小 澤 太 郎
ローサイアリマ坑産出の石炭片。
現地調査日:平成29年(2017)2月4日(土)
幕末の久留米藩は、元治元年-慶応3年(1864-1867)にかけて、3隻の蒸気船を購入しました。その運用には、当然大量の石炭が必要となります。このため、筑前・肥前松浦郡・肥後天草などで石炭山を開発したことが、複数の史料の検討から判明しました注1)。このうち、肥前松浦郡の石炭山については、『相知町史』注2)から唐津市相知町にあったことを突き止め、昨年12月12日、久留米藩が石炭を積み出した土場(河川の物資積み出し所)を現地調査しました。その後、祭城一子さんの論文注3)に出会ったことで、久留米藩の炭坑所在地が判明し、今回現地を訪ねました。
ローサイアリマ山(左マーカー)と山への進入口・昭和バス平山下公民館前バス停(右マーカー)
県道259号沿いにある平山下公民館の向かい側から南西方向に入る道がある。ここがローサイアリマ山への入り口。
JR唐津線相知駅前には県道259号が東西に走り、両側には古い町並みが軒を連ねています。500mほど西へ行くとこの道は南南西方向に屈曲します。そこから平山川に沿いに約2.5㎞進むと、ローサイアリマ山への入り口にたどり着きます。ここから、500~600mほど沢沿いに進むと、久留米藩の炭坑にたどり着きます。
谷沿いに敷設された石炭道。この先にローサイアリマ山がある。
アリマ山への道のり、路面には破砕された石炭が散らばっていますし、谷道の斜面には石炭を含む層が露出していることに気が付きます。地形的には、谷頭に向かって狭くなるはずですが、谷頭の手前は斜面が広い範囲で人工的に掘り窪められています。
左手に沢が流れる。沢の両岸斜面は、かなり掘りこまれている。
周囲には石炭の堆積層が見られ、無数の小片が散らばっていた。
付近一帯の石炭山は、当時天領であったために手つかずでした。久留米藩は、日田代官所に冥加金を納めて開発許可をもらい、藩士を派遣して、この山の石炭開発を行います。このため、平山下村のローサイは、有馬山、筑後山、久留米山などと呼ばれるようになります注4)。ここから採掘した石炭は、坂を越えて松浦川の岩小屋土場まで運び、そこから川船に積み込んで、河口へ下りました。炭坑からの運搬路とこの土場(積出川港)については、別稿にてレポートする予定です。
注1)鶴久二郎・古賀幸雄編 1967「子年ヨリ年々惣差引帳(元治元年~明治2年)」『久留米藩幕末・維新史料集』、深谷眞三郎 1979「明治辛未四年正月調子 掌中成産方早見鑑」『久留米郷土研究会誌』8、久留米郷土研究会。
注2)相知町史編さん委員会編 1977『相知町史』下巻、相知町史編さん委員会。
注3)祭城一子 1979「かつての炭坑所在地(相知町)」『エネルギー史研究』10、エネルギー史研究会注4)注2文献に同じ。
・著作権は著者が所有します。引用の際は、出典を明示してください。
・個人の研究目的における利用以外の一切の複写を禁止します。