八女市童男山古墳群採集の石人について

小 澤 太 郎

作品タイトル

石人が採集された22号墳(福岡県八女市大字山内)

1. はじめに
 幕末の久留米藩士矢野一貞は、その著書『筑後国史・筑後将士軍談』(1853年)のなかで、福岡県八女市所在の童男山古墳群の名称について触れている。 「童男ナド云ルモ石人ニ由アリテ起レル称ニハ非ザルカ」というくだりがそれである。惜しいことにその根拠までは明示されていないので、石人の存在もしくはその伝承等を確認した上での記述であるのか否かは、もはや知る術がない。
 ところが、1988 ・89年に、この童男山古墳群から阿蘇溶結凝灰岩製の石人が2 体相次いで採集された。この石人の発見は、童男山古墳群が所属する八女古墳群において、広川町石人山古墳・八女市岩戸山古墳に次ぐ例となった。こうなると、前出の矢野による記述との関連が浮上してくるが、記されているのは研究プロセスを省いた結論のみなので、石人採集の事実との接点は見出せない。現状ではこれ以上何とも云えないので、ここでは紹介程度に留めておく。
 何れにせよ、童男山古墳群からの石人の採集は、所謂石人石馬―古墳の墳丘を表飾する石製品―について新たな問題点を提示するものであり、単なる類例の追加にとどまるものではない。また、その資料的価値は、従来支配的であった「石人石馬」についての解釈・評価に対して、修正をせまるのである。
以下本稿では、この2体の石人に着目し、その採集状況の復元と、石人の観察・復元・分析という考古学的な基礎作業を踏まえて、その問題点についても触れる。

2. 童男山古墳群採集石人の分類
 童男山古墳群から採集された石人は、赤ん坊を背負った女性を形どったと思われるものと、正座するものの2 体である。詳細はのちに述べるが、ともに、立体彫刻で、服飾表現がなく裸の様子を表している可能性が高いものである。では、これらは「石人石馬」のなかでどのようなカテゴリーに属するのか、小田(1974)等による成果を参考にしながらみておく。また同時に、2体の石人の呼び名が研究者によってまちまちであるので、以下での便宜を図るためにも、できるだけ端的で合理的な名称を定めておくのがよい。
 「石人石馬」は、まずその造形方法等の違いから、円体(立体)のものと扁平のものに二分できる。更に、形態を考慮して大別すると、人物・鳥獣(動物)・器材の3 種がある。うち、人物については装備・服装によって、武装石人・平装石人・裸形石人に区別できる。また、裸形石人はその姿勢や状態から、直立したもの・正座したもの・横座りしたもの・男根を露出したもの・子供を背負ったもの等にも細分できる。以上のような分類に従えば、童男山古墳群の2 体の石人はそれぞれ、円体裸形石人子負い像・円体裸形石人正座像と呼称できる。

図1 八女古墳群主要古墳分布図(位置図) 1.石人山古墳 2.欠塚古墳 3.神奈無田古墳 4.岩戸山古墳 5.乗場古墳 6.善蔵塚古墳 7.鶴見山古墳 8.釘崎古墳群 9.丸山古墳 10.童男山古墳

