小 澤 太 郎
杷木城(朝倉市杷木林田)から、筑後川上流方面を望む。
1.緒 言
いわゆる「神籠石論争」が1890年代に巻き起こって以来、その属性についての解釈として、霊域説と城郭説とが対立してきた。しかし、表面観察による議論には限界があり、決着を見ないまま1910年代には、その論争は休止状態となった(小田富士雄1983、宮小路・亀田1987)。ところが、1963年におつぼ山神籠石において本格的な発掘調査が実施されると、列石や水門石垣上に版築土塁が確認された。また、列石の前面にはその方向に傾斜した掘立柱の柱穴が約3m間隔で並ぶことや、掘立柱の四脚門の存在が判明するなど多大な成果を挙げた(鏡山1965)。その構造から、「神籠石」が山城であることが確認され、これ以降は、城郭説が主流となり現在に至っている。
その後の研究では、発掘調査の成果を取り入れ、築造の年代・主体・目的などがその対象となった(亀田1995)。年代については6世紀末~8世紀初頭と研究者間で幅があり、それが築造主体や目的の理解にも影響を与えて、解釈にやや差異が見られるものの、大勢は天智期築城の朝鮮式山城より以前に対外防衛のために国家が築いたと考えられている(宮小路・亀田1987)。
一方、配置については、それぞれが孤立していると考え、国家的な防衛網の整備を疑問視する見解(李1977)もあるもが、少なくとも北部九州における配置については、「明らかに有明海を意識して半円弧状に置かれた防衛体系」(葛原
1994)との評価が妥当ではないかと思われる。
そこで本稿では、北部九州における神籠石型山城1)の分布に焦点を当て、改めてその配置を分析することによって、神籠石型山城築造の歴史的な背景にも迫りたい。
2. 神籠石型山城の分析
現在北部九州では、15個所の古代山城が確認されている。そのうち、『日本書紀』『続日本紀』に記載されている大野城・基肄城・鞠智城・金田城・怡土城の5城を除く、計10城を神籠石型山城と捉え、本稿での分析対象とする2)。
〔城郭構造〕
特徴として、塁線の基部に直方体の切石を一段一列で連続的に並べていく点が挙げられる。1999年に発見された宮地岳城では、基礎に平たい石を並べその上に列石を一段ないし二段に積む例も確認されている(中嶋・向井1999、草場
2001)。これらの列石は土塁基底部の根止めであり、外面を露出させたまま、その上部に土塁を構築する。但し、御所ヶ谷城では、列石を覆う形で土塁の版築が築かれている(行橋市教委1998)。そして塁線は、幾つかの谷に設置された通水口を有する水門石垣を連結しながら、山腹を1.9~3.0㎞程度に渡って馬蹄形に取り囲んでいる。
城門は、谷部の塁線を切って設置する。おつぼ山城では、間口1間、奥行き2間で掘立柱構造の四脚門が検出されている(鏡山1965)。
城内の建物跡については、2002年の唐原城の発掘調査で、5間×3間の総柱礎石建物が検出されている3)。桁行総長は約12m、梁間総長は約8mを測る大形の建物である。この発見により、城内の建物が朝鮮式山城と同様の構造を有することが判明している(大平村教委2002)。
〔築造年代観〕
紙幅の関係上、詳述しないが、築造年代を想定するにあたっては、①切石の加工技術やその使用、②唐尺の使用、③城門構造などの議論がある(宮小路・亀田1988)。
①については、水門や列石の加工技術が古墳の終末期横穴式石室のそれと類似するというもの(原田1959)で、石壁の排水溝の構築なども技術的にそれと共通のものとされる(斎藤1968)。したがって年代は、7世紀前半~中頃が想定できるだろう。一方、朝鮮半島との築城技術の比較から、割石を使用する朝鮮式山城よりも、切石を使用する神籠石型山城の方が後出するとの意見もある。この仮説に従った場合、神籠石型山城の築造は7世紀後半以降となり、8世紀初頭まで築造が続いたと考えられている(向井1991)。
