蝦夷の土器、西へ-筑後国府跡から出土した陸奥系土器-

小 澤 太 郎

作品タイトル

南上空から見た筑後国府跡東限大溝(久留米市埋蔵文化財センター提供)

1.はじめに
 ここに一片の土器がある。筑後国府跡第89次調査の際、大溝内の堆積層から出土したもので、内面は黒く、表面にはいぶし銀色の光沢がある。いわゆる黒色土器の一種であり、一般的に出土する素焼きの土器、すなわち在地の土師器とは明らかに異なる特徴をもっている。いったいこの土器は何者なのか。今回は、この小さな土器片を採り上げ、その語るところに耳を傾けてみたい。

筑後国府跡東限大溝から出土した国衙工房関係遺物(久留米市埋蔵文化財センター提供) 
1.フイゴ羽口 2.鉄滓 3.ルツボと青銅片 4.漆付着須恵器蓋(パレット) 5.円面硯 6.墨書土器「嶌」「人」

2.筑後国府跡と大溝
 パンコンテナー約200箱におよぶ大量の遺物の中から、この土器片の存在に気がついたのは、長年筑後国府跡の調査に携わってきた松村一良さんだ。筑後国府は氏の研究によって、飛鳥時代(7世紀末)~平安時代末(12世紀後半)にかけての約500年間に、国の役所である国府の中枢施設、国庁が3回移転することが判明している。
 問題の土器が出土した大溝は、その最初の国府、Ⅰ期国府(7世紀末~8世紀前半)の東辺を限る溝である。Ⅰ期国府が展開する台地の東側には、水縄断層系千本杉断層の崖下から湧出した伏流水が筑後川に向けて北流し、谷を形成している。大溝はこの谷部に掘削された人工の溝である。その断面形状は逆台形で、規模は幅7~10m、深さ約2mを測る。溝の規模や形状から、国府やそれに先行する官衙(役所)へ物資や資材などを運び込む運河的な役割を果たしていた可能性があるだろう。
 溝内からは大量の遺物が出土したが、陶硯・転用硯、漆液容器・漆パレットなど官衙遺跡に特有の遺物を含んでいる。特にⅠ期国府期に相当する堆積層上層からは、これらに加えて、銅滓が付着した坩堝や椀形鉄滓、鞴羽口など鍛冶工房関連遺物が出土した。今回紹介する土器片は、このような官衙や国衙工房の遺物とともに出土したのである。

筑後国府出土の陸奥系土器(久留米市埋蔵文化財センター提供)

3.資料の特徴
 さて、大溝から出土した問題の資料について観察してみよう。まず、この土師器は背が低く平たい皿状の器形をした食器である。直径は18~20㎝、高さ2.8㎝を測る。ただし、残存するのは全体の1/8弱であるから、法量についてはあくまでも推定値である。
 次に、その作り方である。内面はいぶし焼成により硬度が増しているためか、良好な状態で残っている。全面にヘラ状の工具で施された細かなミガキ調整が認められた。しかし、外面については、仕上げの状態が不明瞭である。これは大溝が伏流水の通り道であり、大量に含まれる水分によって器面が融解して荒れたためだ。ただ形状をみると、体部下半で不明瞭な稜線を認めることができる。
 一方、焼き具合はよい。外面の色調はにぶい黄橙色で、内面は素地中にも炭素分が入り込み黒漆色である。これは、黒色土器と呼ばれるものだが、内側のみが黒色処理されているので内黒土器に分類される。黒色土器とは、器面をミガキ調整し、焼成の最終段階でいぶし焼きして器面が黒色になったものである。
 いぶし焼きは、二度焼きもしくは、焼成の最終段階で炭素分を多く含む薪などを追い焚きする必要がある。その際、温度が700~800度以上になると、熱分解された器面の炭素が結晶化し、粒状に吸着して乱反射、銀黒色の光沢がでる。こうすることによって、土器の硬度が増すだけでなく、吸水率が低下して水漏れしにくくなるのである。
 本資料は、黒色処理の状態や体部外面の色調などから、天井部が開いた形状の窯を使用し、やや還元的な状況の中、高温・短時間でいぶし焼きを施したものと考えてよいだろう。

