともにこの型式の経筒や錫杖の鋳型が出土した(木村編2005)。このことから、求菩提山周辺で製作されたものであることがわかる。一方、筑後では城の谷から出土している。この資料の特徴は、棒状の素鈕に刻み目を入れて相輪鈕としたところにあり、求菩提型に多く見られる素鈕はこのような相輪鈕が退化したものと考えられている(村木1998)。同じ鈕のタイプでは、1123・1127年の紀年銘を持つ例があり、これを裏付けている。次に、観音寺3号経筒の例であるが、有節であり四王寺型の影響があるものの、細身のスタイルや製作時の型合わせ痕跡、材質やその発色は求菩提型に近いといえる。これについては求菩提山経塚に類例があり、豊前の工房で製作されたと考えられている(宮小路1994)。
積上式経筒 相輪鈕・蓋・筒身・台座を別作りにした組み立て式の経筒で、全体の形状は宝塔形を呈する。この経筒には、筒身部のパーツの数で二段・三段・四段積上式がある。北部九州のみならず、日向や中国地方の一部にまで伝わる広域型経筒の代表格である。分解できるために携帯性にも優れており、このことも広域に流通する一因になったものと思われる。紀年銘は、二段式が1125・1126年、四段式は1136~1152年で、型式学的に導かれた二段式から四段式への変化を裏付けている(村木1998)。観世音寺南側で調査された大宰府条坊跡第19次調査では、多くの生産関係遺物とともに鋳離したままの未完成でバリが残る相輪鈕部が出土し、同型式の経筒が大宰府で生産されていたことが判明している(狭川1984)。この経筒の形態は画一性が高く、出土点数も多いことなどから大量生産されたものと思われる。筑後では、堂ヶ平、石垣観音寺(2)、王浄寺(2)から四段積上式が出土しており、分布は耳納山地東端部に集中する傾向にある。
(2)銅版製経筒
武蔵寺型経筒 一枚の銅板を丸めて引き合わせて鋲留めし、筒身下端を外側に折り曲げて底板を合わせ、これも鋲留めしている。蓋は銅板を叩いて笠蓋状に整形する。その先端には瓔珞を垂下するものが多く、優美な印象を受ける経筒である。筒身の上・中・下に銅板帯を巻き、有節経筒の節を表現するなど四王寺型の影響を受けたものも多い。筑前の武蔵寺経塚をはじめ、大宰府周辺と肥前に分布する。筑後では稲荷山と観音寺から出土している。稲荷山の経筒は、筒部の閉じ合わせや底板との接合の際に多数の鋲を用いている点や、底部に小形の三足を有することなど、他には見られない特徴が認められる。また、蓋についてはその形状はもとより、見受けの存在からも、四王寺型を意識したつくりと言えよう。なお、観音寺例は現存せず詳細がわからない。
(3)陶製経筒
陶製Ⅰ類 本来経筒として製作された中国越州窯系の製品で、筑前にもっとも多く分布し、その大部分は四王寺山など大宰府周辺に集中している(小田1963など)。筑後地方では、王浄寺(ⅠA)・阿志岐(ⅠC)など耳納山地北麓の筑後川流域に限られる。その他、『筑後将士軍談』に掲載された山本郡山本村出土のものや、筑後地方発見とされる資料もこれに含まれるだろう。後者の蓋内面には「李」墨書があり、大陸系の人名と考えられている。他の類例からも日宋貿易に関係した商人を示すものとされている(小田1966)。
陶製Ⅱ類 Ⅰ類とは異なり、中国製の日常容器を転用したもので、黒崎山(ⅡB)・日吉坊(ⅡC×2)・堂ヶ平(ⅡA・ⅡB)・王浄寺(ⅡB)など、筑肥山地の西麓一帯を中心に、耳納山地北麓にも見られる。
(4)滑石製経筒・外容器