②は、列石の前面の柱穴列や掘立柱構造の門の柱間、土塁・水門の幅の実測値が、唐尺で割り切れることから、日本での唐尺の使用開始の時期が、神籠石の築造年代の上限になるとするものである(鏡山ほか1965)。この場合、7世紀前半~同中頃の年代が考えられるだろう。
③は、大野城大宰府口の城門を例に、城門構造の変遷を検討したものである(葛原1994)。そこから、神籠石型山城に見られる掘立柱城門を最古段階と仮定し、瀬戸内の神籠石系山城、朝鮮式山城の順で築城されたと考えている。この場合、朝鮮式山城が築造される天智4年(665)以前の年代が想定できる。
次に、直接的に考古学的な年代を推定することができる出土土器を中心に見ていきたい。
1983・84年に発掘調査が実施された鹿毛馬城では、水門の背後に付設した水溜遺構付近で須恵器の甕の胴部片が出土している。出土状況から見て水門築造当時のものと考えられている。この資料の上限は7世紀初頭~同前半にかけてと推定される(頴田町教委1984)。また、2002年列石内部が調査された唐原城では、土塁の裾部と建物礎石の横の表土下から7世紀第1四半期の須恵器の坏片が発見されている4)。
また、切り合い関係においては、1968・69年の帯隈山城での発掘調査で、列石が古墳時代後期の陶棺を破壊していたことから、6世紀末以降という年代を与えられている(古代を考える会1978)。
一方、下限についても年代を推定できる例がある。御所ヶ谷城では、1993年の調査で第2東門の城門右袖のトレンチから、須恵器の長頸壺片が出土した。この資料は7世紀後半(末に近いか?)のものと考えられ、土塁が崩落する時に混入したものとされる(行橋市教委
1998)。さらに、高良山城では、北側斜面に沿う部分の列石線が確認されていないが、この欠落部分と考えられるこれらの直下の山麓に沿って水縄断層系追分断層が層行している。追分断層は『日本書紀』天武七年条(西暦679年)に記載のある筑紫国の地震の震源となったことが判明しており、その激しい地震動のために斜面の崩壊が発生し、それによって列石線が崩落したのではないかと考えられている(松村1990・1994)。ちなみにこの指摘が正しければ、その築造は天武七年以前に溯ることは確実となる。
以上のことから、一部異論もあるものの、北部九州における神籠石型山城は7世紀前半~中頃に築造され、7世紀末には崩壊するという、短い存続期間であった可能性が浮上する。また、先述したように、切石の列石を使用し、高良山城以外は外縁上端部に切欠きを有するという構造上の特徴が共通することから、ほぼ同時期のものであると考えてよいと思う5)。
図1 神籠石型山城の近隣関係
〔配置分析〕
以下では、神籠石型山城の位置を地図上にドットを落とし、近隣関係を見る(図1・表1)。近隣関係の分類については、それらの距離及び、実際に目視した結果にもとづき、「可視的(目視できる)」または「不可視的(目視できない)」という基準でおこなっている。
全体的には、現在の福岡・佐賀両県に分布している神籠石型山城の空間配置間隔は、16.0~42.0㎞(平均28.86㎞;標準偏差7.47㎞;n=19)を示す。女山城と唐原城間に直線を引くことにより、両者を結ぶと、その上のほぼ中央に杷木城が位置する。現在確認されている北部九州における神籠石型山城10個所の全ては、その直線の北西側に分布する。