3. 童男山古墳群の位置と環境
 童男山古墳群採集の2体の石人について記述する前に、八女古墳群、及び童男山古墳群についてのいくつかの基礎的な認識整理(註1)をしておく。ただ、資料紹介的意味合いが強い本稿では必要な点を触れるにとどめる。
 「八女古墳群」(図1)  筑紫平野を蛇行しながら有明海へと注ぐ筑後川。その中流域の福岡県浮羽郡から同県久留米市東部にかけて東西方向にのびる水縄山地がある。八女丘陵とは、この水縄山地から西側に派生する幾つもの丘陵のうち、八女市街地の北方を東西約12㎞にわたってのびるものを指す。所謂八女古墳群は、この八女丘陵上のものを中心として八女地方一帯に展開する数百基の古墳の総称である。
 八女古墳群中の最高ランクの古墳は、傑出した規模を誇り、立地的にも単独で存在する傾向のある一連の前方後円墳である。すなわち、5 世紀前半から中頃にかけての石人山古墳を始点として、八女丘陵上を東へ推移するように、6 世紀前半には岩戸山古墳が、また6 世紀中頃から同後半にかけて乗馬・善蔵塚・鶴見山古墳が築造される。これら一系列に辿ることができる前方後円墳の被葬者には、筑紫君が推定されている。なかでも岩戸山古墳が、527年に大和朝廷に対して反乱を起こした筑紫君磐井の墓所に比定(註2)されていることはあまりにも有名である。
 一方、より小規模の前方後円墳は点在もしくは集中の傾向を示し、単系の流れではとらえにくい。前者の例としては、欠塚・神奈無田・丸山古墳、後者については、釘崎1号・同2号・同3号墳などが該当する。うち、欠塚古墳は、 5世紀末~6世紀初頭頃、丸山古墳は、6世紀前半~同中頃、それ以外は概ね6 世紀後半頃の時期が推定されている。
 他に、八女古墳群の大部分をなすのは数多い円墳群である。中には、釘崎古墳群の如くほぼ同時期の複数の前方後円墳と共存するものもあるが、ほとんどが大小の円墳で構成されている。このような円墳群には、大別して2つのパターンがみられる。1つは、時期幅をもち徐々に群を形成していくものであり、典型例としては立山山古墳群が挙げられる。2つ目は、ほぼ同時期に形成されるものであり、童男山古墳群がこれに相当する。では今回の舞台である童男山古墳群についてより詳しくみてみる。
 童男山古墳群(図2)  八女市大字山内字北童男一帯に所存する、6 世紀中頃一同後半頃の古墳群である。童男山古墳群は、八女古墳群の一角を構成しているが、所謂八女丘陵上に立地する他の古墳と違い、星野川北岸の山麓及び、そこから南に広がる台地上の標高60-lOUmの範囲に分布している。
 古墳群は盟主的存在である童男山(1 号)古墳(径約48m)を中心に、半径300mの円内にほぼ収まる形で、1 号墳を含めた計27基の円墳が分布している。また本古墳群は、谷によって分けられる3つの小群から構成(註3)されており、東から. 同一尾根上の4 ~16号墳(13基)、谷を挟んで1~3号・17~22号墳(9基)、浅い谷を挟んで23~27号墳(5基)となっている。本古墳群の特色としては、石室の内部施設に石屋形・石棚・石棺・石床を備えたものが多いことが挙げられる。しかし全てを一度に揃えたものはなく、石屋形・石棺、石棚・石棺、石棚・棺床の組み合わせか、もしくはこれらの中からの一要素が採用されている。このような古墳は、現在石室が開口する16基のうち8基にものぼる。しかも、1号、12号墳出土の石棺に関しては、阿蘇溶結凝灰岩製であることが確認されている。
 今回石人が採集されたのは、2号・3号墳の中間地点及び、22号墳である。ついては、3基の概略を示しておく。
 2 号墳は山腹に立地し、複式横穴式石室を有する径約22mの円墳である。石室内部施設に石棚・石棺をもつ。1990年に調査された。
 3 号墳は山腹に立地する径約17mの円墳である。主体部は複式横穴式石室であり、石室内部施設に石屋形をもつ。 1991年に調査された。
 22号墳は山頂に立地する径約15mの円墳である。主体部は複式横穴式石室であり、石室施設に棺床(刳り抜き石棺)を有する。 1990年に調査された。

図2 童男山古墳群分布図(赤崎1985による)