『筑後将士軍談』や「諌山文庫」の記述から、滑石製の経筒や外容器が当地方にも存在したことがわかる。阿支岐の例は、経筒の表面に三尊や不動の像を彫刻していたという(矢野1853)。権現堂経塚出土の外容器は、円筒形の身と外形を三段に削り出された蓋を有する。滑石製経筒・外容器の分布は北部九州に集中する。九州における滑石の代表的産地としては、長崎県西彼杵半島がよく知られている。一方で、当地方では温石(おんじゃく)とも呼ばれ耳納山地にも産出する。現段階では、当地方の製品には地元産の石材が使用されたのか、西彼杵半島産が採用されたのかは不明とせざるをえない。いずれにしても、九州外ではほとんど見られない滑石製の経筒・外容器が分布する理由として、その産地が控えているという地理的要因が考えられている(小田1968ほか)。
図2 筑後地方における経塚遺跡の分布と経筒の種別および点数
表1 筑後地方における経塚遺跡一覧表
4.経塚遺跡の事例
冒頭でも述べたように、筑後地方における経塚は20ヵ所以上にのぼる。しかし、遺構の調査(緊急調査を含む)が実施されたのは、黒崎山・堂ヶ平・観音塚の3遺跡に過ぎず、遺構を対象とした検討は困難と言わざるを得ない。ここでは、この3遺跡に加えて、発掘調査はされていないものの比較的実態が明らかな5遺跡について、その経筒や遺構の状況について取りあげてみたい。なお、遺跡名の後ろに付した〔 〕番号は、表1、図1・2の遺跡番号に対応している。
(1)岩本経塚(大牟田市大字岩本) [番号1]
昭和38年(1963)、大字岩本の丘陵地で納骨堂建設中に発見された。地下約1mの土中に石室があり、その内部中央に経筒を容れた陶器の外容器が設置されていた。外容器と石室の間の空間には木炭片が詰められていた(多田隈1968)。
経筒は青銅鋳造製の四王寺型である。被蓋式笠蓋に宝珠鈕を持ち、筒身には3本の突帯を有する。口端部直下の上段・中段は二重、下段は一重で台座に接する位置にある。台座は筒身の下端部を台状に広げ上げ底になっている。底板は和鏡をはめ込む。法量は、鈕付笠蓋を入れた高さ27cm、筒身の器高24cm、同径は6.8cmとやや細めである。外容器は陶器の壺で、張った肩部に凸帯を1条めぐらし、耳状に垂れ下がる取っ手が4個所に取り付く。外面下部は格子文叩き目が見られる。なお、経筒内部から見つかった経巻は、紙本墨書法華経であった。
(2)黒崎山経塚(大牟田市大字岬) [番号2]
黒崎山の最高所に位置する黒崎観世音塚古墳(4世紀後半)の後円部墳頂に造営された経塚で、標高は58mを測る。平成7年(1995)同古墳を調査中に、東西方向ほぼ直線状に並ぶように配置された3基が見つかった(坂井編1999)。
1号経塚は、土坑底部の中央に板石をすえ、その上に青銅鋳造製の経筒を設置して周囲に炭を充填して蓋石を被せている。経筒の周囲からはガラス玉が多数検出され、筒身の底と板石の間にもガラス玉が敷きこまれていた。経筒は四王寺型で、被蓋式笠蓋に宝珠鈕を持ち、鈕の周囲には円座がつく。笠蓋は六葉形を成し端部はやや反り返る。またその先端部には瓔珞を垂下するための小穴が見られる。筒身には3本の突帯を有する。上段は二重、中段は三重、台座に接する位置にある下段は一重である。台座は筒身の下端部を台状に広げ上げ底であり、円形の底板をはめ込む。法量は、鈕を入れた蓋高5.8cm、同径9.0cm、筒身の器高22.9cm、同口径は9.2cm、同底径10.6cm、器壁の厚さ約1mmである。なお、経筒周囲から出土したガラス小玉は瓔珞に使用されていたものと推定される。筒身の下から出土したものも含めて100個以上あるが、すべて巻き付け技法で製作され、色調は白色が中心で青色のものが少数見られる。