以下でそれらについての分布の傾向を述べると、まず、おつぼ山城・雷山城があり、前者は大村湾方面から武雄盆地を経て、後者は糸島平野から長野峠を越えて、いずれも筑紫平野へ抜ける交通の要所6)に立地している。立地から見ると、これらは、筑紫平野への侵入を防ぐための防衛網(第1次防衛網)として機能していた可能性があるのではないだろうか。
次に、10城のうち5城(西から、帯隈山城・女山城・高良山城・宮地岳城・杷木城)が筑後川流域に形成された広大な筑紫平野の縁辺部に集中することから、有明海から筑紫平野へ侵入する仮想敵を監視・遮断するために設置された山城であると思われる。その中でも帯隈山城と女山城、高良山城の三者は、16.0~25.6km(平均21.07km;標準偏差4.82㎞;n=3)と比較的短い距離で結ばれ、かつ、相互に可視的な関係にある。帯隈山城・女山城間のほぼ中間には筑後川が位置しており、両者にはそれぞれの山地裾を辿り侵攻する仮想敵を阻止する機能の他に、筑後川を遡上するそれを監視する機能があったものと考えられる。また、実際に目視したところ、高良山城からは北方に宮地岳城、東方に杷木城をも眺望することができることも、先述の仮説を支持するものと考えることができる。
表1 神籠石型山城の近隣関係一覧
宮地岳城は、博多湾に面した福岡平野と筑紫平野とを回廊状に連結する地峡帯の筑紫平野側の出入口に所在する。具体的には宮地岳の北西側山腹を中心に立地することから、博多湾側より筑紫平野へ侵入する仮想敵を監視し阻止する機能があったものと思われる。
朝鮮式山城以外の古代山城10個所のうち可視的関係にあるものは、筑紫平野の5城に限られている。高良山城に隣接する山城は全て可視的な関係にあり、その配置は高良山城を中心に放射状になされていることがわかる。すなわち、高良山城を一つの核として、特に有明海側からの仮想敵の侵入を防ぐべく強固な防衛網(第2次防衛網)が形成されていると考えられるのである。
ここで、隣接する神籠石型山城間の直線距離を見ると、可視的関係にあるものが16.0~25.6km(平均:22.08km;標準偏差:3.94km;n=5)であるのに対して、不可視的関係にあるものは、18.0~42.0km(平均:31.29km;標準偏差:7.25km;n=14)であり、それらの距離の平均値間に統計学的に有意差が認められた(p<0.05)。『養老律令』軍防令烽置条には、四十里毎に烽を設置するよう規定がある。四十里は、約21.6kmとなり、神籠石型山城の配置と極めて類似する(樋口1981)。すなわち、少なくとも可視的関係にある5城は、烽などの手段を用いて緊密な通信網を構築していたことが想像できるのである。
一方、ティセンポリゴン法(ホダー・オルトン1987)により、各山城の理論的な領域を設定すると、次のようなことが明らかになる。まず、理論上の領域と実際の地形とが比較的良好に合致している印象を受ける(図2)。広大な筑紫平野を除いては、雷山城と糸島平野、直方平野と鹿毛馬城、行橋平野と御所ヶ谷城、中津平野と唐原城という具合に一平野に一城を原則として配すると考えられる。
10城のうち、6箇所(西から女山城・高良山城・宮地岳城・鹿毛馬城・御所ヶ谷城・唐原城)は、杷木城を中心として放射状に分布している。また、それらがその中心から、25.6~39.0km(平均:33.83㎞;標準偏差5.33km;n=6)の距離に位置するのである。
鹿毛馬城からは、直方平野を経て甘木方面より筑紫平野へ到達することができる。御所ヶ谷城からは、行橋平野を経由し英彦山方面より筑紫平野最奥部の杷木へ向かうことが可能である。唐原城からは、山国川沿いに溯上すれば、筑紫平野の東側に隣接する日田盆地を経由して、筑紫平野の最奥部に到達できる。いずれも各方面から上陸し、筑後平野最奥部へ侵入する仮想敵を監視し遮断する目的で設置されたのであろうと考えられる。これらの6城は、杷木城を中心に衛星的に配置されることにより、筑紫平野への防衛網(第3次防衛網)を形成しているものと考えられ、その中心に位置する杷木城には何らかの求心的な機能が付与されていたことは、想像に難くない。なお、この点については、3章で詳述する。
