筑後川と千歳川(上)ーその名称をめぐってー

小 澤 太 郎

筑後平野を流れる筑後川(朝倉市杷木町志波)

1.はじめに

 我々が住まう筑後平野を育てた「父母」は、耳納山地と筑後川だ。耳納山地は、水縄断層系の活動によって長い年月をかけて隆起して山地となり、そのために、相対的に山地の北側は沈降した。低くなった大地に筑後川が流れ込むと、山間部から運ばれてくる土砂の堆積作用で、広大な筑後平野が形づくられたのである。
  筑後平野の百万の生活の幸を/祈りながら川は下る/有明の海へ/筑後川筑後川/その終曲あ  ゝ
  (丸山豊作詞、團伊玖磨作曲、混声合唱組曲「筑後川」第五楽章「河口」より)
 これは合唱コンクールや卒業式などで歌われる合唱曲「河口」の、その壮大なフィナーレを飾る歌詞である。長さ143㎞、九州一の大河として知られる筑後川流域の自然や景観、豊かな恵みを織り込みながら、人生とその新たな門出が重ね合わされている。筑後平野で生活する我々にとって、筑後川は極めて身近な存在であり、日々の生活の様々な場面で関わっている基盤なのである。
 さて、歴史を辿れば、我々が親しんでいる「筑後川」という呼び名は、比較的新しい名称だ。実は、それ以前にもいくつもの名前があった。「一夜川」「千歳川」「筑間川」などはその代表例である。今回は、それらの名称の起源や変遷を探り、筑後川という名称が定着する過程とその背景を探ってみたい。

2.最古の名称

 筑後川を指す呼称として最も古い例は、奈良時代に成立した『肥前国風土記』である。すなわち、養父郡条には、次のように見える。
  むかし、筑後国の御井川、渡瀬いと広く、人も畜も渡り難くありき。
 御井川は川幅が広いので、人や家畜の渡河が困難であったというのである。この御井川が肥前国との境を流れる筑後川のことを指すことは間違いないだろう。また、同風土記の基肆郡の条にも「御井大川(みいのおおかわ)」が登場する。この川の西(肥前国側)には荒ぶる神がいて、往来する人の半数が殺されたという。
 この2つの逸話は、川幅が広く水量が多いために渡河が困難で、その際に命を落とす者が多かったことを伝えている。先の養父郡には、「(耳納山地の木材で)船を造り備えて、人・物を漕ぎ渡しき。」とあり、やがて船によって川を渡るようになったのである。だが、御井(大)川という名称は、『肥前国風土記』に記されるのみであり、古代以降、使用された例はない。

3.筑後河(川)の名称

 次に史料に現れるのが、「筑後河(川)」である。鎌倉時代・建治元年(1275)の「将軍源惟康家政所下文案」(「高良山文書」)を書き下して引用する。
  筑後河神代浮橋、九州第一の難処の処、神代良忠調略をもって諸軍すみやかに打渡し、蒙古退  治の事(後略)
 その後、南北朝時代に成立した『太平記』(1370頃)や「草野文書」中の書状(1376)にも使用例を見出すことができる。
 また、戦国時代に生葉郡で筑後川筋の支配に当たった中津留右馬允宛の大友義鑑朱印状(1544)中に「筑後川條(すじ)」とあり、引き続き「筑後川」の名称が使われている。

4.千歳(千年)川と一夜川

 一方、ほぼ同じ頃に見られるのが「ちとせ川」の名称だ。漢字の当て方によって「千歳」や「千年」と書く場合があるが、どちらも長い年月や永遠の年を意味する同義語である。
鎌倉時代・徳治2年(1307)頃に藤原長清が選した「夫木和歌集」巻第二十四・河の部には、ちとせ川(筑前)光明峯寺入道摂政の歌が収録されている。
  君が為限りもあらじ/千歳川/ゐせきの波の/いくめぐりとも
 時代は下るが、江戸時代の「米藩詩文選」一(1770年代)には、久留米藩の儒者であった中村梅塢(ばいお)が「中秋に舟を千年川に泛(うかぶ)」と題する漢詩が収録されている。
 また、寛政7年(1875)に蝶夢が編集した『俳諧名所小鏡』筑後の部にも、千歳川の句が四首納められている。そのうちの一句、蝶酔のものを挙げておこう。
  菜の花の色も果なし千歳川
 「千歳(年)川」という名称は、「筑後川」とは異なり、諸国や藩内の文人達に風流で優雅な呼称として好んで使用されたことがわかる。他の異名として「一夜(ひとよ)川(河)」がある。こちらも歌や俳句に詠まれることが多い。先の『俳諧名所小鏡』にも「一夜河」の題で六句が収録されている。次は志考による一句。
  名月はふたつこそあれ一夜川
 室町時代の連歌師である宗祇は、「名所方角抄」の中で一夜川を取り上げ、次のように述べた。
  一夜川 千年共、世俗に筑後川ともいふなり
 風雅の世界では、一夜川や千年川という名称を使うが、俗世間では筑後川と呼んでいたようだ。