2号経塚は、1号経塚の西側3.5mの地点で検出された。石室の内部に外容器に容れられた陶製の経筒を配する。経筒はⅡ類Bの陶器壺に土師器の転用品の蓋を被せたものである。筒身は、肩の張りが小さく畳付より内側を削りだす。表面にはオリーブ色に発色する釉が施される。法量は、口径6.2cm、器高22.5cm、底径6.8cm、胴部最大径19cmを測る。外容器はⅡ類Eの陶器四耳壺である。口縁部が厚く肥大し、底部は高台を削りだす。肩部にはゆるく波状を描く沈線をまわし、横位の耳を4ヶ所に貼り付ける。口縁部から体部にかけて、オリーブ色の釉を薄く施す。その法量は、口径10cm、胴部最大径19cm、底径8.6cmであるが、上半分と下半分の接点がなく器高についてはわからない。
3号経塚は、1号経塚の西5.5mの地点で検出された。石室内には、蓋はすでにないものの青銅鋳造製の有節経筒が安置され、周囲には炭化物が混じる黒い土が充満していた。筒身は、中央部に二重凸帯を1本廻らす。底部は一段を付けて低い台座とし、底面には円形の銅版を嵌め込み3ヵ所の小孔で留める。口端部直下にも小孔が3ヵ所開けられている。筒身の法量は、口径9.1cm、器高21.9cm、底径10.6cmを測る。因みに、掘形西側に掘り込まれた土坑は、遺物の出土がないものの経塚であった可能性が高いとされる。埋土が締まっておらず撹乱を受けたと考えられるため、有機質の経筒の可能性は低いかと思われる。
(3)城の谷経塚(八女市大字北田形字城の谷) [番号4]
矢部川を眼下に見下ろす標高96mの丘陵頂部に位置する。昭和54年(1979)、城の谷古墳の墳頂部から社殿建立工事の際に発見され、古墳とともに調査された(宮小路1983)。ただし、経塚はすでに削平されており埋納の状況は不明であったが、工事関係者の証言から、素掘りの土坑に経筒を設置しその周囲に木炭を充填し、栗石を積み重ねて蓋とする構造ではなかったかと推定されている。
経筒は、求菩提型の青銅鋳造製で、細身の筒身を特徴としている。ただし当資料は底板を欠失している。蓋は円形被蓋で、棒状の素鈕に刻み目を入れ相輪状にした鈕がつく。鈕の先端部は欠損しているが、現状では蓋の器高3.33cm、径7.15cmを測る。筒身は、下端部に断面台形の小形の台座を有する。この内側には抉りが入るが、本来はここに円形の底板もしくは和鏡転用品を挿入する。筒身の法量は、器高22.6cm、口径4.9cm、底径5.8cmである。器壁の厚さは1~2.5mmと一定しない。なお、筒身外面には鋳型の合せ目のズレで生じた縦位線が、相対する位置に2本見られる。経筒内部には、筒身下部に付着して紙本墨書の経巻が若干残存していた。
(4)堂ヶ平経塚(八女郡広川町大字水原字堂ヶ平) [番号5]
赤藪山(標高405m)の南斜面、標高160~180mの尾根上に位置する。昭和27年(1952)年、開墾中に3基の経塚が発見された。昭和35年には小田氏らが現地調査を実施している(小田1960)。この際に本遺跡を「堂ノ平」と呼称されたが、正式な字名は「堂ヶ平」であるので訂正しておきたい(小澤2005)。
ところで本遺跡からは、大宰府政庁西面回廊から出土した単弁13弁軒丸瓦や偏行唐草文軒平瓦の同笵瓦が出土している。胎土や調整技法・焼成は、同じく同笵である筑後国府跡や同国分寺跡出土例と同一であり、筑後国内で生産されたものと思われる(小澤2001)。当地には三段の平坦面が見られ、東隣の尾根上は「カネツキ」と呼ばれている。このことから、9世紀前半頃創建された官営の山岳寺院が存在したのであろう。
