久重が製造したのはアームストロング砲だったか

小 澤 太 郎

作品タイトル

佐嘉神社(佐賀県佐賀市松原)に設置されている、6ポンドアームストロング砲の模造品。砲身内部にライフリングが施されているのがわかる

1.大砲の原料
「雷の音にも増すや鐘の筒」。商家の手代石本猪平による日記『諸国見聞』の一節である。文久3年(1863)4月、石火矢(和製大砲)鋳造のため、領内120ヶ寺あまりから原料として数多くの梵鐘が集められた。有馬文庫の「記録」によれば、「からくり儀右衛門」の異名で知られる田中久重は、同年9月にはすでに久留米藩に在籍しているが、現在知られている限り、最初に取り組んだ具体的な仕事は洋式大砲の鋳造であった。その原材料となる青銅も、この時集められた鐘を鋳潰したものとされる。

2.久重の大砲
 さて、久重が久留米藩製造所で製造した青銅製大砲とは、果たしてどのようなものだったのだろうか。久重が明治7年(1874)に記した『萬記(よろずき)』によれば、「元込八拾封度アルムストロング並に三拾封度アルムストロング製造仕其頃は、肥前と久留米と両国にかけて半月ずつ相勤、肥前において夫鉄製元込アルムストロング銃製造仕(下略)」とある。アームストロング砲という呼称が妥当かどうかはさておき、80ポンド及び、30ポンドという大型の規格で元込式(後装式)の大砲であったことがわかる。
 一方、久重は当初、砲弾は球形弾を予定していたという。そうだとすれば、計画していたのは前装式の青銅製滑空砲であったことが想像される。しかし、『加藤田日記』などに見られるように、文久3年7月に勃発した薩英戦争の慰問のため、同年9月、米藩士松崎誠蔵(開明派)が鹿児島に派遣された。その際、英国軍艦が発射したアームストロング砲の長形の不発弾(椎ノ実型)を入手し持ち帰ると、これを元にその製造法を改めたという。球形弾とは異なり、長形弾は砲身内部にライフリングされた施条砲に用いられるものである。
 また、この大砲製造にも携わった弟子川口市太郎の『知恵鑑』には、「弾丸は元より挿入し、而してその丸(弾丸)の出て来らざる為め鉄板をもって仕切り、その鉄板を〆置くため螺旋を要するなり」とあり、その螺旋をたてるため大変な苦労があったと述べる。恐らくこの鉄板とは、後装式アームストロング砲でいうところの鎖栓(ベントピース)で、〆置くための螺旋とは、ネジ式の尾栓(ベントスクリュー)のことを指すものと思われる。久重は、佐賀藩精煉方での経験があり、既に後装式施条砲について熟知していたはずである。すなわち、久留米で久重が完成させたのは、ライフル(螺旋溝)が施された青銅製後装砲であったと考えてよいだろう。

鑓水古飯田(やりみずふりゅうでん)(福岡県久留米市御井町)から見た標高223.6mの飛岳。ここから完成した80ポンドと30ポンド砲が試射され、約2.8㎞離れたこの山の中腹にある的をはるかに超えて飛んだという。

3.アームストロング砲とは何か
 しかし、この大砲を素直にアームストロング砲と呼んでよいものなのだろうか。厳密に言えば、アームストロング砲という呼称は、英国アームストロング社が製造した大砲に限定すべきである。
 同社はさまざまなタイプの大砲を開発したが、代表的なものには、それまでの鉄や青銅による鋳造砲ではなく、錬鉄製で砲身に複数の鉄輪を嵌め込んだ層成砲がある。砲身内部には螺旋溝が切ってあり、砲尾栓を開いて発射薬と椎実型の弾丸を込めたという後装式施条砲であった。施条砲で使用される椎ノ実型砲弾は、それまでの球形弾に比べて空気抵抗が少なく、胴部の鉛製リングが砲腔に密着するので火薬の燃焼ガスのロスも少ない。このため、より重い砲弾をより遠くへ飛ばすことが可能になった。
 また、螺旋溝の作用により砲身内で弾丸に回転がかかるため、ジャイロ効果によって弾道が安定して命中精度が格段にあがったのである。  
 それまでの前装式大砲段階から飛躍的な技術革新によって製造されたアームストロング砲が、後装式施条砲の代名詞となったことは想像に難くない。久重はアームストロング砲をモデルに、銑鉄よりも粘度が高い青銅を使い、在来技術を応用した独自技術によって模造したと考えてよいだろう。
 最後に、用語の混乱を防ぐためにも、我が国におけるアームストロング砲を分類整理しておく。Ⅰ類は、オリジナルのアームストロング砲、Ⅱ類は、材質を含め構造についてもフルコピーした倣製(ほうせい)アームストロング砲、そしてⅢ類は、アームストロング砲をモデルに、異なる材質や独自技術で模造された施条後装砲。久留米での久重の大砲はⅢ類に属するものである。

4.大砲のその後
 『諸国見聞』明治4年(1871)7月21日の記事には、「石火矢 八十本筒(注・80ポンド砲) 是は少しころひ/三十六本筒(注・36ポンド砲) 是は土台より下にをり二・三尺もころひ」とあり、製造所敷地内で2門の巨砲が倒れ、土台より転げ落ちた状態であったことが記されている。製造所敷地内にそのまま打ち捨てられていた大砲は、ほどなく、大阪の商人がこれを買い取り、切断して地金として運び去ったという。久重の努力と技術の結晶は跡形もなく、地上から消えたのである。

*『久留米発、ニッポンのものづくり・からくり儀右衛門展』22013年11月、同展実行委員会〔一部加筆修正、写真追加〕
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