小 澤 太 郎
新潟県柏崎沖で石油を積込む青龍丸。明治末頃の国油共同販売所時代の撮影(柏崎市立図書館提供)
1.はじめに
幕末の久留米藩は、蒸気船・帆船あわせて7隻の洋式船を所有していた。これは、幕府を除く諸藩の中では、明治維新の原動力となったいわゆる薩長土肥に次ぐ数である※1。7隻中、最も大型だったのは、慶応3年(1867)11月19日に購入した英国製の蒸気船千歳丸(600t)であり、本稿が刊行される今年は、同船の製造・購入からちょうど150周年に当たる。
千歳丸は、明治元年(1668)に戊辰戦争へ参加して兵員輸送等で活躍、同年3月には、大坂天保山沖での本邦初の観艦式に参列するなど、名実ともに久留米藩を代表する船であった。函館戦争終結後は、沿岸貿易船として商人を乗せ、主に日本海側を中心に各港を廻航するなど積極的に運用されたが※2、同4年の廃藩置県後は久留米県を経て三潴県の所有となった。同年11月、船名を青龍丸と改名し商人に賃貸され、大蔵省から正式の商船免状が下りた。しかしそれもつかの間、年が開けると東京品川へ向かい、翌年大蔵省に接収されたが、その後の足取りは長らく不明であった。
以上のような千歳丸(青龍丸)や幕末久留米藩海軍に関する研究は、戦前に浅野陽吉が概括的にまとめて以降(浅野1937~39)、鶴久二郎・古賀幸雄による新資料の紹介(鶴久・古賀1967、1970)、『福岡県史』への三潴県行政資料の掲載(今津編1984)、古賀幸雄による新史料の紹介(古賀1993、1995)などがあるのみで、その後、特段の進展がなかった。ようやく近年、樋口一成が日本郵船関係や他地域の史料に基づき、廃藩置県後の青龍丸の船歴の概要や大正2年(1913)3月に沈没した事実を紹介した(樋口2015)。
筆者も近年、藩海軍について関心を持ち、その資料収集と検討を行ってきた。その結果、青龍丸の所有者は点々とし、大正2年に新潟県柏崎沖で沈没するまでの間に大変な紆余曲折があり、かつ様々な歴史的局面にも関わっていたことが判明した。その経緯についての史料は膨大であり、詳細は別稿にて論ずるとして、本稿では、新史料を用いて青龍丸座礁沈没の経緯とその具体的な状況、その後の船体処理までを明らかにする。
2.事故に至るまで
明治政府は、国内の海運業をテコ入れするために、青龍丸など旧藩から接収した洋式船を日本政府郵便蒸気船会社に下げ渡した。この頃、青龍丸は陸軍の中国・四国地方沿岸部測量などに従事している。しかし間もなく同社は、経営悪化に伴い明治8年9月に解散した。
政府は、その直前の同年6月に青龍丸を含む同社所有船を買い上げ、解散直後に設立された郵便汽船三菱会社に無償で下げ渡した。青龍丸は、ほどなく西南戦争に応徴され、兵員や弾薬輸送に従事、復帰後は小笠原諸島定期航路に就航した。さらに明治12年、函館-青森間の青函定期航路が開設されると、同航路に追加投入された。その後、神戸-仁川線へ就航し、明治18年(1885)、前年に朝鮮で勃発した甲申政変の全権使節が来日した際には、帰国の途にあった使節一行が神戸で乗船した(一行は長崎からドイツ船に乗り換え帰国)。ちなみに、この時、青龍丸に乗り合わせた人物に、朝鮮半島最初のキリスト教宣教師H・G・アペンゼラーとH・G・アンダーウッドらがいる。彼らは長崎港を経由して、4月5日のイースターの日に念願の仁川上陸を果たしている。
