小 澤 太 郎
女山神籠石の列石 。「女山」とは、「城山」から転化した名称であろう。最高所の標高は、203 メートル。眼下には有明海や雲仙岳までもが一望できる。
「神籠石(こうごいし)」という不思議な名称の遺跡がある。方形の切石を、山頂を取り込みながら山裾にいたるまで並べたり、山腹を鉢巻状に連続して配列したりするもので、北部九州を中心に14ヵ所程が知られている。
明治31年(1898)にその存在が学会へ報告されて以来、機能をめぐって神域説と山城説が対立してきた。しかし、昭和38年のおつぼ山神籠石(佐賀県武雄市)の発掘調査によって事態は一変する。なぜなら調査の結果、列石や水門石垣上に版築(はんちく)土塁(どるい)が確認され、列石前面には掘(ほっ)立柱(たてばしら)の柱穴が約3m(約10尺)間隔で連続して並ぶこと、掘立柱の四脚門が存在することなどが判明したからだ。このような構造は、朝鮮半島の古代山城と極めて類似している。そしてこれ以降、山城説が定着し現在に至っている。
その年代については、出土遺物が少なく確証に欠けるものの、7世紀代とするのが大方の見方である。また分布を見ると、それぞれが筑紫平野へ抜ける交通の要所に位置しており、かつ杷木(はき)神籠石(杷木町)を中心として放射状に計画的に配置されていることがわかるだろう。
このような山城が設置された背景には、当時の東アジアにおける国際的な緊張状態が考えられる。661年、斉(さい)明(めい)天皇は唐(とう)・新羅(しらぎ)連合軍によって滅ぼされた朝鮮半島の友好国百済(くだら)を救援するため、朝倉(あさくら)橘(たちばな)広庭宮(ひろにわのみや)(杷木町か)へ遷宮する。宮の推定地と杷木神籠石とは五キロメートルという至近距離にあり、何れも筑後川に面している。地理的に見ても、杷木神籠石はこの大王宮の防衛と逃げ城として造営されたのではないだろうか。
東方より朝倉橘広庭宮推定地を望む(朝倉市杷木町志波) 背後は麻氐良山、左手を流れるのは筑後川。三方を山に囲まれる要害の地である。九州横断道に伴う発掘調査で大型の掘立柱建物群が発見された。
他の神籠石についても、筑後平野の最奥部に位置する宮を防衛するように衛星的に配置されている。特に筑後平野に面する女山(ぞやま)・帯(おぶ)隈山(くまやま)・高良山(こうらさん)の三城は互いに見通すことができ、有明海方面から敵軍が侵攻した際の早期発見と情報伝達に有効であろう。最悪の場合は杷木神籠石から日田盆地を経て豊前・豊後方面へ抜け、周防灘や別府湾から瀬戸内海を通じて大和へ出ることができる。瀬戸内沿岸にも神籠石に類似した構造の山城が分布しており、まさしく万全の体制であったのだ。
北部九州における神籠石型山城の配置。杷木神籠石を中心に放射状に配置される。特に有明海方面への防備が手厚い。有明海は古くから朝鮮半島との重要な門戸であった。白村江の敗戦後は、博多湾へとその役割が移った。
ところが斉明は翌年に急死、朝倉橘広庭宮は廃絶する。追い討ちをかけるように、663年には倭国軍は白(はく)村江(そんこう)の戦いで大敗北を喫する。唐・新羅の倭国侵攻が現実味を帯びた翌年、倭王権は水(みず)城(き)を完成させ、防人(さきもり)と烽(とぶひ)を配置、その後大野城や基肄(きい)城を築造するなど、国土防衛網の再構築に迫られた。この新戦略の中枢機関として大宰府が設置され、軍事機能や博多湾を門戸とした外交使節の応対任務が課せられたのである。
こうして、朝倉橘広庭宮を防衛する目的で設置された神籠石型山城は、その役割を終えていった。水城や大野城・基肄城などとは異なり、720年に完成した『日本書紀』には、具体的な記述が一切ない。当時すでに忘れ去られていたのだろうか。まさに幻の古代山城である。
*『図説 南筑後の歴史』2006年3月、郷土出版社より〔写真一部割愛、図版改変〕。
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