さて、1号経塚は最大径53cm、深さ60cmほどの樽型の坑を基盤岩に掘り込んだもので、底部中央には、経筒を安置するための刳り込みがあり、内部は大量の木炭が充填されていた。この坑はその形態から、滑石製外筒を意識して掘られたものとされる(稲垣1977)。経筒は青銅鋳造製四段積上式で、上から相輪形鈕をもつ円形笠蓋、四段積みの筒部、二段式の台座から構成される。厚みは約1㎜で均一な造りである。その法量は、蓋径10.4cm、鈕を含む蓋高12.1cm、筒身高23.3cm、同径8.2cm、台座径12.1cm、同高さ4.1cmである。筒内には紙本墨書経片があったが、残存状態が悪く、経典の特定はできていない。
2号経塚は1号経塚から南東6mの地点で発見されたものであるが、埋納状況は不明である。経筒はⅡ類Bの陶器壺に玉縁を有する白磁椀(森田Ⅳ-1類)を蓋として被せている。筒身の器高は29.7cm、口径8.2cm、底径7.5cmで、肩の張りは少なく胴部が膨らむ長胴形状を呈する。器面には淡青褐色に発色する釉が施されている。
3号経塚は、2号経塚の南側から発見されたものであるが、小田氏らの調査時点では完全に畑地化されており、場所を特定できていない。経筒はⅡ類Aの陶器壺に白磁皿(森田Ⅲ類)を蓋として被せている。筒身の器高は29.2cm、口径5.5cm、底径5.6cmを測る長胴の壺で、肩が張り底は上げ底である。
(5)若菜八幡宮経塚(筑後市大字若菜) [番号6]
矢野一貞が記した『筑後将士軍談』に、「若菜奇物図」として紹介されている。これによれば、若菜八幡宮の裏の丘に大きな甕が埋まっており、その中に大小の滑石板が重なって入っていたという。この滑石板は長方形で湾曲しており、表裏と側面に法華経を線刻している。副納品として中心の空洞部に石製の小塔があり、このうちの一つの底面には「王平三年九月」との年号が刻まれていた。ここに見られる「王平」は「壬平」であり、この年号は「仁平三年(1153)」を示すものと考えられている(渡辺1958)。いずれにしても、このような滑石経は他に例を見ない極めて特異なものである。
図3 稲荷山経塚出土経筒(高良大社蔵)※筆者実測・トレース
(6)稲荷山経塚(久留米市御井町字宗崎) [番号7]
高良山(標高312m)の南斜面、標高約80mの地点に位置する。箱書きから、明治31年(1898)年、野中完一氏が大学稲荷神社境内にある稲荷塚古墳の墳頂部より発見したことがわかる。しかし、先述したように埋納状況や副納品については記録が無く不明である。
経筒はいわゆる武蔵寺型で、一枚の銅版を丸めて引き合わせ21ヶ所を鋲止めして胴部を形作り、その下端部を外側に折り曲げ円盤状の底板を合わせて、縁に沿うように24ヶ所を鋲留めしている。この鋲留めの並びの間3ヶ所に、小形の足を留める。蓋は銅板打物式で、中央部が盛り上がり四葉形を呈する笠蓋である。やや反り返る各先端部には瓔珞を垂下するための小孔が開く。鈕は銅版を丸環にしたものを蓋に留めるが潰れている。また、蓋の内側には身受けがある。これは、銅版を短冊状に切り環状に丸めて鋲留めしたものである。蓋との接合方法は、短冊状にした銅板の一方の長辺に小さな切残し部分を7ヶ所作り、蓋側にも7ヶ所の切込みを入れてここに差し込んだ後、蓋からはみ出した部分を曲げて留めたものである。法量は、筒高25.8cm、同口径9.4cm、底径11.3cm、脚高2.85cm、蓋高2.45cm、蓋径13.65cm、身受け径9.7cmを測る。筒身内面には紙本経片が付着し、内底部中央には一経巻の痕跡が認められる。
(7)観音寺経塚群(久留米市田主丸町大字石垣字東谷) [番号16]
耳納山地の最高峰、鷹取山(802m)の北西麓に位置する。天台宗石垣山観音寺境内に所在し標高は43mである。昭和49年(1974)県道拡幅工事中に発見され、応急的に調査が実施された(宮小路1994)。経塚は、当時の境内南辺に沿うように位置し、特に5号~9号経塚は東西方向ほぼ一直線に並んで配置されている。
