小 澤 太 郎
府中宿に残る最古のえびす像とされる。祠には文政十年(1827)の紀年銘あり(高良下宮社本殿裏)。
現地調査日:平成29年(2017)2月3日(金)
たびたび踏破している久留米市域や近郊の江戸時代の街道ですが、現在本業の方でもその成果を生かして、坊津街道マップを作成中。今回は振替休日を利用して、再度確認して回りました。街道歩きのブログやHPはよく見かけますが、ここではあまり触れられていない点を中心にレポートします。まずは、南から。
今回掲載した本文中の写真撮影場所。●番号は写真番号と対応している。この地図のPDF版(1.86MB)はこちらからダウンロードできます〔久留米市域の主な街道〕。
まずは、久留米市荒木町藤田の広川に架かる旧永代橋(えいだいばし)跡から。国道209号の現永代橋の下流側に位置していますが、昭和13年(1938)に行われた橋の付け替えと国道の直線化に伴って、現在は河床に基礎部分を残すのみとなっています。江戸時代初期の正保四(1647)に記された「筑後国之内大道小道之記」注1)によると、藤田川(広川)幅8間(約14.5m)、水1尺5寸(約45㎝)とあります。街道の名残でしょうか。右岸側には旧街道が長さわずか10mほどですが、畦道のように残っています。また、かつては、付近の街道沿いには茶店が数軒、軒を並べていたといいます。 ※この橋については、地元在住の松尾清次さんからお話を伺うことができました。
❶広川河床に残る旧永代橋の基礎部分と両岸の護岸。国道209号の現永代橋から撮影。
参考:相川北端を前進中の第12師団司令部(明治44年11月11日午前9時30分撮影)注2)。陸軍特別大演習で街道を南下する小倉の第12師団司令部の隊列を写した写真。周辺状況や背景から永代橋付近の可能性が高いと考える。幅1間ほどの道の脇には、松が並ぶ。写真奥には、道沿いに2軒の民家が見える(あるいは茶店か)。
正保四年の「筑後国之内大道小道之記」では、「藤田川(広川)渡り」とあるので、江戸初期の広川には架橋されていませんでした。続けて「広さ八間(約14.5m)、深さ壱尺五寸(約45.5㎝)」と記されており、当時の川の規模がわかります。その後、広川には木橋が架けられ、安政4年(1857)に石橋となりました。しかし、同6年の洪水で流され、慶応元年(1965)に再建されます。この時、永代橋と命名されたのです注2)。
さらに進んで、荒木町藤田の国道209号相川(あいごう)信号から、丘陵地帯にある自衛隊の高良大演習場を抜けます(県道86号)。ここは道が拡幅されているものの、切通状の道を覆う松の幹枝で薄暗く、当時の雰囲気を感じさせてくれます。上津小学校横を通り抜けると、二軒茶屋(上津町)に出ます。なお、二軒茶屋の浦山公園には、公園南入り口の駐車場と、公園北西隅の❷写真撮影場所に、トイレがありますので、坊津街道歩きの際はご利用ください。
❷浦山公園の北西隅に沿って走る旧道。この峠を越えると、府中宿の手前まで平坦地が続く。
明星中学校前を抜け、久留米大学医療センターの角まで来ると、陸上自衛隊久留米駐屯地に突き当たります。駐屯地内には通路として街道が残っているのですが、通常一般の人は通れませんので、そのまま県道86号線を通って東に迂回し、駐屯地の敷地北側へ回り込みます。そのまま県道を北に進み、高良川にかかると前方に台地が見えます。街道左手の台地は、古飯田(ふりゅうでん)台地と呼ばれます。字名は「大銃場(おおづつば)」。幕末にからくり儀右衛門こと田中久重(のちの東芝創業者)が、久留米藩に命じられて大砲製造所と試射場を造ったところです。
❸高良川に面した左手の台地状に久留米藩製造所があった。昭和初期に台地上に設置された記念碑は、現在写真の旧街道(県道86号)左手に見えてくる高牟礼市民センター前に移転設置されている。
県道86号を北上すると、矢取信号に出ます。交差点の北西角には大正10年ころ建立されたエビスさんがあります。ここから約280mで、いよいよ府中宿の南搆口に入ります。大鍋屋さんの古い建物や本陣跡の井戸、高良大社の大鳥居の写真などは、坊津街道を取り上げたHPなどでもよく掲載されていますので、ここでは省略。府中宿については、いずれ取り上げたいと思います。なお、府中宿の旧広手にある西鉄バス御井町バス停にもきれいなトイレがありますので、街道歩きの際はご利用ください。
❹下町の辻から祇園山古墳へ向かう路地。江戸時代そのままの雰囲気が残る。
❺府中宿の中ほどにある高良下宮社の石垣。明治時代中期ころまであった構口の石垣を解体して組まれたものだという。
府中宿の北構口を過ぎると、久大本線が走る「水縄断層」の断層崖を降ります。旗崎信号を過ぎ、九州自動車道をくぐり抜けます。国道210号久留米東バイパスの野口信号付近は、区画整理のため街道が消滅しているので適宜迂回しながら、筑後川の神代橋へ向かいます。神代の渡しは、鎌倉時代には神代氏が管理する浮橋があったところです。先の「筑後国之内大道小道之記」には、「筑後川神代舟渡り、広さ五拾間(約90.9m)、深さ七尺(約2.12m)」とあります。
❻筑後川左岸側には、「史蹟神代浮橋之跡」の標柱と説明版がある。
参考:神代軍橋通過中の後備歩兵第五十五連隊(明治44年11月13日午前10時30分撮影)注3)。橋は、船を並べその上に桁と板を渡す浮橋の構造である点、基本的に中世から変わらず興味深い。
神代の渡しを過ぎると、古賀茶屋から光行茶屋へひたすら筑後川がつくりだした平野の中を進みます。西鉄電車甘木線の古賀茶屋の手前から東へ入り込む旧道から、大刀洗川の土手に出ます。この土手は光行土居(みつゆきどい)といい、河川の氾濫を防ぐ土手上を坊津街道が通ります。宮ノ陣クリーンセンターの北出口がぶつかる国道322号の歩道上に一里塚跡碑があります。この国道は、光行土居の微妙な屈曲を無視して通されているので、旧街道は土居の北端部では現道からややはずれながら、光行茶屋(小郡市光行)へ向かいます。
❼当時の姿が残る光行土居と坊津街道。
◆江戸時代の行程(現代のう回路考慮せず)
永代橋~二軒茶屋 約4.2㎞。
二軒茶屋~府中宿広手 約3.6㎞
府中宿~神代の渡し 約2.7㎞
神代の渡し~古賀茶屋 約2.2㎞
古賀茶屋~光行茶屋 約2.8㎞
今回の全行程 約15.5㎞(所要時間約3~4時間)。
ちなみに、現代の平均的な60代女性が歩いた場合、消費カロリーは約760kcal(おにぎり4.8個分)。ただし、この数値は高低差が考慮されておりませんので悪しからず…。
注1)久留米市史編さん委員会 1993『久留米市史』第8巻、資料編近世Ⅰ、久留米市史編さん委員会。注2)『福岡県の地名』日本歴史地名体系第41巻、2004年、平凡社。
注3)特別大演習統監部 1912『明治四十四年特別大演習写真帖』。
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