同年9月、三菱商会と共同運輸会社が合併して日本郵船会社が設立されると、青龍丸は青函航路に復することになった。明治26年(1893)2月には、航路が室蘭まで延長され、三港定期航路が開設された。同33年(1900)10月、新たに北海道小樽―稚内間の運行が開始され、青龍丸が同航路へ就航したのも束の間、翌年3月、同船は敦賀貿易汽船株式会社へと売却された。
敦賀は明治29年、外国貿易のための特別輸出港の指定を受け、同32年には開港港則に加えられ開港場(外国貿易港)となった。青龍丸は、外航最初の船として朝鮮半島の牛荘に向かい、大豆・豆粕を買い付けて帰港した。これは敦賀港における外国商品輸入の第一号ともなった。しかし、業績は芳しくなく、打開策として敦賀-小樽間の定期航路を、同35年にはロシアのウラジオストックまでの航路を開設した。同37年、日露戦争が勃発すると青龍丸は海軍の雇船となり、主に佐世保と対馬竹敷間を結ぶ通信船として、また、長崎港監視や、武装を施して水路嚮導の任務についた。
ところが、日露戦争終結後の明治40年(1907)、神戸で海運業を営む井上文太郎に売却、翌年には新潟の長岡商業会議所会頭で宝田石油会社専務取締役であった渡辺藤吉に転売された。ここで石油運搬船として改装され、青龍丸は新たな道を歩むことになった。同氏が取締役社長を務めた株式会社国油共同販売所では、宝田石油の石油製品を東京や大阪、下関など各地に海上輸送し専売する業務に従事した。なお、この時、実際の回漕業務に携わっていたのは、柏崎回漕株式会社である。同社では、日雇い人夫が艀まで運ぶ石油一斗缶2本入りの木箱を、青龍丸に毎回5,000~10,000箱ほど積み込んで、柏崎港を出港した。その後、同45年には、青龍丸の所有権が新潟伏木の塩谷合名会社へと移り、船籍港は越中国射水郡伏木町(現富山県高岡市)となった。このような状況下、悲劇の時は刻々と近づいていたのである。
青龍丸乗揚事件関係地図
3.その日何が起こったのか
青龍丸の最終航海は、大正2年(1913)であった。積荷を降ろして、柏崎へ戻る航海の途上のことである。樋口が紹介した『柏崎文庫』第6巻には「三月一七日青龍丸柏崎浜沖ニて沈没」と記すのみで、事故の様子やその後の船体処理など具体的な記述に欠けていた(樋口2015)。しかしこの事故は、明治29年の法律第69号の海員懲戒法に基づき「汽船青龍丸乗揚事件」として処理され、大正2年7月1日に大阪の海員審判所で船長に対し判決が言い渡された。その「裁決録」※3から判明した事故当時の具体的な状況は、以下のようになる。
3月3日の午後4時30分、青龍丸は山口下関港から柏崎に向けて出港、最終寄港地の佐渡小木港を16日午前零時41分に抜錨した。柏崎港までは直線で約54㎞の距離である。同56分に全速力となり、針路を南微東4分の3東(磁北から約160.3°南)にとり、柏崎に向かって8ノットで進んだ。船長は当直の一等運転士に対して、午前1時半になったら報告するよう命じ、一旦ブリッジを降りた。その時刻になったので再びブリッジに出て測程儀で測定した。23海里4分の1(43.059㎞)であったので、到着時間の調整のため、機関を微速力に落とし、陸地に近づいたら知らせるように当直に命じて、海図室に入った。そうして午前4時、当直から報告があり、ブリッジに上って一等運転士に投錨準備を命じた。同5分、測定儀を引き揚げると23海里(42.596㎞)を示した。