1号経塚は江戸時代に再埋納されたものである。経筒は鈕の先端部を欠失しているものの青銅鋳造製の四王寺型で、復元総高24.5cmである。被蓋式笠蓋は四葉形で、復元高4.9cm、直径12.6cmである。蓋の頂部には凸帯で円圏があり、その内側の円座の上に宝珠鈕を置く。筒身は器高21.15cm、同口径8.5cm、同底径10.1cmを測り、3本の突帯を有する。口端部直下の上段は二重、筒身中程の中段は三重、台座に接する下段は一重である。台座は筒身の下端部を外側に台状に広げ、円形の底板を下部より嵌め込む。筒身中央部には「永久四年歳次丙申二月五日勧進僧厳与」銘が見られる。外容器は東播系の甕である。なお、陀羅尼墨書礫が経筒内より検出されたが、これは再埋納の際に納められたものである。
2号経塚は土坑中に青銅鋳造製の経筒を置き、陶器の壺を外容器として伏せてあった。経筒は四段積上式であるが相輪形の鈕が欠失し、破損と変形が著しい。円形笠蓋を被せた総高は33cmで、鈕の存在を考慮した場合、42cmほどになると考えられている。外容器は灰釉を施した壺であるが所在不明である。外容器の蓋であったものなのか、白磁椀(森田Ⅵ-1・b類)が1点出土している。
3号経塚は素掘りの土坑で、底部に扁平な石を据えてその上に青銅鋳造製経筒が置かれていた。土坑内には炭が充満している。経筒の筒身は細身ながら節を有し、その外面には円筒半裁形の鋳型の合せ目を示す縦位線が相対する位置に2条見られる。その法量は、高さ26.6cm、口径6.8cm、底径7.8cmである。底板には円形銅版を下から挿入する。この経筒は筒身の口縁部と中程には帯状の膨らみが廻り、台座と接する部分にも一重の凸帯が廻るなど、四王寺型の影響を多分に受けている。しかし製作技法やその発色などから、求菩提山経塚出土品にその類例を求めることができる(宮小路1994)。蓋は円形被蓋で、宝珠形の鈕が付く。法量は、径9.2cm、高さ3.6cmである。経筒内部には、紙本墨書で巻子仕立ての法華経巻第四見寶塔品第十一残欠が見られた。
4号経塚は撹乱著しくその構造は不明である。経筒は、欠損著しいが青銅鋳造製四段積上式である。内部からは経軸の残る経巻残欠が発見された。副納品として青白磁の合子があり、内部には北宋銭2枚が納められていた。銅銭は「祥符通宝」(1008年初鋳)と「宣和通宝」(1119年初鋳)である。
8号経塚は、石室内に扁平な石を敷きその上に経筒を据えたもので、石室内部には木炭が充填されている。経筒は青銅鋳造製の四王寺型である。蓋は六角形被蓋で、高さ4.4cm、径12.3cmを測る。蓋先端部には、それぞれ瓔珞を垂下するための小孔が開く。うち3孔の上面にはガラス玉が2個ずつ銹着している。蓋の頂部には突帯で円圏を形成し、その内部に宝珠形の紐が乗る。筒身には3本の突帯を廻らし、口縁部下の上段に二重、中段に三重、台座と接する下段は二重となっている。筒身の法量は、高さは22.1cm、口径8.1cm、底径10cmを測る。経筒内部から、紙本墨書経が完存した状況で発見された。その内容は、般若心経と法華経全巻であり、巻首に「天永参年歳次壬辰九月七日書写」と書かれ、勧進僧浄因と執筆僧智昭の名が見られる。
上記5口の経筒のほかに現存するものとしては、明治44年(1911)頃に発見され寄贈された、東京国立博物館蔵の青銅鋳造製経筒2口(いずれも四王寺型)がある。また、記録のみではあるが、延宝2年(1674)に発見された8本のうち『筑後将士軍談』に記載された3口(四王寺型2口、武蔵寺型1口)のスケッチが残る。このうち四王寺型の経筒には、永久四年歳次丙申二月五日に勧進僧厳与によって経塚が造営されたことがわかるものがある。この資料は、1号経塚出土の経筒と紀年銘、年月日、勧進僧名が同じである。武蔵寺型のものは、蓋と台座が欠けており筒身のみ描かれる。