ここで興味深いのは、特に二つの防衛網、高良山城を中心とした可視的位置関係にある第2次防衛網と、杷木城を中心として放射状に配置された第3次防衛網とは、杷木城と高良山城とを接点として連結されていると考えられる点である。両者は可視的な位置関係にあり、緊密な情報伝達が可能である。すなわち、博多湾・有明海方面から敵が侵入する事態が発生すれば、二つの防衛網は連動するよう構築されたシステムであったと考えられる。
作業仮説にもとづく以上の分析から判明したことをまとめると、神籠石型山城が筑紫平野への仮想敵の進入(特に有明海側からの)を警戒して周到に配置されており、平野の最奥部に位置する杷木城を中心として、一大防衛網の形成を意図していたものと考えられる。
図2 神籠石型山城のティセンポリゴン図
3.朝倉橘広庭宮と神籠石型山城
次に、神籠石型山城による防衛網がいかなる目的で設置されたのかが問題となる。この点を考える上で注目すべき見解がある(渡辺1988)。
渡辺は『日本書紀』の斉明4年(658)是年の条にみえる記事「或本云。至庚申年(660)七(九)月(中略)由是国家以兵士甲卒陣西北畔。繕修城柵断塞山川之兆也。」に注目し、これを「斉明天皇(大王:筆者註)が軍勢を率いて日本の西北辺(北部九州)に軍陣をはった。山川を断塞して城柵を築造した。」と解釈した。さらに、「城柵」とは「神籠石」のことであることを指摘した。すなわち、斉明の西征(朝倉橘広庭宮遷宮)と神籠石型山城の築造とは同一戦略として実施されたものだというのである。
ただし、「繕修」を「ツクリ」と読解した点については、支持する向きもある(西谷1994)一方、異論もあり、これを「ツクロヒ」と読み、すでに築造にしていたものを朝倉橘広庭宮の遷宮に伴い修繕したものと考える意見もある(葛原1994、田中1994)。この場合、神籠石型山城の築城の開始は、任那復興のため新羅征討を策定した推古朝の動向と関連づけられる(葛原1994)。
いずれにしても、前段において、推定した神籠石型山城の築造年代(7世紀前半~中頃)と時間的な同時性を有する朝倉橘広庭宮造営との関わりを検討せざるを得ないだろう。
〔朝倉橘広庭宮への遷宮〕
ここで、朝倉橘広庭宮への遷宮7)とその後の経緯を簡潔に整理しておきたい。
それはまず、斉明6年(660)7月、倭と親交が深かった百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされたことに始まる。斉明大王は同年9月に百済滅亡の情報を得、百済再興のためにその遺臣である鬼室福信から救援要請を受けると、即座に百済救援軍派遣を決定した。同年12月には、自ら難波に行幸し兵器の準備にかかった。翌年1月6日には出航して、14日には伊予の石湯行宮に到着した。約2ヶ月間滞在した後、筑紫の那大津に上陸し、磐瀬行宮(長津宮)に入ったのが3月25日である。約1ヶ月半の滞在の後、5月9日には、朝倉橘広庭宮に遷宮する。この一連の行動が「由是国家以兵士甲卒陣西北畔。」ということになる。ところが翌年7月24日には斉明大王が朝倉橘広庭宮で死去した。喪に服した後、8月1日には中大兄皇子が磐瀬宮(長津宮)に移り、朝倉橘広庭宮の役割は終焉している。では、その所在地はどこに求められるだろうか。
〔推定地諸説〕
