小 澤 太 郎
1.高良山神宮寺高隆寺の建立
筑後を代表する霊山高良山は、耳納山地の西端部に位置する標高312mの山です。その中腹には筑後一ノ宮である高良大社が鎮座しています。その祭神は高良玉垂命で、隣接して神宮寺高隆寺が建立されると、神仏習合に基づく仏教が盛んとなりました。
高良大社蔵の『高良玉垂宮縁起』によると、高良山における仏教の開始は、天武2年(672)とされています。これはこの年の2月8日に高良神が、神部物部道麻呂の子美乃理麻呂(みのりまろ)に託宣して仏法に帰依することを宣言したことによるものです。また、『高良山高隆寺縁起』(高良大社蔵)によると、国司の発意で急遽仏殿が造営され、仏像と神像を安置して高隆寺が成立したといいます。しかし、波多野皖三や古賀寿によると、建立年代は奈良時代中頃に下るのではないかといいます。その後、弘仁元年(810)には、隆慶上人が講堂を三間四面に改築したという記載があります。後述する瓦の年代から、恐らくこの際に屋根を瓦葺きにしたのではないかと考えます。
2.古賀寿氏採集の古瓦
この高隆寺跡からは、多くの瓦類が採集されています。筆者は、かつて古賀氏のご厚意で、彼が採集した軒丸瓦2点(うち1点は高良大社蔵)、軒平瓦2点、都府楼系鬼面文鬼瓦1点、鬼板瓦1点を実見し、実測・写真撮影する機会をいただいたことがあります。
まず、軒丸瓦は、平板化した単弁七弁の蓮華文で、中房の蓮子の数は1+5、周囲に珠文帯を廻らせています。これはヘボノ木遺跡(久留米市東合川町)の単弁五弁と単弁六弁の軒丸瓦、筑後国府跡(久留米市合川町)出土の単弁七弁軒丸瓦などと同系統の文様と思われます。筑後国内の古代寺院には、類似した単弁系のものが多く見られます。
また、高隆寺と同笵の軒丸瓦は、直線距離で1.6㎞南に離れた西行山瓦窯跡から採集されており、この窯で焼成され供給されたことは間違いありません。同窯跡では、筑後国府や国分寺所用瓦も生産しており、筑後国が経営する官窯であったことが判明しています。
軒平瓦は、退化して硬直化した唐草文を珠文帯で囲むもので、平瓦の凸面は斜格子文叩きを施し、瓦当部との接合には、包み込技法が採用されています。また、瓦の胎土や焼成、調整技法の共通性を観察すると、一緒に採集された軒丸瓦とセット関係にあることがわかります。これらの特徴から、平安時代初期の九世紀前半代のものであることがわかります。これは、先述した弘仁元年(810)の講堂改築の記事を裏付けています。
これらの他に、時代的に遡る縄目文叩きを施す瓦類も採集されていると聞いています。先述したように文献の検討から、高隆寺の創建は8世紀中頃まで遡る可能性が指摘されています。その場合、当初の姿は、少量の瓦を使用した熨斗葺きのような屋根景観の堂社であったのでしょう。そして9世紀前半に、礎石建ちで都府楼系の鬼瓦や軒瓦を用いた本格的な瓦葺きの建物に改築したと考えられるのです。その背景には、『縁起』の記事内容や採集された瓦からわかるように、筑後国の手厚い外護があったと思われるのです。
3.高隆寺の終焉
古賀氏が採集した瓦の中に、褐色の鬼板瓦が一点ありました。これは周縁に円文を配置していること、またその形態的な特徴などから、平安時代末ころの製作年代が考えられます。平安貴族の日記『重憲記』には、康治3年(1144)、高良宮神宮寺高隆寺の湯屋の大釜が鳴動したことが見え、少なくともこの頃までは、高隆寺が隆盛していたことが推察されます。しかしその後の記録は無く、中世には衰退の一途をたどったと考えられます。江戸時代には、わずかに鐘楼一棟を残すだけになってしまいます。
*第19回広川町古墳公園資料館企画展「南筑後の古瓦」パンフレットより〔一部修正〕。2016年11月、広川町教育委員会
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