小 澤 太 郎
昭和初期の観光ポスター(六ツ門図書館展示コーナー「軍都久留米の風景とくらし」展より)
1.軍都への道
明治22年(1889)4月、わが国で初めて市制が施行された。その31市の中には、久留米市の名もあった。しかし人口は基準の25,000人を250人下回り、最も人口が少ない市として出発した。近い将来の発展を見込まれて認可されたが、市域も旧城と城下町部分のみで「区域狭隘ノ市街」(『久留米市是』明治40年)であり、余地が少ないため、林業や水産物、工産物の生産高や税収が低く、経済力は極めて貧弱だった。
ところが日清戦争後の軍拡政策で、鉄道が通り交通の便が良い久留米市附近に、陸軍の兵営が新設されるとの情報が伝わった。時の田中順信(ゆきのぶ)市長は、好機とばかりに猛烈な誘致運動を展開した。その甲斐あって、明治30年(1897)湧き水(飲料水)が豊富な市近郊の国分村(現国分町陸上自衛隊駐屯地)に第四十八連隊(通称久留米の四八:よんぱち)が移駐した。
その後、日露戦争後の軍備拡張の中で新設の第十八師団司令部が久留米に設置されることになった。吉田惟清(これきよ)市長は大きな経済効果が見込める千載一遇のチャンスとして、市を挙げて歓迎した。明治40年(1907)に司令部が開庁、市や周辺の郡部から献納された土地に、歩兵第五十六連隊や工兵第十八大隊などの部隊が続々と移駐してきた。
このため、一帯では兵営や各種軍施設の建設ラッシュとなった。同時に軍隊がスムーズに移動するため、司令部や市街地、各軍施設と鉄道とを結ぶ道路が新設された。建築に必要な資材や物資の納入は地元経済を大いに潤した。農地が中心だった近隣地域の景観は一変し、軍都化は急速に進んでいったのである。
第十八師団司令部(『久留米案内』1913年より:六ツ門図書館展示コーナー「軍都久留米の風景とくらし」展より)
2.観光・産業の発展
師団設置後は兵員やその家族などが移住し、久留米市や周辺地域では人口が急増した。例えば師団所属部隊を抱える国分村ではわずか3年間で1.4倍に達した。職業別戸数の構成比をみると5年間で農業が40%から31%に低下、これとは逆に商業戸数が25%から33%に、工業戸数が19%から22%に増加した(久留米市史編さん委員会編1985)。同村は師団設置後、急速に商工業地帯へと変貌を遂げたことがわかる。
また、観光分野への影響も大きい。面会日や入隊・除隊、出征見送りの際は、遠方からも兵士の家族や親類が来久する。彼らは市内に宿泊し観光も行う。そのため市街地には軍関係者や観光客相手の料理屋や旅館(「久留米市観光御案内」(発行年不明)によれば昭和初期で80軒以上)が数多く建ち並んだ。
このような観光客向けのガイド本として、神社仏閣や史跡などをめぐる観光案内やチラシ、地図も多数発行された。中でも軍施設や軍事記念物見学、武運長久を祈る近隣の神社参拝など、軍事ツーリズムは人気を誇った。
一方で交通の発達は、絣や足袋といった地場産業を発展させる契機となった。大正末になると、これらに代わり地下足袋を主軸とするゴム製品の生産量が急速に伸びていった。昭和5年(1930)、日本足袋株式会社のタイヤ部(翌年、ブリッヂストンタイヤ株式会社設立)がタイヤ生産を開始し、ゴム産業の街としても発展していった。
師団設置後の久留米の経済は、まさに「不景気知らず」とまで言われるほどに躍進したのである。のちに太平洋戦争末期、物資不足から各種産業が統廃合され、多くの工場が閉鎖された際も、これらの大規模工場は重要な軍需工場として存続し、敗戦後は久留米経済の復興を牽引することになった。
青島陥落し第56連隊が凱旋の様子を伝える絵葉書(六ツ門図書館展示コーナー「軍都久留米の風景とくらし」展より)
3.戦争への傾斜
大正2年(1914)、第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟に基づきドイツに宣戦した。久留米の第十八師団を中心とする日本軍は、中国山東半島にある青島要塞の攻略に成功した。この時捕虜になったドイツ兵のうち1319人が国分村の久留米俘虜収容所に収容された。
収容所はハーグ条約に基づいて運営され、捕虜は人道的に待遇された。収容生活は5年3ヵ月に及んだが、その間、音楽や演劇、スポーツ、遠足、帰国に備えての学習などで過ごした。同8年12月3日、捕虜らによってベートーベンの「第九」が一般の日本人向けに国内初演奏された。また、ゴム産業への技術指導も行うなど、近代久留米の文化や産業に大きな足跡を残している。