筑後国府跡出土の陸奥系土器の実測図(筆者実測・製図)
※実測図口径18.0㎝で復元。外側輪郭線は口径20.0㎝の場合。

4.筑後国の黒色土器
 これまでの土器研究の成果から、筑後国府跡における黒色土器の消長についてみておこう。筑後国内に出現した最初の黒色土器は、奈良時代後半期にあたる8世紀後半の内黒土器である。大宰府でも同時期のものが確認されており、畿内の影響を受けて製作されたといわれる。だが、筑後国内での出土量はごくわずかで、次の段階では見られなくなる。
 内黒土器が再び出現するのは、平安時代初めの9世紀中頃になってからである。そして10世紀中頃には、内外面共に黒色処理された両黒土器が出回るようになる。両黒土器は11世紀後半まで製作され、12世紀には瓦器にとって代わられる。
 今回の資料は、こうした黒色土器の消長から外れ、その出現は実に50年程も遡ることになる。かつ、その存在は、在地の土器の系譜とは脈絡無く突如出現し、量的にもきわめて少ない。また製作技術や器形などが後代に続くことなく広まらず、そして消え去っている。
 このような変遷をたどる場合、それが在地で生み出され生産されたものとは考えにくい。それよりも、一時的に他地域から搬入された、もしくはその製品を模倣した可能性を考える必要があろう。土器の内面を丹念にミガキ調整し、炭素を吸着させた、きわめて特徴的な今回の資料。これと類似した土器が数多く出土する地域が、その故地に違いないだろう。
 実は松村さんと私には、思い当たる地域があった。それは筑後国から離れること直線距離で約1,100㎞、東北地方の宮城県を中心とする陸奥北辺地域である。我々は、実物をこの地域の研究者に見てもらうことにした。

5.陸奥北辺地域と蝦夷
 現在の宮城県は、中央政府による蝦夷支配の最前線であった。古くは陸奥国に属し、中央からは辺境の地とされて「道の奥」(みちのく)と呼ばれた。
 蝦夷とは、この地域に住む律令国家の支配に組み込まれていない人々への呼称である。狩猟や馬飼いなど、稲作農耕以外の生業へ比重を置き、北海道から南下してくる北方文化と北上を繰り返す古墳文化が融合し合い独特の社会を形成していた。奈良時代初めになると、国家は彼らとその居住地域を軍事力で次々と制圧して版図を拡大していった。征討後は城柵と呼ばれる軍事的機能を有する行政拠点を設置した。また、板東諸国などから柵戸といわれる移民を配して、郡・郷を建て、その支配を行った。
 一方、服属した蝦夷は、俘囚として村に組織され、口分田を耕作する公民である柵戸とは別に管理された。このように陸奥北辺地域は、移民系の公民と蝦夷とが混在する政情が不安定な地域であった。

郡山遺跡(宮城県仙台市)から出土した陸奥系内黒土器各種(近つ飛鳥博物館編『「あつれき」と「交流」』より)