しかし、水深を測らず、なおも前進を続けた。同25分頃、左舷船首から4点(45度)方向に突然暗礁が見えたので、陸地に近づいたことに気づいた。慌てふためいて右舷の錨を投じて機関停止、全速力後退を行ったが、その甲斐なく柏崎海岸から3縺(555.6m)沖の浅瀬に乗り上げてしまった。その後、できるだけ浅瀬から引き下ろそうと努力したものの、強風と激浪のため、ついに救助の見込みがないとの判断になった。当日は、晴天であったが暗い夜で、水面には靄が立ち込め、北西の風浪は激浪であった、という。
また、地元では事故の様子を次のように伝えている(笹川1963)。
「うすぐらい早朝の浜べは、雪消えのもやをまじえてガスがたちこめ、海も陸もミルク色にとけ あっています。佐渡からでてきた青竜丸がこのガスのために浅瀬にのりあげてしまいました。波が船をおしてさらに浅瀬にめりこませてしまいました。」
これらの史料の記述から、晩春未明の濃霧による視界不良と操船ミス、強風と高波が重なって浅瀬に乗り上げ、身動きがとれない状態になったことがわかる。なお、座礁した場所は、柏崎港の天屋下浜の浅瀬(現みなとまち海浜公園沖)と伝えられている。
海員審判所では、船長に対する海難報告書、逓信管理局技師荒木賢保によって作成された船長と一等運転士の海難調書、機関日誌の写し、新潟県巡査による船長の聴取書、新潟測候所の気象観測データ、船長の供述を踏まえて、遭難の原因が船長の職務倦怠にあると断じた。結果、船長は乙種船長免状の一ヶ月停止処分となり、船本体も救助の見込なしとされた。
船体は程なく海中に没した。この事故は、地元でも新聞報道され話題となった。「週刊越後タイムス」の3月30日付第7面には、「青龍丸の御陀仏」という見出しで、16日座礁した同船が23日ついに沈没したとの記事がみられる。先の『続・柏崎物語』によれば、座礁後、解体引き揚げとなったが、海上に露出する部分だけの作業に止まり、水面下はそのまま沈んだ状態で残った。そのため、「海があれると船材が打ちあげられます。それで罪になる人をだしたくないというので」町内に寄付されたという(笹川1963)。
4.青龍丸の船体処理
しかし、青龍丸の物語はこれで終わったわけではなかった。大正2年4月6日付「週刊越後タイムス附録」には、「青龍丸の競売」という見出しで、再び登場する。記事には、神戸の某氏1,500円にて落札とある。なおも水中に沈む船材を他へ売却することになったのである。
実際に引き揚げ事業が開始されたのは、それから3年が過ぎた大正6年8月のことであった。この事業は、権利所有者と町内の代表者との共同で行うこととなり注目を集めた。だが、着手が遅れて事業は進まず、春を待ちあらためて同7年4月初旬から再開することになった。大正7年2月24日付の「週刊越後タイムス」紙の第7面は、この間の状況を「青龍丸の残骸引揚」との見出しで続報を伝えている。
町代表者の小林長七・長井保三・柴野直吉らによる引き揚げ作業は、予定よりも遅れて6月の再開となったようである。この時の「週刊越後タイムス」(大正7年8月4日付第1面)は、「青龍丸引揚額」の見出しで「柏崎裏浜中に於て青龍丸残骸引揚げは火薬使用工事に着手以来成績頗る良好にして」と作業が順調であった様子を伝える。しかし、その作業方法は、「ノト(引用註・能登か)から取りよせた竹を船の下方に一面にさしこみ、ダイナマイトではかいしてはロクロですべらせながら引きあげる」というかなり手荒なものだった(笹川1963)。