『日本書紀』斉明7年(661)5月条には、「天皇遷二居于朝倉橘廣庭宮一。是時、斮二除朝倉社木一、而作二此宮一之故、神忿壊レ殿。」(『日本古典文学大系』以下、『文学大系』とする)とある。ここに見える朝倉社は、式内社である麻氐良布神社であり(『文学大系』の頭注)、朝倉橘広庭宮の所在地は、神社の鎮座する麻底良山近辺に存在したものと推定される(長1992)。候補地としては、①朝倉町大字須川、②同山田、③杷木町大字志波の3ヶ所がある(長1994)。さらに最近、④小郡市上岩田遺跡をそれに当てる説(狭川1999)が登場した。
①は、近世の地誌研究等で提唱された説で、1933・34年に一部発掘調査が実施された。この調査では、奈良時代の長安寺廃寺に関係する遺構と遺物が検出されている(玉泉・鏡山1934)。本格的な調査は、1973~75年の三ヵ年にかけて九州歴史資料館が実施した(九州歴史資料館1974・1975・1976)。その結果、7~8世紀頃の集落関連遺構が検出されたが、大字須川一帯には宮跡が存在しないことが明確になっている(九州歴史資料館1976)。
②は、『文学大系』の頭注で述べられた説である。1985年度に福岡県教育委員会が九州横断道路建設に伴い3遺跡で発掘調査を実施したが、関連するような遺構・遺物は発見されなかった。
③の志波地区は、筑紫平野の最奥部に位置し、三方を山で囲まれ南西側には筑後川が接する天然の要害である。1986年に九州横断自動車道の建設に伴い、福岡県教育委員会が発掘調査を実施した。3遺跡で検出された掘立柱建物は計10棟にのぼるが、うち8間以上×2間の規模を測るもの1棟、6間×2間の規模を測るもの7棟など、大形で規格性が高いものも含まれ、朝倉橘広庭宮関連施設と目されている(小田和利1992)。また、志波地区には、政所・落中・宮原・宮下という地名があり、対岸の浮羽郡吉井町には橘田の地名がある。文献の検討から、少なくとも大宝2年(702)以前には、筑後川は橘田の南側を流路としていたと考えられており、朝倉橘広庭宮の存続期間には、志波と橘田とが陸続きであったものと思われる(小田和利1992、田中1996)。宮の名称である「橘広庭」とは橘田の付近を指していたとの指摘もある(田中1996)。
④の上岩田遺跡は、麻底良山頂から約22㎞西の両筑平野の中央部に位置する。1995~98年にかけて小郡市教育委員会によって調査された(小郡市教委2000)。G区Ⅰ期(7世紀後半~8世紀前半)には、中心施設として東西約18.2m、南北約15.3m、高さ約1.3mを測る基壇があり、その上面には3間×2間で四面に庇を有する礎石建ちで瓦葺の建物跡が確認されている。なお、基壇には地震による地割れ痕が認められる。出土土器から、『日本書紀』天武7年(679)12月条に記載された筑紫国での大地震の影響が考えられている。この地震により、基壇上の建物は倒壊したものとされている。また、基壇建物の北側には、7間×3間で東西に庇を持つ東西棟の大形の掘立柱建物や3間×2間で四面庇を有する東西棟建物、総柱建物が計画的に配置されている。
以上の①~④説のうち、現時点で可能性があるものは、③か④である。しかし、④については次のような理由から、容認しがたいものと考える。まず、狭川が畿内の宮殿遺跡との比較で用いたⅠ期の平面図は、その後a・b小期に細分されることが判明しており(小郡市教委2000)、基壇建物と北側の建物群との並行関係は、正式報告書の刊行を待って再検討が必要であろう。現段階でより妥当性のある評価としては、一堂寺院と初期評衙(小田富士雄2000)、寺院と郡司層の居宅(宮田1999)等がある。また、狭川自身も指摘していること(狭川1999)であるが、藤原宮以前の飛鳥時代の宮には、瓦葺の事実がないこと(今泉1984など)の他、建物群を取り囲む掘立柱塀などの大垣が存在しないことも難点として指摘しておきたい。