6.陸奥北辺の土器
 陸奥北辺地域では、古墳時代後期にあたる6世紀中頃以降、土師器の内側を丁寧にミガキ、黒色処理する手法が一般化した。7世紀後半には、中央の土器の器形やその組み合わせ、製作技法など(律令的土器様式)が導入された。すると在地で生産し消費される土師器にも影響が及んで、新しい器形が登場し、食器の種類が豊富になる。やがて登り窯が導入され、より硬質の焼き物である須恵器の生産体制が確立すると、新器種は須恵器にとって代わられ、減少し消滅していく。
 さて、遙か北部九州から持ち込まれた土器片を目の当たりにし、東北歴史博物館長の進藤秋輝さんをはじめ、長島栄一さん、村田晃一さん、佐藤敏幸さん、高橋誠明さんら東北の土器研究を牽引する研究者達は、驚きを隠せない様子だった。ミガキといぶし焼きに代表される土器の製作技法や土器の形状など、視覚的には、陸奥北辺地域のものと瓜二つだというのだ。もしこの資料が当地の出土品中に紛れ込んだとしたら、全く見分けが付かないだろうと感嘆する研究者もいた。
 佐藤さんは本資料が陸奥北辺地域でいう「盤」にあたると指摘する。新しい形の器が次々と作り出される頃、やや大きめの皿状の器種、盤が出現する。盤は、7世紀末~8世紀中頃までの城柵官衙とその関連遺跡を中心に、寺院や終末期古墳などで使用される。代表的な遺跡としては、仙台市中田南遺跡、多賀城市山王遺跡、東松島市赤井遺跡などが挙げられる。
 また、村田さんによれば、盤は従来から存在する有段丸底坏が低く平たい皿形になったものと、金属製の食器を忠実に模倣したものの2種類があり、筑後国府跡の資料は後者に属するのではないかという。
 なお、その年代は、体部外面の段が消失し、その名残と思われる不明瞭な稜線を残すなどの特徴から、8世紀初頭の多賀城Ⅰ期政庁の完成期(724年頃)前後の年代が与えられる。これは、本資料が出土した大溝上層の年代とも矛盾しない。
 以上からわかるように、筑後国府跡出土資料は、陸奥北辺の在地土器と酷似しており、その形状から盤と呼ばれるものであることが判明した。すなわち、「蝦夷の土器」だったのである。

7.俘囚の筑紫移配 
 では、蝦夷が生活する陸奥北辺地域と筑後を繋ぐ考古学以外の史料はないのだろうか。実は、律令国家は奈良~平安時代にかけて、服属した蝦夷(俘囚)を強制的に諸国へ移住させるという政策を実施している。この目的は、国家に頑強に抵抗した蝦夷を遠隔地へ分散的に移住させることによって、勢力を分断し、弱体化させることにあったとみる説が有力である。
 『続日本紀』によると、神亀2年(725)閏正月、陸奥国の俘囚737人を和泉監(のちの和泉国)・伊予国・筑紫(大宰府管内諸国)へ移配したという。これは確実な最古の俘囚移配記事である。そのうち、筑紫へは578人を配置している。当然、筑紫には筑後国も含まれていると考えなければならない。すなわち、8世紀初頭の蝦夷の土器と考えられる筑後国府跡出土資料は、この記事を考古学的に裏付けるものと言ってよい。

8.「蝦夷の土器」と俘囚
 故郷から遠く引き離され、諸国へ移住させられた俘囚達の生活はどのようであったろうか。強制移住が本格化するのは延暦13年(794)以降であるが、度重なる同化政策にもかかわらず、専ら狩猟を生業として定住せず、官人や公民とトラブルを起こすこともたびたびであった。これは、生活文化の違いや社会的な差別が背景としてあったと言われている。一方で、公民として自立する者や百姓らに酒食や私稲を給したりする者も現れ、公民化への道を選んだ蝦夷も多かったに違いない。
 神亀2年に筑後国へ移配された俘囚は、国府内もしくはその周辺に居住させられたと思われる。彼らの土器が漆や鍛冶工房関連遺物とともに出土したことから、そのような作業に従事したのかもしれない。
 ここで使用された蝦夷の土器は、全く違う社会に強制的に移住させられた彼らの心のよりどころでもあったように思われてならない。それが故郷である陸奥北辺から製品を持ち込んだものなのか、筑後国で製作したものかは、現時点では判然としない。しかし、その後この土器は作り続けられることなく、在地土器の製作にも何ら影響を与えることがなかった。すなわち、筑後国へ移配されたのち、やがてその生活習慣とともに蝦夷の土器も捨て去り、同化への道を歩んでいった姿が想像されるのである。

追記:入稿直後、東北地方を未曾有の大地震が襲いました。被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

*『ふるさとの自然と歴史』第339号、2011年3月、社団法人・歴史と自然をまもる会発行より。〔写真一部割愛、改変〕
・久留米市教育委員会HP掲載許可書 29文財第319号 平成29年6月1日付
・著作権は著者が所有します。引用の際は、出典を明示してください。
・個人の研究目的における利用以外の一切の複写を禁止します。