作業は7月下旬まで続き、引き揚げた鉄材約7千貫目(22t)、真鍮類百貫目(375㎏)以上に達し、その売却額は約8千円にのぼった。折しも大正3年に勃発した第一次世界大戦は、世界的な船舶需要を生み、その材料となる鉄鋼や銅・真鍮・黄銅・亜鉛などの金属が大幅に不足していたのである。ちょうどこの頃、柏崎でも鉄くずが暴騰し、石油積み込みなどの日雇い労働より「ボロ買い」に転業する者が多かった。因みに、第一次世界大戦は同年11月終結し、その反動としての諸物価の暴落は、早くも翌年3月頃にやってきて、大戦景気は柏崎のみならず全国的に沈静化した。
こうして、1867年に英国スコットランド地方で製造され、幕末の久留米藩が購入した蒸気船千歳丸は、46年の紆余曲折の末ついに新潟県柏崎沖で座礁沈没、その長く波乱に満ちた船歴を閉じて、元の金属素材へと戻った。それがその後どう再生されたのかは、もはや誰にもわからない。
註
※1 「(明治元年)蒸気軍艦届 自5月 至12月 諸藩より所有艦船を届け出るもの」、「(明治2年)諸藩舩艦記」、『(明治3年)諸藩艦船有無届』(以上防衛省防衛研究所所蔵)、江藤ほか編1974、浅野1937・1939bなどから集計。
※2 小泉憲貞編1915には、「(明治)三年六月汽船千歳丸筑前(ママ)久留米藩主の所有船にて北海道より鯡鮫粕七百本、胴鯡五百束、角田干鰯二千俵搭載港碇泊せしを(蒸気船入港の)第三回とす、此船松屋清一郎方にて貨物を売捌く是を汽船荷物売買の嚆矢とす」とある。
※3 国立国会図書館議会官庁資料室所蔵マイクロフィルムより。
参考文献
浅野陽吉 1937『梅野多喜蔵先生伝』筑後郷土研究会。
浅野陽吉 1938a「本邦最初の観艦式と久留米藩海軍の光栄」『郷土研究筑後』6-3、筑後郷土研究会。
浅野陽吉 1938b「雄飛・晨風・神雀及び和泉の諸艦」『郷土研究筑後』6-5、筑後郷土研究会。
浅野陽吉 1938c「千歳丸購入始末」『郷土研究筑後』6-7、筑後郷土研究会。
浅野陽吉 1938d「久留米藩の艦船・軍港及仮泊所」『郷土研究筑後』6-8、筑後郷土研究会。
浅野陽吉 1938e「千歳丸の艦歴(上)」『郷土研究筑後』6-9、筑後郷土研究会。
浅野陽吉 1938f「千歳丸の艦歴(中)」『郷土研究筑後』6-12、筑後郷土研究会。
浅野陽吉 1939a「千歳丸の艦歴(下)」「久留米藩海軍の法制」『郷土研究筑後』7-2、筑後郷土研究会。
浅野陽吉 1939b「幕末に於ける各藩海軍比較」『郷土研究筑後』7-6、筑後郷土研究会。
今津健治編 1984『福岡県史』近代資料編三潴県行政、福岡県。
江藤 淳ほか編 1974『勝海舟全集10・海軍歴史Ⅲ』講談社。
小泉憲貞編 1915『境港沿革史』。
古賀幸雄 1993「久留米藩洋式海軍事始め-『大津遠太日記』から-」『郷土久留米』久留米郷土研究会会報第68号。
古賀幸雄 1995「久留米藩最後の海軍伝習生」『郷土久留米』久留米郷土研究会会報第73号。
笹川芳三 1963『続・こどものための柏崎物語』柏崎日報社。
鶴久二郎・古賀幸雄編 1967『久留米藩幕末・維新資料集』上・下。
鶴久二郎・古賀幸雄編 1970『久留米藩幕末維新新史料・明治二年殉難十志士余禄』。