4. 石人採集時の状況
 円体裸形石人子負い像と円体裸形石人正座像の2体は、どの様な状態で採集されたのだろうか。発掘調査においてもそうだが、遺物は遺構との関連の中で、その資料的価値を発揮する。遺物は「考古学的脈絡」と呼ばれる出土状況を把握することによって、考古学的に生命が宿るのである。2 体の石人は厳密な発掘調査で出土したものではなく、全く偶然に採集されたものである。ゆえに、考古学的に意味を持たせるためには、採集時の状況における石人の状態を把握しておく必要がある。遺憾ながら著者は. 2 体の石人の採集には居合わせていないため、関係者の証言を元に採集時の状況を復元するしかない。
円体裸形石人子負い像(図3)
 童男山1 号墳へ向かう谷筋の東側斜面に沿う形で、3 号墳、2号墳の順に並んでいる。石人は、この2 基の古墳の間に見学者用駐車場を建設中に、地下約I.5mから採集されたという(註4。八女市教育委員会の赤崎敏男氏によれば、石人の採集地点はその後の発掘調査によって、3 号墳の周溝付近に当たるのではないかということである。またこの石人が、阿蘇溶結疑灰岩製の墓石とともに発見されたことから、それらと一括廃棄されたものと思われる。
 ここで問題となるのは、果たして石人が本来3 号墳に樹立されていたものなのかという点である。採集時の状況を見る限りでは、3号墳はもとより果たしてどの古墳に属するものか確定できないといえる。だが、採集された石人を観察してみると、胸から下の欠損面がかなり風化していることから、古い時期に破壊を受けていたことがわかる。また破壊は一度だけではなかった。例えば石人の顔面左側面の打撃による損傷と顔面鼻から下の剥落や、背面の左側面付近の打撃による損傷と胸部の剥落などは、ほとんど風化が見られず比較的新しい時期の破壊による損傷である。
 すなわち、この石人は少なくとも二度以上の破壊に遭遇していたのであり、採集地点から同一個体の破片が見つからなかった状況をあわせて考慮すれぱ、同地点に運ぱれる以前に他の場所で既に破壊を受けていたと考えられる。このことは,石人が本来樹立されていた原位置から移動している可能性が高いことを示す。だが単純に、石人が他の古墳群など遠方から持ち込まれたとするのは飛躍であって、これ以上の資料がない現在、本来樹立された古墳の候補としては、3号墳を含めた付近の古墳、つまり童男山 1 号墳に代表される同一小群内の古墳を挙げるのが妥当ではないかと考える。
円体裸形石人正座像(図4)
 発見した筑後考古学研究会(註5)の諸氏の話では、22号墳の墳頂部東側の斜面から、別個体の阿蘇溶結疑灰岩片1 (生きた面なし)とともに採集したという。本墳は、早くから開口し、1号・7号・3 号墳と並んで多数の見学者がおとずれていたにもかかわらず、今回偶然に発見されたのは、墳丘全体に繁茂していた笹竹を刈り取ってあったためである。この石人は樹立当時の位置をとどめてはいないものの、墳頂部付近から採集されたことや、本古墳の周囲半径約1OOmの範囲には他の古墳が見当たらず西側には谷が入り込むなど、立地的にやや独立した観があることを考慮すれば、後世に他の古墳から持ち込まれたとするよりは、元来本墳に属するものであったとする解釈の方がより妥当であろう。

5.採集された石人の観察
 さてここから本題に入る。以下では7 体の石人について観察していくが、前述したように2 体はいずれも円体(立体)整形であり、ともに服飾表現がない点で裸形石人の繁瞬に属するものである。また、円体裸形石人子負い像本体の頚部の石の凹みには、赤色顔料が点々とみられるが,もう一方の円体裸形石人正座像には全くみられない。

