その時、街は戦場になった。‐終戦間近の荒木空襲‐

小 澤 太 郎

福徳長酒類久留米工場(福岡県久留米市荒木町荒木)の外周壁には、米軍機が残した生々しい機銃弾の痕跡が。

 終戦が目前に迫った、昭和20年8月8日のことだった。その日は、朝からよく晴れていて、強い日差しと透き通った青空が広がっていた。水曜日だったこともあり、旧国鉄荒木駅は、なかなかやって来ない汽車を待つ、通勤通学の多くの人でにぎわっていた。

 時計は、午前11時30分を回ろうとしていた。旧制八女中学の一年生だった一木崇之さん(当時13歳)は、通学のため、駅前広場で学友達と雑談をしながら列車を待っていた。

 すると、突然頭上で「ダダダダダッ」とすさまじい銃撃音が響いた。敵機だとすぐにわかった。とっさに仲間と、向かいの民家の納屋に我先に逃げ込んだ。トタン屋根は「ガンガンガン」と鋭い音を立てた。撃たれていつ死ぬのかという恐怖。銃撃は4、5回続いたが、トタン屋根の音の正体は、米軍機が落とした薬莢だった。

 この時、超低空で荒木駅上空に飛来し、機銃掃射を浴びせたのは、沖縄から飛来した米軍のP51ムスタング戦闘機4機編隊だった。攻撃の際は2機が機銃掃射し、残りの2機が後方支援するスタイルである。

 宇佐市の市民団体「豊の国宇佐市塾」の新名悠由さんらが、平成25年(2013)1月に米国立公文書館で発見し、公開した映像の中に、荒木空襲のカラー映像が含まれている。ムスタングの主翼下に搭載されるガンカメラで撮影された映像を見ると、同機は荒木駅北東側から侵入し、西牟田駅方面から単線を北上してきた4両編成の列車に照準を合わせている。そして列車や周辺の建物に向けて、何度も旋回しながら、執拗に繰り返し機銃掃射を行っている。地面に映る大きな黒い鳥のように見える機影と、目標に向けられる曳光弾の赤い光跡が生々しい映像だ。

12.7 mm弾は貫通し、出口はラッパ状に開いた。

 当時12歳だった松尾哲雄さんは、荒木駅から南へ約2キロはなれた西牟田の千間溝付近で魚を取って遊んでいた。突如バリバリという耳をつんざく轟音がして、とっさに田んぼに身を伏せた。荒木駅方面から超低空で現れたのは、ムスタングである。松尾さんの後ろ上空で旋回すると東方の高良台へ直進、そこで翼を翻して再び地上すれすれの高度で2機が荒木駅を機銃掃射した。旋回する際にパイロットの顔がよく見えたという。

 その日初めて通る列車は満員で、デッキや石炭車の上にまで乗客であふれていた。駅南側のレンガ造りの大きな建物がそびえる森永製菓・久留米工場(旧台湾製糖)の横に差し掛かったところでの銃撃だった。機関車は第一撃で被弾し、激しく蒸気を吹き上げた。

 平嶋カヨ子さん(当時1歳)は五歳の姉と母親と3人で乗り合わせていた。本人には当時の記憶はないが、姉からその時の様子を聞かされてきた。それによると、母はとっさに2人を座席下に押し込め、覆い被さった。米軍機が飛び去って座席下から這い出したが、床が血でねっとりとしていて足が滑った。母は動かなくなっていた。泣いていたら、駅長さんらしい大人の人がお菓子を差し出して慰めてくれたという。

 列車の中は酸鼻を極めていた。血の海が広がり、逃げ惑い泣き叫び呻く声がこだました。窓から逃げ出そうとしたところで撃たれ上半身がぶら下がったままの人、引き込み線の貨車の下に逃げ込んだところで銃弾に撃ち抜かれた兵士、列車の脇でも駅前通りでも、建物の入り口でも、血だらけで倒れている何人もの人がいた。同じ列車には、護送中の米軍捕虜も乗っていたが、彼らにも犠牲者が出たという。

 ムスタングが南上空に去ると、遺体収容が始まった。喧噪の駅前通りは死傷者を運ぶリヤカーや大八車でごった返した。遺体は下荒木の浄光寺に運ばれ、負傷者は付近の辛島病院と稲益病院、荒木国民学校に収容されたが、記録が残っておらず、その数は明らかになっていない。荒木空襲の証言を集めている荒木国民学校二十年会の塚本利夫さんによると、死傷者数は22名といわれているとのことだった。

戦前のレンガ建物が残る同工場。平成25年の立ち入り調査で、この建物にも機銃弾痕跡が残っていることが判明した。なお、建物外壁が黒っぽく見えるのは、戦時中の迷彩塗装の名残である。

 最近、九州医専(現久留米大学医学部)の記録中に、荒木空襲による死傷者44名来院という記述があることを突き止めた。満員の列車であったこと、地元の寺院や病院に運び込まれた死傷者数が不明であることを考慮すると、犠牲者は相当数にのぼるだろう。
 今回、体験を聞かせていただいた皆さんが口を揃える言葉は、「戦争は絶対いけない」ということである。戦争は一瞬にして人生も財産も全てを奪う。戦争の愚かさ、平和のありがたさを知るためにも、わが街で起こった戦争の事実は、後世に語り継いでいかなければならない。

 なお、平成24年12月には、久留米市文化財保護課が実施した荒木小学校北側の発掘調査で、米軍P51ムスタング戦闘機から発射されたと考えられる12・7ミリ機銃弾(曳光弾)が出土した。さらに今年4月には、福徳長酒類久留米工場(旧台湾製糖)の外周塀や建物に残る機銃弾の痕跡を調査している。荒木空襲の実態解明は、端緒についたばかりである。

*『筑後地域文化誌 Agena Dogena』第7号、2015年8月、Agena Dogena編集部より〔一部改変〕
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