現時点で、最も説得力があるのは③杷木町大字志波であると思われる。いずれにしても、以上の④を除く①~③は、隣接する朝倉町・杷木町に位置し、5㎞圏内の比較的近い距離にある。
〔朝倉橘広庭宮と杷木城〕
朝倉橘広庭宮推定地の最有力候補である志波地区と杷木城の関係を見ておきたい。杷木城は、志波地区から東へ5㎞という至近距離に位置する。両者は官道に沿いに所在し、かつ、いずれも南側は筑後川に面している。両者間は水上交通での連絡も至便であろう。また、同城の水門は、西側に開口している。これらのことから、杷木城は宮を意識して築造されたことが推察できよう。
一方、先述したように、同城を中心として、筑紫平野への要衝には衛星的に山城が配置されている。更に、ここからは、日田盆地を経て豊前・豊後方面へと抜け、周防灘や別府湾から瀬戸内海を通じて大和へ出ることができる。杷木城は、まさしく大王宮の後背地に立地しており、大王宮の防衛と逃げ城としての機能を持ち合わせていたものと考えられる。
4.国土防衛戦略の転換
これまで述べたように、朝倉橘広庭宮と神籠石型山城とは、考古学的年代、立地や配置、文献等の検討によって、極めて密接な関係にあるものと推測される。すなわち、唐・新羅連合軍によって滅ぼされた百済を救援するために、朝倉橘広庭宮へ遷宮し、宮を守備するために綿密な構想とプランをもって神籠石型山城を築造、もしくは再整備したと考えられるからである。
ところが、斉明7年(661)7月に斉明大王が死去すると、朝倉橘広庭宮は天皇の居所である宮ではなくなった。その後、中大兄皇子が称制し長津宮(磐瀬宮)で救援軍派遣の指揮をとり、百済救援戦争は天智二年(663)まで続いた。
続いて、同年8月には白村江の敗戦を喫し、唐・新羅連合軍の倭国への侵攻が現実味を帯びた翌年、水城を築造し、対馬・壱岐・筑紫国などに防人と烽を配置した。また、天智4年(665)8月には、朝鮮式山城である大野城・基肄城を築城し、大宰府の周囲の防衛網整備に力を注いでいる。そして、新しい国防戦略に基づいて、筑紫大宰は那津から、現在、大宰府史跡のある場所へ移ってきたとされ、新戦略の中枢機関として軍事機能や外交使節の応対任務が課せられた(倉住1991)。やがて、山城や分水嶺をつなぐ土塁線(小水城)が整備され、「大宰府羅城」と呼ばれる都城(阿部1991)の実現へと向かうものと思われる。
このように、斉明大王の死去による朝倉橘広庭宮の破棄と白村江の敗北を契機として、国土防衛戦略の中心は朝倉橘広庭宮から大宰府へと急速に転換したものと思われる。この予想だにしなかったであろう防衛戦略の転換で、神籠石型山城が未完成のまま放置されたとする見解がある(佐田1982、狭川1999)。少なくとも杷木城・鹿毛馬城・御所ヶ谷城・唐原城などにおいては、明確な版築を施さない土塁の存在や、地山整形や整地のみで列石が存在しない、未完成の列石群が存在するなどの状況が見られる(宮小路・亀田1987、頴田町教委1984、行橋市教委1998、太平村教委2002)。また、御所ヶ谷城ではⅡ章で触れたように、7世紀後半(末に近いか?)には土塁の崩壊が始まっていると考えられることも傍証となるだろう。つまり、朝倉橘広庭宮の防衛構想が破棄された結果、不要となった神籠石型山城は、その建設途中で放棄されたものと考えることができる。ちなみに、上記の4城は、朝倉橘広庭宮を直接防衛すると考えられる第3次防衛網の諸城である。また、第1次防衛網を構成する雷山城についても、天平勝宝8年(756)には、約7㎞という至近距離に怡土城の築城が開始されており、当初から機能していなかったとの見解もある(佐田1982)。他の諸城の状況については不明だが、大宰府防衛網の構築に際して構想から外れ不要とされた山城は、廃城となり、完成はおろかその後の維持管理はなされなかったのではないだろうか8)。