図3 円体裸形石人子負い像

円体裸形石人子負い像
 石材は硬質・淡灰色の阿蘇溶結疑灰岩であり,柾目の画をほぼ正面にとる円体整形の石人である。表面の風化は著しく,調整は不明瞭である。
 現状での高さは約67㎝、胸部横幅約35㎝であり、残存状況(註6)はよくない。まず胸部から下が欠損し、ほぼ上半身を辛うじて残す。この欠損面の風化は著しい。両腕も欠損しているが何とか右肩は確認できる。左側面は、石材の目に沿って欠落している。この欠落面は胸部から下の欠損面よりもかなり新しい。また、顔面は鼻から下の広い範囲で表面が剥落している。この剥落も先の欠落面同様新しい。
 まずは子供を背負う人物について観察する。まずこの人物の胸の膨らみ―特に右胸においては明瞭である―から女性であることは確実視されるのであり、さらに子供を背負う姿をみれば母親を表現したものであろうことが想起される。わずかにのこる右肩は、やや斜め後方、背面に向かって傾いている。本来は、背負った子供に手をまわして、優しく支えていたに違いない。下半身は残存しないものの、子供を背負っている事実から直立姿勢であったと思われる。現状では、後述する22号墳採集の円体裸形石人正座像のように支柱はみえないが、本来は存在した可能性が高いのではなかろうか。
 顔面は縦幅約36cm、横幅約32cmの卵形である。そこには鼻・眉・目・ロ・耳の表現がみられる。鼻は顔面中央部に低く浮き彫りされており、広がることなく短冊状に垂れ下がる。
眉は、根元で鼻に直結するが、ほぼ真っ直ぐ顔面の外側方向へ伸び、先端は緩やかに下方ヘカーブする。そしてこの眉のラインの下側を浅く掘り込むことによって浮き彫り風に仕上げられている。以上は陽の表現である。対して目・口は、深く掘り窪められる陰の表現である。アーモンド形の目は顔面中程より上部に並び、どちらも表面から1 ㎝強程の深さである。口は周囲が剥落するものの「への字状」の形態を残しており、本来表面から約2 cmの深さに掘り込まれていたのだろう。
 また、耳は平面カシューナッツ形で右耳のみが形よく残っている。尚、顔にはーつの工夫が見られる。側面図をみればわかるように、顔面はフラットではなく中央部が若干膨らんでいる。つまり顔面部の整形過程の最後の工程で、顔面の周辺を、やや角度をつけて削り落としたのである。この作業によって顔面が凸レンズ状に膨らみをもち、最小限の労力で顔の立体感が格段に増している。
 後頭部には、髷の表現がみられる。右側半分が残存する。平面形は上部が膨らみ、中程がすぼまり、再び裾にいくにしたがって広がる形で、底部は真っ直ぐ平らに整形している。髷中程の最もすぼまった部分には水平方向に走る浅い沈線がある。これは髷の結びの表現ではないだろうか。以上から復元すれば、恐らく上部の膨らみは、纏めて上方へ引き上げた髪を再び下に垂らし中程を紐などで結んだときの、髪が膨らんだ表現であり、平らな髷の底部は、髪をきれいに真っ直ぐ切り揃えた表現であろう。古代髭の結髪方法が具体的にわかる好資料である。
 次に、背中の子供についてみる。これについては、顔面左半分と右腕のみしか残存しないために得られる情報が少ない。右側を向く顔は、女性本体に比べて整形がかなり雑である上に風化が著しく、浅く掘り窪められた左目と口を僅かに認めることができる。鼻は線刻で輪郭を表現してあるようにもみえるが判然としない。右腕は母親の背中をしっかりつかんでいるようであり、手の5本の指が確認できた。
 ここで耳をめぐる解釈について述べておきたい。結論から言えば、著者は女性像顔面右側面に残存する平面カシューナッツ形の浮き彫りは、耳であることを再び強調することになるのだが、ことの起こりは以下のようである。石人の実測調査の際、調査に先行した新聞報道等によって植えつけられた固定観念があったためか、「耳」であることに疑いをもっていなかった著者は、その後この「耳」が、ミズラの表現とする考え方もできるのではないかという指摘を受けて非常に衝撃を受けた。今更ながら、疑いをもたぬ先入観の恐さを感じたのだが、それ以上の反省は論旨からはずれるので省略する。
 さて、先の指摘の根拠となるのは、石人一般には、はっきりと耳を表現したものがないのではないかということと、位置的にミズラとすべきでないかという2点である。まず前者の指摘については、岩戸山古墳の円体裸形石人(註7)に耳の表現があるので相当しないといえる。さらに後者について反論するならばミズラは従来男性の髪形と解釈されており、石人女性像にはふさわしくないこと、また、後頭部に髷を結う場合、全ての髪を後頭部で束ねてしまうが、ミズラは髪を顔の正中線から左右に分けて頭部両側面で結ぶことになる。つまり、後頭部に髷の表現がある本石人の場合、後頭部の髷とミズラは両立できないのであり、平面カシューナッツ形の浮き彫りの上端部が石人の両目の上端から水平方向に延長したラインに接することなども考慮すれば、やはり耳なのではないか。すなわち、髪を後頭部で東ね髷を結ったがゆえに露出した耳を表現したと解釈すべきである。
 以上のごとく、本石人は子供を背負う女性の姿を表現している珍しい資料であることがわかった。このことについて若干触れておく。まずこの石人は胸の膨らみ等から女性であることが確実だが、女性と確認できる石人としても岩戸山古墳・熊本県富ノ尾古墳群例(註8に次ぐものである。しかし、子供を背負う例は、現在のところ見られない。そこで捜査範囲を、「石人石馬」と同じく古墳の表飾品である埴輪にまで広げると、栃木県真岡市鶏塚古墳例(註9)を挙げることができる。佐藤・後藤(1931) による報告や、小森(1984)等を参照すれば、この女性埴輪は後頭部に髭を結い、背中に子供を背負う表現など本石人と共通する点が非常に多くみられる。そして背中の子供(左向き)にやさしく腕をまわし支える仕種は、破損している本石人の本来の姿を妨律とさせる情景である。だが、本石人とは明らかに異なる点もある。それは頭に壺状のものを乗せた表現があることである。本石人についてもそのような痕跡を捜したが、見当たらなかった。なお、小森は鶏塚古墳の年代について、童男山古墳群とほぼ同じ、6世紀後半としていることも興味深い。