また、寺伝によれば東方350mの地点にある石垣神社付近からも経筒が出土し再埋納されたという。同社は、近世までは観音寺と一体で石垣真宮社などと呼ばれている。この経筒も観音寺経塚群と一連のものと捉えてよいだろう。
以上を整理すると、寺伝などから判明する経筒の出土は、5度に渡り合計13本となる。それに加えて昭和49年の調査で発見された5本を足し合計18本。ただし、1号経塚は再埋納であるので、これを引き合計17本となる。そのうち7本が現存する。この数をみても筑後地方最大規模の経塚群であることは間違いない。
(8)観音堂経塚・権現堂経塚(うきは市大字新川字中内ヶ原・長畑) [番号18・19]
先述したように、明治36年(1903)の11月に観音堂裏の丘と権現堂下から相次いで発掘された。両者は谷あいの集落内に向けて舌状に延びた同一丘陵上に立地し、権現堂は観音堂の南約100mに位置している。「諌山文庫」には当時の発掘記録が図入りで紹介されている(浮羽町史編集委員会編1998)。
これによれば、観音堂経塚には板石で石室が構築されていた。内部にはさらさらした土が満たされ、香炉や太刀、陶器の甕などが納められていた。甕には蓋が無く、内部には四王寺型の青銅製経筒が安置され、その周囲は木炭が詰められている。経筒内の経典は腐食していたが、経軸が2・3本残存していたらしい。
一方の権現堂経塚は、小石を主体とする盛土上に権現堂があり、その盛土下部から滑石製容器に納められた青銅鋳造製の四王寺型経筒が発見された。外容器は直接埋納である。興味深いことに、外容器と経筒はほぼ同じ高さであるため、外容器の蓋には孔が開けられ、経筒の鈕部分が外部に露出した状態であったようである。埋納の際、現場で調整したものだろうか。なお、経筒内部には紙本墨書法華経が残存していたという。
図4 筑後地方出土経筒集成
5.筑後の経塚をめぐる諸問題
(1)経塚の年代
まず、当地方の経塚の年代であるが、紀年銘等から年号がわかるもので最も古いものは、観音寺8号経筒の天永3年(1112)であり、続いて同じく1号経筒の永久4年(1116)である。ともに青銅鋳造製の四王寺型である。そして、若菜八幡宮の滑石経が仁平3年(1153)と考えられており最も新しい。確認されるその他の青銅製経筒、陶製Ⅰ・Ⅱ類、外容器の陶器、蓋に使用された白磁なども、この12世紀初頭~中頃の年代幅にほぼ収まるものと思われる。ただし、陶製Ⅱ類の中には、13世紀代まで下る可能性を有するものも含まれている。
以上から、当地方における経塚の造営は、11世紀後半まで遡る肥前や筑前に遅れて開始されたものの、北部九州の他地域と同様、12世紀前葉にピークに達し、同半ば以降急速に廃れたものと考えてよい。13世紀代まで残る陶製Ⅱ類の一部については、青銅製経筒の生産が終了したため、輸入陶製陶器を転用しながら細々と埋納されたのであろう。
図5 青銅製経筒の種別割合
(2)経筒から見た造営の背景
青銅製経筒は、出土量の多い順に四王寺型・積上式・武蔵寺型・求菩提型となり、四王寺型と積上式で全体の8割近くを占める。この四王寺型経筒の銘文には、大宰府観世音寺の僧名が頻繁に見られることから、観世音寺と四王寺型経筒との関係を指摘する見解がある(杉山1985)。もう一方の積上式経筒については、先述したように観世音寺南側で生産されており、観世音寺と工人集団とが密接な関係にあったとされる(村木1998)。すなわち、経筒の製作工房と観世音寺を主体とする勧進集団は、一体となって筑後地域における経塚の造営活動を展開していたとものと思われる。
