小 澤 太 郎
筑後市と久留米市の市境付近を直線的に走る国道209号線(筑後市一条) 付近の西海道路線は、この国道とほぼ重なる。その幅員は歩道を含めた現道とほぼ同じである。
古代の道路と聞いてどのような姿を思い浮かべるだろうか。狭い道、曲がりくねった道、踏み分け道…。つい30年ほど前までは、古代史や交通史の専門家の間でもそうイメージされてきた。
ところが1980年代以降、急増する発掘調査は古代の道路遺構を徐々に捉えだした。そうして明らかになってきたのは、幅が広く、直線的に伸び、時には側溝を持ち、路面を舗装し、低地では築堤し、丘陵は切り通すなど、高度な土木技術によって計画的に建設された道路の姿だった。
代表的な古代道路に駅(えき)路(ろ)がある。これは、都を基点として各国府(こくふ)(国の役所)へ放射状に延びる政治的な広域道路網である。東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道の六路線と、大宰府を中心として九州各地を結ぶ西海道の計7路線があった。
筑後国内では、70年代に歴史地理学的な立場から研究が開始され、空中写真や大縮尺の地図を利用して道路の痕跡が探られた。その結果、「クルマヂ(車地・車路)」という駅路の遺称と想定される小字名を繋ぐように、直線的に連続する字境界線や幅10メートルほどの細長い窪地が認められ、これらを基に駅路の路線が復元された。
90年代に入ると、久留米市や筑後市の推定路線上で発掘調査が進んだ。後者では平成17年10月末現在で9地点から道路遺構が検出され、先の路線推定が正しかったことを証明した。
平成14年に調査された羽犬塚山ノ前遺跡では、丘陵上を切り通し状にカットした8~9世紀頃の道路跡が発見されている。検出された路面の両側には側溝を持ち、それを4度にわたって掘り直した跡がある。路面幅は、当初7.2mであったものが、9世紀には9.5mへと拡幅されている。路面は道路使用の結果、硬化していた。また、小礫・土器砕片等を丁寧に突き固めた舗装痕跡なども良好な状態で残されていた。
さて、『養老令(ようろうりょう)』厩(き)牧(もく)令によると、駅路には30里(約16㎞)毎に駅家(うまや)を設置し、緊急連絡用の駅(はゆ)馬(ま)(早馬)を常備するよう定められていた。10世紀前半に成立した『延喜式(えんぎしき)』には、筑後国内に御井・葛野(かつらの)・狩道の3カ所の駅家の名が見られる。そのうち葛野駅は、筑後市大字羽犬塚付近に比定されている。これは、「羽(は)犬塚(いんつか)」が「駅(はゆ)馬(ま)+塚(つか)」から転化したものと考えられるからだ。また、同地には小字「丑(うし)ノマヤ」もあり、この「マヤ」が駅家から転化したものだという説も有力だ。いずれにしても大字「羽犬塚」付近に葛野駅が存在した可能性は高いと言えるだろう。
このような駅路は、中央から地方への命令の発信や使者派遣等に利用される一方、地方からは駅路を使用しての各種緊急事態の通報などが義務づけられていた。さらには、軍事道としての利用の意図もあったものと考えられている。すなわち、国家による中央集権的な地方支配は、駅路の建設によって可能となったのだ。現代にもつながる「地方」を生み出した大きなきっかけは、古代の計画道路建設にあったとも言える。
*『図説 南筑後の歴史』2006年3月、郷土出版社 より。〔図・写真一部省略〕
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