図4 円体裸形石人正座像

円体裸形石人正座像
 やや軟質・暗灰色の阿蘇溶結凝灰岩を使用している。石の目は正面左側から右背面方向に走っている。表面は風化が著しく調整は不明瞭である。
石人は両膝を曲げ、膝頭を揃えた正座像であり、現状での高さ約42cm、腰部での正面幅約22 cmを測るが全体の残りは非常に悪い。首部は欠損し、腰部から上は著しく剥落する。左側面から背面右側にかけては、石の目に沿って大きく欠落し、左腕もみられない。また、脚部より下は、一部を僅かに残すのみで欠損している。
 まずは右腕からみる。手は腰に据えられ、指と指の間を彫り込むことによって立体的に表現された3本の指が確認できる。手より上部の腕は剥落しているが、剥落した痕跡から、肩へ向かってややカーブを描きながら伸びて行く様子が辿れる。前述したように、本来対称をなすだろう左腕は残存しない。
 次に足であるが左足は残りが悪いため、右足からみる。足は、腰から大腿部にかけて丸みを帯び非常に写実的に、美しく立体的に仕上げられている。大腿部は太くふくよかであるけれども、膝頭付近は突如くびれて最も細くなっており、膝から下の、嬬や足先にかけては再びややひろがる。足先は残存しない。また、ほとんど残存しない左足も右足と同様な状況であり、正座を表現していたと思われる。
 また、両膝を曲げて正座した足の下部に、断面円柱状を呈するなんらかの部分が更に続くことは注目される。これは、石人山古墳例など多くの「石人石馬」にみられるように、石製品を地上へ据える際に地中へ埋め込み安定を図る支柱ではないかと思われる。石人の正座像については、岩戸山古墳例に大小数体がみられるが、いずれも正座した足の下部裏側は平らに整形してあってその下部に何ら続くものはない。これは恐らくその石人が斜面などの不安定な場所に樹立されたのではなく、「別区」のように広くフラットな空間に据えられたためかもしれない。それならば、山麓に位置する童男山古墳群の正座像に支柱が付属していても何ら不思議はないだろう。
 腰部から上については、どのような状態であったのか全く不明であるが、腹部がややふくらみをもっているようである。