ところが第一次世界大戦後は、国際的に軍縮の方向へ進んだ。国内でも関東大震災の復興にともなう経費削減のため、第十八師団の廃止が決定された。師団の廃止は久留米市とその周辺地域の経済にとって大打撃となる。このため船越岡次郎市長を先頭に、官民挙げての師団存置運動が巻き起こった。大正14年(1925)、第十八師団に代わって、小倉から第十二師団が移転してくることになり、この一大危機は回避された。
一方、日露講和条約以降、中国へ進出した日本勢力への排日・抗日運動は激しくなっていた。昭和6年(1931)9月に満州事変が勃発すると、翌年1月には海軍陸戦隊と中国軍が交戦し、第一次上海事変が起こった。これを受けて第十二師団の一部にも出動命令が下り、直ちに久留米を出発した。
2月、部隊は上海郊外の廟行鎮(びょうこうちん:現上海市宝山区)の中国軍陣地前面に広がる鉄条網を破壊、突破口を開くことになった。この時、志願した久留米工兵第十八大隊の3名の兵士が、点火した破壊筒(爆弾)を抱えて突撃し、肉弾攻撃で鉄条網の爆破に成功した(爆弾三勇士もしくは肉弾三勇士)。
彼らの爆死を称える報道合戦は過熱し、新聞や雑誌だけでなく、当時最新のメディアだったラジオや映画、演劇、音楽などに繰り返し取り上げられた。このような、大正時代以来成熟しつつあったメディア・ミックスは、国民を熱狂の渦に巻き込んだ。久留米市では市公会堂前には三勇士銅像が建立され、工兵隊内には当時日本足袋株式会社社長だった石橋正二郎によって記念館が建設、陸軍へ寄贈された。
子供たちは三勇士の歌を口ずさみ、花瓶や湯飲み、文鎮、飴やニッキ水など関連グッズは飛ぶように売れた。日常的な通信連絡手段として人気があった絵葉書にも、三勇士をはじめ軍施設、市民の献納兵器を取り上げたものが数多く残されている。これらの偶像やモノを通じて、「軍事」は軍都の市民生活に急速に浸透していったのである。
米軍機に空襲を受け炎上する久留米市街地(工藤2015所収)
4.迫る戦争の足音と軍都の終焉
昭和13年(1938)、国家総動員法が制定され、政府は必要に応じて国民生活全般にわたって統制できるようになった。同16年、久留米市では町内会と隣組を組織した。そこでは出征兵士の送迎、防空演習、国債の割当て、貯蓄の奨励、金属回収、物資配給などの戦争協力だけではなく、税金収納や住民登録などの行政事務まで担わされた。
同年12月8日、日米開戦。緒戦は華々しい戦果を挙げていたが、早くも翌年6月のミッドウェー海戦以降、米軍の反転攻勢が始まった。戦況は急速に悪化、戦争の足音が軍都で生活する市民にも確実に近づいてきていた。街では「英霊」の出迎えや戦死者の市葬が頻繁になった。兵器などの原材料にするため、繰り返し金属回収が行われた。生活物資不足から衣料は切符制、食料は配給制となっており、自由に売買できなくなっていた。
同19年(1944)末以降、米軍による本土空襲は激しさを増した。B-29による攻撃目標とされた全国一80都市のうち、軍施設や軍需工場が存在し、交通の要所でもある軍都久留米は53番目の目標都市だった。しかし、夜間レーダー空襲が難しい地形のため、この時は実行に移されなかった。
翌20年8月11日午前、沖縄の基地からB-24五十三機が飛来、市街地を空襲してその約7割が焼失した(生田・野嶋1977)。市民が生活する街がついに戦場になったのである(久留米市役所編1955によれば、死者214名、重軽傷や収容中死亡176名以上)。
近年明らかとなった作戦報告書では、軍施設や軍需工場を標的とせず、市街地の西半部のみを攻撃目標としていたことが判明した(工藤2015)。限定的な攻撃は戦後の駐留を想定していたためだろう。そのわずか4日後に終戦。進駐してきた米軍は無傷の軍施設を接収し、軍都を解体した。同25年、旧軍施設に警察予備隊の駐屯が決定。以降、陸上自衛隊、航空自衛隊の駐屯地として現在に至っている。
主要参考文献
生田保年・野嶋剛訳 1997「久留米空襲に関する米軍文書」『久留米郷土研究会誌』第25号、久留米郷土研究会。
工藤洋三 2015『日本の都市を焼き尽くせ!‐都市焼夷空襲はどう計画され、どう実行されたか‐』。
久留米市史編さん委員会編 1985『久留米市史』第3巻、久留米市。
久留米市役所編 1932『久留米市誌』上巻。
久留米市役所編 1955『続久留米市誌』下巻。
※本文中で使用した史料は、全て久留米市教育委員会所蔵である。また、写真については特に断りがない限り、平成29年度六ツ門図書館展示コーナーの企画展「軍都久留米の風景とくらし」に展示され、会場において撮影掲載可とされたものである。
*本稿は一般財団法人西日本文化協会発行『西日本文化』第484号(2017年10月)掲載原稿を再構成し、一部字句の修正、3章に加筆、主要参考文献を加え、写真の差し替え・追加を行ったものである。
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