5.新たな名称

 さて、一応整理されたかのように見える名称問題だが、ここで新たな問題が発生する。きっかけは、太閤秀吉による島津氏討伐後の「九州国割り」である。
 天正15年(1587)、久留米城主となった小早川秀包は、毛利元就の九男(末子)である。豊臣秀吉と主従関係を結び、養父小早川隆景とともに、九州平定に功を挙げた。隆景には、筑前一国と肥前二郡(基肆・養父)、筑後二郡(生葉・竹野)が与えられ、秀包は筑後山本郡と御井・上妻・三潴の一部を賜ったとされる。すなわち、隆景・秀包親子で軍事・交通の要衝であった筑後川中流域を支配することになったのである。
 筑前・筑後を支配することになった小早川氏は、両筑の間を流れる筑後川が御境川であることから、筑間川と改名したといわれる。以後は、これが公称となる。この件について、「米府記事略」巻之十八には次のように記される。
  往古筑後川と唱え候を、或いは一夜川又は千年勢(ちとせ)川とも申しならはし候を、筑前中  納言秀秋(隆景の後継者)、両筑を領せし比(ころ)より筑間川と唱へ候

久留米城(中央の森)の要害筑後川

6.河名争論

 元和7年(1621)に筑後北半の領主として久留米に入城した有馬氏は、筑前を領する黒田家との河名をめぐり争論に及んだ。「米府記事略」によれば、寛永13年(1636)、家老有馬主水正名で幕府老中宛に、
  筑間川の儀、いよいよ以来、筑後川と郡中申し渡し候様、仕るべく候
と、公称を筑後川と変更するよう求めている。
 一方、筑前藩では久留米藩側の筑後の国名が入る名称を嫌い、千年(歳)川を主張した。黒田家中の儒学者貝原益軒は、『筑前国続風土記』巻之十一でこう指摘する。
  (魚も水も)皆これ両国に両国に属せる故なり。この川を千年川と称せずして、筑後川と称す  るはあやまりなり
 しかし、幕府へ名称変更を届け出た2年後の寛永15年、老中連名で正式に裁定が下った。
  筑間川改名にて申し出され候段、その紛れこれ無く、則ち以来筑後川と郡中へ申し渡すべき旨  、将軍家光公仰せ出され候
 筑前藩の主張を退け、筑後川とした理由は、この川が久留米城の要害(外濠)を兼ねていているので、国境の境川とはいえ、その城に付属する。これは誰もが認める公の法であるとした。

『疏導要書』巻之上、千歳川の項(佐賀県立図書館所蔵


7.筑後川の名称は領内限定か

 これまでは、以上のような過程を経て、最終的に筑後川が公称となったとされてきた。しかし、幕府の裁定にある、これ以降筑後川に改名するよう「郡中へ申し渡しなさい」という点が気にかかる。
 この裁定は久留米藩家老宛に出されたものであり、「領内の諸郡へ」という限定的な意味に他ならず、他藩への強制力はない。以外にも、筑後川という名称の使用範囲は、主に久留米藩領内に留まったのではないかと思われる。
 先述したように筑前藩は、筑後川は御境川であるとして、あくまでも千年(歳)川の名称で通した。実は、筑後川の対岸にあるもう一つの藩、佐賀藩も同様であった。
 天保5年(1834)、佐賀藩士南部長恒によって著された『疏導要書』は、近世河川研究の白眉とされる。ここでも呼称は「千歳川」であり、「この川は筑後・肥前の御境にて御境川と相となえ」とある。その他の絵図類も「御境川」とするものが多い。
 このような藩境に関する争いには、幕府は積極的な介入を行わなかった節がある。『米府記事略』巻之十には、久留米・筑前・肥前が幕府へそれぞれ提出した筑後川の絵図について、国境の捉え方について三者三様の違いがありながら、「公儀にては御吟味もなく、そのままにてお受け込みになり来りたり、もしこの儀、吟味ありては双方争論になり、はなはだむつかしきが故なりとかや」
とある。幕府が公に取調をすると、争論になり、双方が正当性を主張して対立することになる。幕府としては、それぞれの藩主のメンツを立て、事を荒立てないためにも、このような消極策をとるしかなかったのだろう。なお、この裁定は幕府の公式記録である『徳川実記』にも見られない。  (下につづく)

主要参考文献
・沖森卓也ほか編『豊前国風土記・肥前国風土記』山川出版社、2008年
・国民図書株式会社編『夫木和歌抄』下(復刻版)、講談社、1976年
・久留米市史編さん委員会編『久留米市史』第二巻、1982年
・久留米市史編さん委員会編『久留米市史』第七巻資料編(古代・中世)、1992年
・宗祇撰「名所方角抄」東京国立博物館デジタルライブラリー
・村松友次ほか編『俳諧名所小鏡』上、古典文庫、1990年

*『筑後地域文化誌Agena Dogena』(中南米マガジン社)第17号(2019年1月)より〔一部改変〕。
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