6.おわりに
 以上、童男山古墳群から採集された2体の石人についてみてきた。最後に、これらの石人の発見によって表面化した問題点について触れる。
 それは「石人石馬」が6世紀中頃一同後半頃の古墳群から採集されたことである。所謂石人石馬は、5世紀前半頃に豊後の臼塚や下山古墳で短甲形の石製品が樹立されたのを始めとして、その後は筑後・肥後・豊前・肥前、更には遠く山陰の地にまで広がるのであるが、初期の「石人石馬」は、単体もしくは数体の短甲・甲胃形の石製品を墳丘上に樹立するのが特徴である。
 八女古墳群では、広川町石人山古墳(5世紀前半~中頃)がこの時期のものとして名高い。石人山古墳には、甲胃を実物大に模した武器形石製品一個体が埋葬施設の前面、つまり前方部と後円部の境目付近に立っている。また、冒頭で紹介した『筑後国史・筑後将史軍談』には、武具形石製品の傍らに石人頭部の残欠など3点が別に描かれているので、本来は複数の石製品が樹立されていたのかもしれない。何れにせよ石人山古墳段階では単体か、もしくは数体を墳丘上に樹立していたのである。
 ところが、八女市岩戸山古墳(6 世紀前半)に至ると、多種・多量な「石人石馬」が樹立されるようになる。この岩戸山古墳における樹立の状況(註10)が『筑後国風土記』逸文に書かれた筑紫君磐井の墓の情景と一致することは興味深いが、ここでは触れない。兎に角、「石人石馬文化」は、岩戸山古墳において種類・量ともに絶頂に達する。しかし岩戸山古墳以降は、北部九州の「石人石馬文化圏」全域で「石人石馬」が樹立されなくなる現象がみられ、「石人石馬」は急速に衰退し姿を消していくのである。
 「石人石馬文化」に見られる上記のような分布圏の拡大と岩戸山古墳の出現は、筑紫君の勢力の伸張を示すものとされ、かつ岩戸山古墳以降の衰退状況は、所謂磐井の乱以降の筑紫君勢力の弱体化の現れと理解されてきた。即ち、「石人石馬」は筑紫君勢力の拡大とともに、その分布域を広げ、磐井の寿墓である岩戸山古墳に至って、種類・量ともに絶頂に達するのだが、岩戸山古墳以降は急激に見られなくなる。これは磐井の乱、すなわち大和朝廷との対外戦争に敗れた筑紫君を中心とする一種の政治体制とともに「石人石馬文化」が崩壊し、大和朝廷の支配が急速に浸透する過程で否定されたためである。つまり、敗者の文化である「石人石馬」は、中央からの強力な政治的規制によって禁止されたのであろう(註11)というものである。
 ところが今回、時期的に磐井の乱以降、つまり6世紀中頃から同後半にかけての童男山古墳群から2体の石人が発見されたことは、「石人石馬」が磐井の乱も継続して製作され樹立された可能性を示す。そう、少なくとも「石人石馬」は、磐井の乱の敗戦後の約半世紀後にも、筑紫君の本拠地八女地方に存在していたのであるから、その消長に関する従来の解釈は修正を迫られているのである。だが、岩戸山古墳以降、童男山古墳群に至る約半世紀の間の「石人石馬文化」の空白は長すぎるきらいがある。そこでクローズアップしてくる問題は、八女地方において、岩戸山古墳と童男山古墳群の間の空白期間を埋める、「石人石馬」を樹立した古墳の存在である。
 これについては、現在「石人石馬」が全くみられないものの、記録によってそれが樹立されていた可能性が高い例がある。それは乗場古墳である。乗場古墳は岩戸山古墳の東に位置し、時期的には、磐井の次世代もしくは孫世代の筑紫君の墳墓に相当すると考えられる前方後円墳である。冒頭でも紹介した矢野一貞の著書『筑後国史・筑後将士軍談』は、そのデータ収集力と正確さ、考証的研究の鋭さにおいて当時のものとしては、驚くべき内容をもつが、その中に、乗場古墳に石人の残欠があった、という旨の記述がある。
 この記述が正しいものとして、石人の残欠が後世に岩戸山古墳などの他の古墳等から持ち込まれたものでなく、本来乗場古墳に属したものと仮定するならば、岩戸山古墳以降も「石人石馬文化」が規模は縮小しながらも継続していたと考えることができる(註12)。また、佐田(1991b) は八女市豊福の石人(註13)について、「(それが樹立されていた)古墳を特定できないが、善蔵塚古墳など近くの古墳の可能性が強い。」と述べ、乗場古墳、善蔵塚古墳など岩戸山古墳以降の古墳にも、石人石馬樹立の風習が残存した可能性を指摘している。矢野一貞の乗場古墳に関する記録などは従来から知られていたにもかかわらず、 あまり脚光を浴びることはなかったが、童男山古墳群から石人が発見された現在、あらためて岩戸山古墳と童男山古墳群との間に時間的空白を埋めるものとして注目され、岩戸山古墳以降(註14)、乗場・善蔵塚古墳を経て童男山古墳群と続く「石人石馬文化」の連続性を示す証拠となる。
 一方、岩戸山古墳以降も継続する「石人石馬」自体に、大きな変化が起きていることも事実である。つまり初期においては武器形の石製品が中心であり、更に岩戸山古墳では政治権力的な表現も加わっている。乗場古墳の状況は不明ながら、童男山古墳群に至ると子負い像のように、武器とも、武人とも、政治的な表現ともかけ離れたものとなっている。佐田(1991b)も述べているように、岩戸山古墳以降の石人石馬にこのような形態的な変化が見られることは、その樹立の意味における変化の現れと解釈することができるのかも知れない。
 また石人の形態変化は、樹立される古墳の変化と連動しているようにもみえる。童男山古墳群以前の「石人石馬」は、石人山・岩戸山・乗場古墳、または善蔵塚古墳など、八女地域における最高ランクの前方後円墳だけに樹立されていたにもかかわらず、今回石人が採集された童男山古墳群は大小の円墳から構成される古墳群である。なぜ円墳群に「石人石馬」が存在するようになるのだろうか。この問題は、北部九州の古墳社会の全体構造に関わってくるホリステックな問題であり、ここでは論じるだけの用意はない。今後の課題である。