また、北部九州に数多く分布する、貿易陶磁を使用した経筒が出土する点も見逃せない。経塚造営が活発な12世紀前半の長承3年(1134)には、中国南宋の商船が有明海沿岸の肥前国神崎荘に入港している。筑後川流域は初期貿易陶磁器以来、中国陶磁器が多量に出土する地域である。これらを考慮したとき、有明海~筑後川ルートの私貿易が存在していたという指摘(田中1996)は重要である。中国からの陶磁器が入手し易い状況があったために、陶製経筒や外容器が数多く使用されたものと考えられるのである(小田1966)。
(3)経塚の立地と筑後の霊山
次に立地について見ておきたい。城の谷のように見晴らしのよい小高い丘陵上に営まれるものや、黒崎山に見られるように海に突き出した岬の先端部に位置するもの、堂ヶ平のように山岳寺院内に営まれるもの、観音堂・権現堂のように山間部に立地する例などがあり、霊山や霊地に造営されることが多い。
高良山は高良玉垂宮が鎮座する神奈備山として名高い。標高312mの小山ながら、筑紫平野に向かって半島状に突き出し、平野全体が一望できる軍事戦略上の要地でもある。古くから磐座に対する信仰があったが、8世紀後半~9世紀前半頃に神宮寺高隆寺が成立して以降、神仏習合が進み一大教団を形成するに至る。
さて、高良大社の「昭和十四年十月調・宝物貴重品解説」には、「経塚ハ高良山中往々ニ存セリ本品モ亦ソノ一ニ属ス」とあり、同経塚以外にも山内に経塚が存在したことをうかがわせる。また、「高良玉垂宮神秘書」には、山頂付近は別所と呼ばれ、高良大菩薩(高良玉垂神)が経典・仏具の入った筥を納めたと記される。これが、経筒の埋納を示すものかどうかの判断は難しいが、霊山の山頂での経塚造営は可能性として考えられよう。
一方、同山北麓には阿支岐や永勝寺など、経塚が集中して造営されている。この地域は高良山三口の一つにあたり、高良山関連の神社や寺院が建ち並んでいたところである。これらの経塚についても一連のものと考えられ、南斜面の中腹にある稲荷山経塚と合わせ、同山における重層的な経塚造営のあり方を示すものとして興味深い。
もう一つの著名な霊山として石垣山があげられる。これは、標高420mの神奈備山である。観音寺はその麓に位置し石垣山を号する。「寛文十年久留米藩寺院開基」によれば、もとは座主・本坊・中坊・門坊・水上坊・奥坊・少々路坊・観世音寺・大炊寺・蓮用寺・往生寺(現字名王浄寺の地か)・二田寺・小石垣寺の計13カ寺を数えたという。少々路坊という名称などから、観音寺を中心に区画道路が整備されていたことが想像される。中世段階には各寺院がこれに沿って配置され、境内都市的な空間を形成していたのであろう。
また、観音寺と石垣山の背後には耳納山地の最高峰鷹取山が聳えている。観音寺からの比高差は約750mあり、水縄断層により形成された断層壁は登るにつれ厳しい急傾斜となる。山頂からの眺めは素晴らしく、北東方向には英彦山、北西には宝満山、西北西方向には背振山が見える。「寛延記」によれば、当山の中腹にあたる石垣山西側には、奥ノ院と称する場所が存在し、行基作と伝える嶽の観音と寺院があったという。同じく東側には岩屋権現があり、かつて祠が存在したという。石垣山や鷹取の峯に対する山岳信仰は古くから存在し、観音寺及び同経塚群もこうした背景の下に成立したものと考えてよいだろう。
(4)天台系寺院や修験道の影響
