八葉石から神籠石へ-古代山城遺跡の名称起源-

小 澤 太 郎

作品タイトル

高良大社社殿(1660・61年建築)

1.はじめに
 「神籠石(こうごいし)」とは、本来、神が降臨する磐座のことで、「皇后」「香合」などの字をあてることもある。磐座であるから、信仰の対象となっている巨石や奇岩を指すことが多い。
 一方、「神籠石」と呼ばれる遺跡がある。福岡県久留米市に所在する高良山神籠石は、神籠石という遺跡名称の発祥の地として知られている。神籠石遺跡では、戦後の発掘調査で、従来から知られていた水門や列石の他、版築土塁やその前面の柱穴列、掘立柱構造の城門が確認された。すなわち、構造の類似性から、朝鮮式山城と同様に古代山城であることが明らかとなったのである。そのため今日では、名称と機能とが合致せず、研究上不都合に感じる場合も多い。
 では、どうして「神籠石」と呼ばれるようになったのか、それはいつからなのか、先学の成果と、最近明らかになった史料に基づいて考えてみたい。

2.高良山神籠石
 列石遺構が「神籠石」という不思議な名称で中央の学会へ紹介されたのは、明治31年(1898)の暮れも押し迫った12月20日のことである。彼の名は小林庄次郎。東京理科大学人類学教室で教鞭をとっていた坪井正五郎の弟子で、北部九州遺跡調査旅行の途中で高良山に立ち寄ったのだった。
 近代以前、高良山は神仏習合の霊山で、その西斜面には一辺が70センチメートルほどの立方体の切石が約1300個、山麓から山頂まで列をなして連なっていた。現存する列石線の全長は約1.5㎞、推定線を含めると約2.5~3㎞を測る長大なものである。また、城裏面積は約350,000㎡と広大で、ヤフードーム約5個分に相当する。この山腹には、式内社である高良玉垂神社(現高良大社)が鎮座している。彼は大規模な列石遺構を目の当たりにし、その霊域を示す結界ではないかと考えたのである。

3.名称の起こり
 ところが、現在我々が神籠石と呼ぶ列石遺構は、もともと違う名称で呼ばれていたことがわかっている。地元の歴史研究家、古賀寿さんの成果だ。
 最初に神籠石という名称が現れるのは、「高良玉垂宮縁起」である。これは鎌倉時代後期以前に書かれたと思われるもので、写本の一つには天正12年(1548)の奥書がある。そこには、次のような話が書かれている。高良神が高良山の地主神である高牟礼神に居住地を借りた際に、石を巡らせ山上を取り囲んで結界としたというのだ。現在神籠石と呼ばれる列石遺構を彷彿とさせる情景だが、同書ではこれを「八葉の石畳」と呼んでいる。また、結界の中央に居を構えたとあり、こちらを「神籠石」と称している。因みに「八葉石」というのは、仏教と結びついた呼称で、蓮の花弁のように中心をぐるりと取り囲むように配された石という意味だろう。後に「蓮華(花)石」とも呼ばれるが、これも同じ意味である。
 同様の呼称区分は、それ以降の史料にも受け継がれている。例えば中世後期に描かれたと思われる「絹本着色高良大社縁起」(県指定文化財)や、神職である大祝保房が中世末~近世初頭に書いた『高良記』、延宝3年(1675)に寂源僧正が3ヶ月近くかけて列石線を発掘調査した際の経緯を記した「高良山八葉石記」などがあげられよう。これらの例を見ると、現在の神籠石、すなわち列石遺構は元々「八葉の石畳」もしくは「八葉石」と呼ばれたものであることは明白である。学会へ初めて「神籠石」遺跡を紹介した小林が名称を間違えたのではないかと言われるのはこのためである。

「神籠石」名称の移り変わり

4.名称の混乱
 現在のように列石遺構を「神籠石」と呼ぶ初めての例は、宝暦2年(1752)に緒方惟臣が編纂した『筑後誌略』である。同書中に「神護石、俗ニハ蓮花石ト云。今ニ大石魚貫シテ、高良山ノ本社ヲ周廻シテ、十町四方ニ在リ」とある。「魚貫」とは、列石を魚が水中を一列に連なって泳ぐ様に例えた表現だろう。
また、安永6年(1777)に杉山正中・小川正格によって編纂された『筑後志』にも同様の記述がある。「山頂社地の周囲、方十町を限り、巨石魚貫せり。これを神籠石という。」とある。割注には「俗に蓮華石と云ふは非也」と記す。
 一方、高良山の門前町府中に源正寺がある。幕末の嘉永7年(1854)頃にその寺子屋で使用された手習い本に「高良山詣之事…(中略)…子供・女もくたびれ臥せ可申候間歩行にて蓮華石を廻り極楽寺へ立ち寄り…(下略)」とある。このような教科書は往来物と呼ばれ、書道の練習を兼ねて文字を覚えさせるためのものである。ここに蓮華石とあることから、庶民の間では「神籠石」よりも、「蓮華石」という呼称の方が馴染んでいたのかもしれない。
 同じ頃、久留米藩士で歴史学者だった矢野一貞は、嘉永6年その著書『筑後将士軍談』で、列石遺構が山城である事を看破した。呼称については、文久2年(1862)に記した『筑後国郡誌』中で「是を神籠石とも八葉石ともいふ」とする。
 以上の例から考えると、江戸中期から幕末にかけての時代は、列石遺構を「蓮華(花)石」「八葉石」とも、「神籠石」とも呼んでいた名称並存期であったと言ってよい。