付記
 小稿を執筆するにあたっては、石人の実測に終始便宜を図ってくださった八女市教育委員会の赤崎敏男氏、事前に御指導いただいた佐田茂先生、実測図の表現方法や本石人の問題点について御教示いただいた小田富士雄教授・武末純一氏、また、常に叱叱激励下さった、江口寿高・古賀正美・堤諭吉(以上筑後考古学研究会)の各氏、福尾正彦氏をはじめ、水野正好先生、酒井龍一先生、奈良大学考古学研究室おおた会の諸氏に御指導・御教示を賜りました。尚、掲載には西健一郎先生の御世話になりました。文末になりましたが、皆様に心から感謝申し上げます。


1 .特に古墳の年代観に関して、赤崎(1991)を参照した。
2 .森(1956)、石山(1987)、佐田(1991a)を参照した。
3 .赤崎(1985)による。以下、童男山古墳群に関するデータは同書及び、赤崎(1991)を参照した。
4 . 1988年10月21日付、朝日新聞報道より。
5.筑後考古学研究会(佐田茂会長)は、八女地域を中心に活動する、考古学好きの人力の集まりである。発見当日は童男山古墳群周辺の見学会の最中であった。
6. 残存状況がよくない原因として、自然・人為要因などによる破壊が考えられるが、以下ではその破壊の痕跡を 3 パターンに区別する。すなわち、石の目と関係なく打ち折れて欠失した場合を「欠損」、石の目と平行に剥がれるように欠失している場合、それを「欠落」、そして柾目の正面において表面がこぼれ落ちるように欠失している場合「剥落」とそれぞれ呼ぶ。ただしどれが自然要因で. どれが人為的なのかは判別できない。
7. 岩戸山歴史資料館に展示。ラベルには、「石人〔頭部、胴部と一括〕国指定重要文化財」とある。「耳」の平面形は童男山古墳群例と同じく力シューナッツ形である。
8. 福岡県八女市岩戸山古墳例は、円体平装石人である。胸部しか残存しないが、脹らみと輪郭をなぞる浅い線刻で両の乳房を表現している。また胸部の正中線に沿って浅い線刻があり服飾表現と思われる。赤色顔料は頚部の胴体付け根付近にネックレス状に、さらに両脇腹にも残る。熊本県熊本市富ノ尾古墳群例は、ヤッコダコ形の偏平石人で若干胸部が膨らむ。後者については、梅原末治・古賀徳義・下林繁夫1925 「熊本県下に於ける石人と其の表飾の古墳」『熊本県史跡名勝天然記念物調査報告』第2冊(小田編1985に再録)を参照した。
9.鶏塚古墳出土埴輪の存在については赤崎敏男氏の御教示による。また、この資料は 「石人石馬」(石製表飾)を形象埴輪祭式との関連でとらえようとする柳沢(1987)の立場を補強するものであろう。
10. 佐田(1991 a)は、岩戸山古墳における「石人石馬」の具体的な配列の復原を試みている。墳丘での配列には偏平石人・石靭・石刀などによる戦闘集団を、別区には筑紫君磐井の居館内での政治的権限の行使の実際が表現されているという。
11. このような見解は、小田(1974)に代表された。
12. 既に柳沢(1987) は、乗場古墳の例を挙げ、6世紀第 3 四半期まで石製表飾の風習が残った可能性を示唆している。しかも形飾埴輪の終罵とさほどの年代的差異がないようであるとも述べている。