5.結語
以上、得られた結果を仮説的推論によってまとめると、次の2点に集約される。
1.神籠石型山城は、7世紀前半~中頃にかけての東アジア世界における政治的緊張状態のなかで、朝倉橘広庭宮を防衛する目的で築造もしくは再整備されたものと考えられる。
2.斉明大王の死去に伴う、朝倉橘広庭宮防衛網は、宮の廃止と、白村江の大敗によって、存在意義を失った。新たな国土防衛戦略の下、大宰府に筑紫大宰が移設されたことを受け、「大宰府羅城」とも呼ばれる大宰府防衛網へと転換を図ったものと考えられる。
ただし、これら導き出された推論は、筆者の主体的な判断に基づくものであり、あくまでも作業仮説的な性格から抜け出すものではなく、恣意的との誹りは免れまい。本論の妥当性については、今後、様々な角度からの検証を施す必要がある。
最後になったが、加藤久雄氏(東京大学大学院博士課程)には、統計学的検定作業を依頼し、かつ文章表現についてご指導いただいた。また、富永直樹氏(久留米市教育委員会)・高田知恵氏(北野町教育委員会)からは、資料の提供を受けた。謝意を表したい。
註
1)本稿で用いる用語については、葛原克人(1994)の用法に従い、「神籠石型山城」を使用する。従って、個々の遺跡名には、「神籠石」を付けず「城」をつけて呼称する。
2)いわゆる神籠石の定義は、未だはっきりしない(宮小路・亀田 1988)が、本稿では仮に、白村江の戦い(663年)以降、文献への築造・修造記事などが記載されているものを朝鮮式山城とし、それ以外を神籠石型山城としておく。今回扱う神籠石式山城のうち、福岡県筑紫野市所在の宮地岳古代山城跡については、実態が殆ど判明していない(草場2001)。神籠石型山城の範疇に含めるか否かは慎重を期さなければならないが、神籠石型山城の列石上端部に特徴的な、切欠きを有すること(九州歴史資料館2002)や、文献に記載がなく、いわゆる朝鮮式山城に含まれないという理由から、今回は分析対象に加えている。
3)この発見により、従来から知られていた御所ヶ谷城内に存在する4間×3間の総柱建物の礎石列が、神籠石型山城に伴うものであった可能性もでてきた。この礎石建物遺構については、列石を転用した礎石が見られること、神籠石型山城での礎石建物の発見例がなかったことから中世山城関連の遺構ではないかとする見解もある。しかし平成8年の礎石のトレンチ調査では中世説を裏付ける資料は確認できなかった(行橋市教委1998)。
4)大平村教委(2002)による。ただし、この資料については、正式報告書刊行前であるため、参考程度にしておきたい。
5)渡辺正気氏は同様の理由から、同時期の築造とし、文献の検討から斉明7年と考える(渡辺1988)。この点については3章で論述。
6)神籠石型山城が交通の要衝に位置し、古道や官道、官衙などが近郊に存在する例が多いことが指摘されている(佐田1982、向井1991、葛原1994)。
7)『日本書紀』斉明7年5月条には、「遷居」とあり、狭川真一氏は『日本書紀』にみえる7世紀代の宮における「遷」の用例を検討し、朝倉橘広庭宮への遷宮を正式なものと考えた(狭川1999)。渡辺正気氏も同様、『日本書紀』で朝倉橘広庭宮が行宮と記載されないことから、朝廷の遷都であったと考える(渡辺1988)。
8)神籠石型山城が正史に記載されていない理由は、この点にあるのではないだろうか。『日本書紀』は、天武10年(681)に編修事業が始まり養老4年(720)に完成を見る(『文学大系』解説)。7世紀末~8世紀初頭のこの間には既に廃城となり不必要な存在であったため、『日本書紀』から欠落したのではないだろうか。既に、佐田茂氏も、未完成を理由に正史からの欠落を考えている(佐田1982)。