樋口一成 2015「久留米藩海軍千歳丸の船歴について」『久留米郷土研究会誌』第29号、久留米郷土研究会。
史料1 海員審判所採決録
汽船青龍丸乗揚事件
(二、七、一、大坂)
被審人 高瀬文太郎
被審人高瀬文太郎ハ乙種船長ノ海技免状ヲ受有シ越中国射水郡伏木町ニ船籍港ヲ定ムル盬谷合資会社所有汽船総噸数六百三十八噸ヲ有スル青龍丸ニ船長トシテ乗組執職中本船ハ大正二年三月三日午後四時三十分長門国下関港ヲ発シ越後国柏崎港ヘ向ケ航行ノ途同月十六日午前零時四十一分仮泊地佐渡国小木港ヲ抜錨シ同時五十六分機関ヲ全速力トナシ針路ヲ南微東四分ノ三東(磁針方位、以下傚之)ニ定メ目的地柏崎ニ向ヒ一時間八海里余ノ速力ニテ進行シ被審人ハ当直一等運転士ニ対シ午前二時半ニ至ラハ報告スヘシト命シ置キ一旦船橋ヲ下リ該時刻ニ至リ再ヒ船橋ニ出テテ測程器ヲ検シタル二十三海里四分ノ一ナリシヲ以テ到著時期ノ都合ヲ計リ機関ヲ微速力ニ減シ陸地ニ近ツカハ通告スヘク当直ニ命シテ海図室ニ入リタリ斯クテ午前四時当直ノ報告ニ接シ船橋ニ上リ一等運転士ニ投錨準備ヲ命シ同時五分測程器ヲ引揚ケシメタルニ二十三海里ヲ示シタリルニ測深ヲ施サス尚ホ前進ヲ継続セシニ同時二十五分頃左舷船首四点位ニ方リ突然洗岩見ヘタルヲ以テ陸地ニ接近セルコトヲ覚知シ倉皇右舷錨ヲ投シ機関停止踵テ全速力後退ヲ施シタルモ未タ其效ヲ奏セサル内柏崎港海岸ヲ距ル三鏈沖ノ浅瀬ニ乗揚ケ爾来極力引卸ニ努メタルモ強風激浪ノタメ救助ノ見込ナキニ至リタリ当時晴天ノ暗夜ニシテ水面濛気ヲ帯ヒ北西ノ風浪激裂ナリシ事実ニシテ其証憑ハ被審人ノ当廷ニ於ケル供述ニ徴シ十分ナリトス
之ヲ審按スルニ本件ハ被審人カ深ク航程ノ如何ヲ考慮セス且ツ測深ヲ施サスシテ漫然錨地ニ向進シタル職務上ノ懈怠ニ起因シ其所為ハ海員懲戒法第一条第二号ニ該当スルヲ以テ同法第二条第二号を適用シ処分スヘキモノトス依テ裁決スルコト左ノ如シ
被審人高瀬文太郎受有乙種船長免状ノ行使ヲ一月停止ス
史料2 週刊越後タイムス関係記事(見出し-記事)
「週刊越後タイムス」第七十五号 大正2年3月30日(第七面)
青龍丸の御陀仏-去る十六日柏崎港に座礁し、引下し中の青龍丸は二十三日遂に沈没したり。
「越後タイムス付録」第七十六号 大正2年4月6日
青龍丸の競売-柏崎沖にて難破せる青龍丸は神戸の某氏に一千五百円にて落札されたりと。
「週刊越後タイムス」第三百三十号 大正7年2月24日(第七面)
青龍丸の残骸引揚-昨秋港町の柴野直吉氏発起となり先年海中に沈みて廃船となりたる汽船青龍丸の残骸引揚げに着手なしたるが着手期の遅れたる為め僅かに其破片を引揚げたるのみにて既に時化季節に入りたるを以て本年も亦四月初旬より引続き引揚げに着手すべく、目下準備中なりと
「週刊越後タイムス」第三百五十三号 大正7年8月4日(第一面)
青龍丸引揚額-柏崎裏浜海中に於て青龍丸残骸引揚げは火薬使用工事に着手以来成績頗る良好にして去る六月工事開始以来去月下旬迄の引揚鉄材は七千貫内外鉋金類約百貫目以上に達し此収入額約八千円なりと
謝辞 「週刊越後タイムス」記事の提供および、青龍丸写真掲載については、所蔵先の柏崎市立図書館より許可いただきました。格別のご配慮をいただいたことに感謝いたします。
*『久留米市文化財保護課年報』第12号、2017年3月、久留米市。
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