有馬賴貴宛行状


年代標記:十二月六日月(寛政5年ヵ)
形  状:一紙文書(折紙)・墨書
法  量:縦39.0㎝×横53.8㎝
所  蔵:環有明海歴史考古学研究所

 

解説
 久留米藩主8代有馬賴貴が藩士伊藤武兵衛を先手物頭に任ずる際、その旨を家老たちに本人に伝えることを許した書状。料紙の質や大きさ、花押などから原本ではないかと思われる

 伊藤家は田中吉政の旧家臣で、当家は、京隈小路五番目筋に屋敷地を拝領していた本家筋に当たる。有馬家に仕えた初代左源太(杢右衛門)と、その長男勘左衛門、次男佐吉(後に武兵衛)親子は、「島原の陣」に出役。ところが寛永15年(1638)正月元旦の総攻撃の際、長男は戦死し、父と次男は重傷を負った。そのうち次男佐吉は、瀕死の重傷を負いながらも、勇猛果敢な戦いぶりが有馬家中からも大変な賞賛を受けた。彼は凱旋後、母の手厚い看病により傷も平癒し、伊藤本家を継いで武兵衛を名乗っている。

 この文書に名前が挙がる武兵衛勝乗は、その7代目にあたる。養子であるためあやかろうとしたのかもしれないが、武名高い先祖と同じ名を名乗った。『御家中略系譜』によれば、この文書が発給された翌月の寛政5年(1793)1月12日に先手物頭に進んでいる。藩主賴貴が中務大輔を務めたのが、天明4年(1784)閏正月から文化元年(1804)に左少将に進むまでの期間なので、年代的にも時系列的にも矛盾は認められない。

(文・翻刻/小澤太郎)

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