経塚造営の背景には、天台系寺院の興隆や修験道との関係が多分にうかがわれる。筑後最大の経塚群を抱える観音寺は、当地方における天台密教の中核であり、耳納山地西端部に位置する高良山は、全山が天台・真言密教の学地である。この石垣観音寺から高良山に至る間の耳納山地北麓一帯にも、永勝寺など天台系の寺院が存在し、同時に経塚が集中して営まれている状況である。また南に目を転ずると、有明海に突き出た黒崎山中腹に高良玉垂命を祀る黒崎玉垂宮が鎮座し、筑肥山地北西部の日吉坊経塚の南には天台宗の古刹本吉山清水寺がある。この両者間には、現在も天台系寺院や小堂などが点在しており、かつては筑肥山地西麓一帯も天台系教団の強い影響下にあったことが想像される。このように、筑後地域でも法華経を根本経典とする天台系寺院と経塚の分布とが良好に重なり、当然の帰結とも言えようが、その密接な関係が伺われよう。
一方、観音寺1号経筒と『筑後将士軍談』記載の延宝2年出土経筒(四王寺型)には、「勧進僧厳与」の名が見られる。この「厳与」が英彦山修験僧であることは既に指摘されているとおりである(小田ほか1979)。さらに、同3号経塚には求菩提型のスタイルと銅質を持ちながら、四王寺型の影響が色濃い有節経筒が存在する。このように、大宰府系だけではなく英彦山・求菩提山などの修験道の影響が波及した結果、観音寺経塚群には四王寺型・積上式・武蔵寺型・求菩提系有節経筒など、多種類の青銅製経筒が多数埋納されることになったのである。
次に、若菜八幡宮経塚について触れておきたい。同経塚は広川荘に所在するが、荘の領家職は熊野山である。荘鎮守熊野神社の勧請は保延4年(1138)とも久安3年(1147)ともいわれ、同じ頃に同神社の300m東に神宮寺坂東寺(天台宗)が建立されたものと思われる。また、『筑後将士軍談』に図示された滑石経の願文には「八幡大菩薩・住吉大菩薩・春日大明神」「高良大菩薩・阿支妓正一院・阿蘓十二宮」など複数の神名・菩薩名が書かれている(渡辺1958)。八幡神や住吉神は高良玉垂神(高良大菩薩)とともに高良大社の祭神である。先述したように、阿支妓は高良玉垂命の9王子を祀る阿志岐社があったところである。さらに、阿蘓十二宮とは阿蘇神社のことを指すものと考えられる。これらから、本経塚造営の背景には、九州における熊野信仰や修験道、山岳信仰などの影響があったことを考慮する必要があるだろう。
最後に、王浄寺経塚が所在する森部村に伝えられる伝説について触れておこう。「壊山物語」(西見家文書)によれば、同村内の耳納山中に大谷という谷があり、この東には大蛇が住んでいた。しかし勧進僧が法華経千巻を納めると麻生池に逃げ去ったという。法華経の呪力を伝える地元の伝承であるが、経塚との関連も想像でき興味深い。
以上、筑後地方における経筒および経塚について概観した。その結果、当地方では筑前、特に大宰府地域の影響を受けていることがわかってきた。特に観音寺経塚群ではその傾向が顕著で、かつ距離的にも近い豊前方面からの修験道霊山系の影響も見られた。筑後では発掘調査例が未だ少ない状況ではあるが、今後、更なる考古資料や文献史料との相互比較と検討を進める必要性を痛感しながら、一先ず筆を置きたい。
なお、稲荷山経塚出土の銅版製経筒については、高良大社(竹間宗麿宮司)より実測・写真撮影および掲載の許可をいただきました。末文ながらあわせてお礼申し上げます。
参考文献
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*『経筒が語る中世の世界』思文閣出版、2008年5月刊より。
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