高良山をめぐる列石

5.八葉石から神籠石へ
 ところが不思議なことに、明治時代以降の史料には、「蓮華(花)石」や「八葉石」という呼称が一切見られなくなるのである。
 久留米藩最後の御用絵師の一人、三谷有信が明治6年(1873)に描いた「高良山真景図」(久留米市所蔵)は、今回明らかになった新資料の一つである。ここには高良神社や関連施設と共に高良山の中腹に巡る列石線が描かれているが、傍らには「神護石」と註が付されている。
 三谷は同年、船曳鉄門らとともに三潴県庁から依頼され、旧久留米藩領内の地誌調査と編纂を開始した。因みに船曳は明治7年、高良神社権宮司となり、同17年宮司に昇進した人物である。その成果は、同12年(1879)、梅野多喜蔵と共著の『筑後地誌略』(序文は船曳)で結実する。列石遺構については「社伝ニ神籠石ト称スルアリ高良神社ノ後阜ヨリ起リ周廻十余町石塁ヲ廻ラス」と記す。このように、縁起等において「八葉石」などと呼ばれていた列石遺構を、社伝では「神籠石」と称するなどと、事実とは異なる説明している点は注目したい。
 このくだりは、明治27年(1894)刊行の戸田乾吉著『久留米小史』にも引用されている。同書では同時に、矢野一貞の山城説(筑紫国造磐井の築城説)も紹介されている。このことから、列石遺構は「神籠石」とも「八葉石」とも呼ばれているという矢野の一文を、戸田は認識していたはずである。あるいは、「八葉石」という仏教由来の呼称を意図的に除外しようとしたとも思える。
 次に、列石遺構が小林によって神籠石として発表された前後の状況についても見てみよう。
明治31年(1898)に大阪大成館銅版部が作成した高良神社の銅版図には、高良山を取り巻く列石の表現に対して「神籠石」の注がある。
 翌年、軍医監として小倉に来ていた文豪森鴎外は、久留米を訪れ、高良山へ登っている。『小倉日記』には、「道の左手に高木神社あり。これより登ること十五町。神籠石と馬蹄石とを見て、高良山頂に至る。」と記す。馬蹄石とは、中世末~近世初頭以前に「神籠石」と呼ばれていた磐座のことである。
 更に、明治33年(1900)に、当時の高良神社宮司川村作摩が内務大臣西郷従道宛に提出した「神籠石御調査ノ義ニ付願」(久留米市所蔵)でも、列石遺構について「古来之ヲ名ケテ神籠石ト称ス」とする。
この文書には資料として、栗田寛の「高良神社祭神考」が添付されていた。ところが、列石遺構の名称については、「高良玉垂宮縁起」等を引用しながらも、「当社拾町四方ニ石畳ヲ設ケテ、カウゴ石称スルハ何ノ故ソヤ(下略)」とあり、「八葉石」という従来の名称は完全に無視されている。同書の提出は明治33年であるが、文末の日付から、明治31年2月初旬に執筆されたものと考えられる。すなわち、同年8月に実施された小林の現地調査以前に書かれたことが明らかである。
 以上の資料からわかることは、明治初頭以降、列石遺構に対して「神籠石」という呼称が定着しており、少なくとも高良神社の公式見解として、そう呼ばれていたという事実である。すなわち、小林が列石遺構の調査・紹介を行った明治31年に至っては、「神籠石」という名称をとり違えたり、意図的に選択したりする余地は、残されていなかったと考えるのが自然であろう。

高良大社社頭にある八葉石由来碑

6.廃仏毀釈と神籠石
 列石遺構が「蓮華石」とも「神籠石」とも呼ばれた名称並存期から、「神籠石」という名称が定着した明治時代の間、すなわち、幕末~明治初期にいったい何が起きたのだろうか。ここで考えられるのは、ちょうどこの頃高良山に吹き荒れた政治的な大変革の嵐、廃仏毀釈である。
 慶応4年(1868)、太政官は王政復古と祭政一致の回復によって神祇官を再興した。続いて神祇事務局は神社に勤仕する僧職の還俗を布達し、いわゆる「神仏分離令」によって仏教勢力の排除を行った。
 久留米藩で神仏分離が始まるのもこの年である。まず、高良山中にある将軍家霊廟の祭祀を廃止し、翌明治2年、高良山座主の還俗と退寺を命じた。やがて廃仏毀釈によって、高良山から寺院や坊が取り壊され、僧侶たちの姿も消えた。まもなく、高良玉垂宮は高良神社と改称して国弊中社に列せられた。
 この時期、神社は、国家的な宗旨として明治政府の統制と保護を受け、新たな地位を確立しつつあった。一方で、それまでの社領が引き揚げられ、一定の境内地を残すのみとなっていた。高良神社も例外ではなく、社領千石が上地され、本坂より上の四反三畝が境内と画定された。窮地に追い込まれた同社は、明治5年に三潴県庁へ列石内8町を神域として払い下げるよう申請したが不許可となっている。のち宮司となった川村は言う。「該石(註・神籠石)ヲ以テ神域ノ分界線ト為シタルモノナルハ疑ナキカ如シ」(「神籠石御調査ノ義ニ付願」)。すなわち、列石遺構が高良神社の神域を示す根拠として主張するためには、仏教的な「蓮華(花)石」「八葉石」といった名称ではなく、あくまでも「神籠石」でなければならなかったのである。

参道脇の馬蹄石(旧称神籠石)

*『ふるさとの自然と歴史』第338号、 2011年1月、社団法人 歴史と自然をまもる会より。〔写真一部割愛、改変〕
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