13. 八女市鶴見山古墳の南方約200mの小桐に安置されている円体武装石人であるが、出土地は不明とされており、現在は信仰の対象になっている。
14. 詳細な検討はこれからの課題であるが、岩戸山古墳の「石人石馬」には、時期的に多少新しくなるものが含まれている可能性がある。その理由として、先にも触れた円体石人正座像は勿論のこと「石人石馬」のうちに、大形で堅緻な石材を使用した製品と、小形でやや軟質の石材を使用した製品の2種類がみられることが挙げられる。これら大形製品と小形製品との間には明らかな差異がみられ、一瞥して時期差が感じられる。恐らく大形製品は.築造当初のものであり、小形製品はそれ以降に樹立されたものではないだろうか。一方、同じく岩戸山古墳からの出土遺物のうち須恵器について、大形器台・杯などは.岩戸山古墳の実年代とされる頃よりも若千新しくなるものが含まれているようであり、「築造以降にも、この古墳に対する儀式が行われた」(佐田1990)と考えることもできる。そうなると、小形製品などは築造以降の先祖崇拝的な儀式において、大形器台などとともに供献されたものとする解釈ができるわけで、乗場古墳や善蔵塚古墳だけでなく、磐井の乱以降の岩戸山古墳自体でも石人石馬文化が保持・継続されていたのであろう。この点については. 小田教授の御指摘を参考にした。

参考文献
赤崎敏男 1985 『童男山11 ・12号墳』八女市文化財調査報告書第13集、八女市教育委員会
赤崎敏男 1991 「筑紫君磐井の里を訪ねて・八女古墳群をめぐる」『古代を考える・磐井の乱』、吉川弘文館、242-262頁
石山 勲 1987「岩戸山古墳小考」『東アジアの考古と歴史』下、 岡崎敬先生退官記念論集、224 -231頁
小田富士雄 1974 「石人石馬の系譜」『古代史発掘』7、埴輪と石の造形、講談社、124-133頁
小田富士雄編 1985 『石人石馬』、学生社
小森哲也 1984 「京泉シトミ原古墳群」『真岡市史』第1巻、考古資料編、286-334頁
佐田 茂 1990「磐井の乱をめぐって」『争点日本の歴史』2 、新人物往来社、154-167頁
佐田 茂 1991 a「岩戸山古墳における石製品の樹立」『古文化論叢』児嶋隆人先生喜寿記念論集、448-464頁
佐田 茂 1991b「石人・石馬と装飾古墳:(1)筑紫地域」『古代を考える・磐井の乱』、吉川弘文館、154-177頁
佐藤行哉・後藤守一1931「鶏塚古墳発見の埴輪」『考古学雑誌』21-9、21-44頁
森貞次郎1956 「筑後国風土記逸文にみえる筑紫君磐井の墳墓について」『考古学雑誌』41-3、 19-34頁
柳沢一男1987 「石製表飾考」『東アジアの考古と歴史』下、岡崎敬先生退官記念論集、170-222頁

『九州考古学』第67号1992年12月号、九州考古学会より〔誤字修正〕。           
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