参考文献
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葛原克人 1994「朝鮮式山城」『日本の古代国家と城』、新人物往来社。
倉住靖彦 1991「大宰府成立までの経過と背景」『新版古代の日本』第3巻、九州・沖縄、角川書店。
古代を考える会 1978『朝鮮式山城の検討』古代を考える15、古代を考える会。
斎藤 忠 1968「城柵跡」『日本古代遺跡の研究・総説』、吉川弘文館。
狭川真一 1999「朝倉橘廣庭宮と筑紫」『古代文化』第51巻第5号、古代学協会。
佐田 茂 1982「神籠石系山城の再検討」『森貞次郎博士古希記念古文化論集』下巻、同集刊行会。
玉泉大梁・鏡山 猛 1934「朝倉橘広庭宮遺阯」『史蹟名勝天然記念物調査報告書』第3輯、福岡県。
田中正日子 1996「朝倉橘広庭宮とその時代」『温故』第24号、甘木歴史資料館。
長 洋一 1992「古代の博多序説」『北部九州の古代史』、名著出版。
長 洋一 1994「新城『大宰府』の成立」『日本の古代国家と城』、新人物往来社。
中嶋 聡・向井一雄 1999「宮地岳城跡の発見について」『溝漊』第8号、古代山城研究会。
西谷 正 1994「朝鮮式山城」『岩波講座日本通史』3、古代2、岩波書店。
原田大六 1959「神籠石の諸問題」『考古学研究』第6巻3号、考古学研究会。
樋口一成 1981「高良山神籠石」『久留米市史』第1巻、久留米市史編さん委員会。
ホダー・オルトン 1987『考古学における空間分析』(深澤百合子訳)フジインターナショナルプレス。
松村一良 1990「『日本書紀』天武七年条にみえる地震と上津土塁について」『九州史学』98、九州史学会。
松村一良 1994「筑後国府跡」『久留米市史』第12巻、資料編考古、久留米市史編さん委員会。
宮小路賀宏・亀田修一 1987「神籠石論争」『論争・学説日本の考古学』第6巻、歴史時代、雄山閣。
宮田浩之 1999「筑後国御原郡における上岩田廃寺と小郡官衙遺跡小考」『瓦衣千年』、森郁夫先生還暦記念論文集刊行会。
向井一雄 1991「西日本の古代山城遺跡:類型化と編年についての試論」『古代学研究』125、古代学研究会
李 進熙 1977「朝鮮と日本の古代山城」『日本古代文化の探求・城』上田正昭編、社会思想社。
渡辺正気 1988「神籠石の築造年代」『考古学叢考』中、斎藤忠先生頌寿記念論文集、吉川弘文館。
小郡市教育委員会 2000『上岩田遺跡調査概報』小郡市文化財調査報告書第142集。
頴田町教育委員会 1984『鹿毛馬神籠石』頴田町文化財調査報告書第1集。
九州歴史資料館 1974~1976『朝倉橘広庭宮跡伝承地第1~3次発掘調査報告』
九州歴史資料館 2002『大宰府政庁跡』、吉川弘文館。
大平村教育委員会 2002『唐原神籠石調査概要』現地説明会資料。
行橋市教育委員会 1998『史跡御所ヶ谷神籠石』行橋市文化財調査報告書第26集。
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野 晋(校註) 1965『日本書紀』下、日本古典文学大系68、岩波書店。
私事であるが、本稿執筆中の2002年4月と6月に祖父と父とが相次いで卒した。稚拙な内容ながら、本稿を敬愛する二人の霊前にささげたい。
*『究班』Ⅱ、埋蔵文化財研究会25周年記念論文集、埋蔵文化財研究会、2002年9月刊より〔誤字等訂正〕。
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※宮地岳城は、その後国指定史跡となり、阿志岐山城と改称しています。