ガラス瓶からくるめの近代化を探る

小 澤 太 郎

作品タイトル

写真1 櫛原侍屋敷遺跡(第4次)のゴミ穴(SK1)から出土した大量のガラス瓶(久留米市埋蔵文化財センター提供)

1.はじめに
 市街地を発掘していると、さまざまな形でしかも色とりどりのガラス瓶たちに出会うことがある。形が歪んでいたり、気泡が入っていたり、器壁も薄かったり厚かったりと愛嬌もたっぷりである。しかし、たかがガラス瓶と侮るなかれ。この小さな体にたくさんの歴史的情報を秘めているのだ。

2.近代のガラス瓶
 もともとガラスは弥生時代に大陸より我が国に伝来し、飛鳥時代には勾玉などの装飾品や壷などを生産していた。しかしその後ガラス文化は根付かず、江戸時代にオランダや中国などから長崎へ再び伝わる。これらは「ギヤマン」(オランダ語)、「ビードロ」(ポルトガル語)などと呼ばれた。
 本格的にガラス瓶が生産されたのは、明治に入ってからである。明治2年(1869)、同3年には東京と大阪で相次いで製造が開始された。その後、明治9年(1876)には工部省品川硝子製作所が設立され明治国家のテコ入れの下、本格的な工業生産の段階へ入る。そして明治21年(1888)には需要増加のため、同製作所でビール瓶や薬瓶を生産開始した。これ以降、大手メーカーがガラス瓶製造へ参入し、大量に生産されるようになった。
 さて、明治・大正期(戦前までを含む)のガラス瓶にはいくつかの特徴があり、見分けることもさほど難しくはない。まず、冒頭で触れたように、形の歪みはもとより、ガラスに気泡が入り、厚さも不均一。これらは、いわば不良品であり戦後は流通しない。次に、型成形の場合、型の合わせ目の痕跡が口縁まで延びない。因みに、大正5年(1916)に採用された自動製瓶機による製品では、口縁端部にまで痕跡が残るようになるためこれと区別することができる。また、大正期までの色調は、無色透明・淡緑色・コバルト色が中心であることなどがあげられる。
 こうして発掘現場から明治・大正のガラス瓶を選別することができるが、次に注目したいのが瓶の表面に見られるエンボス加工(陽刻)の文字や絵である。戦後は紙ラベルに取って代わることになるけれども、それ以前は商品名・製造会社名などを直接瓶に記しているのだ。このエンボス加工から得られる情報は極めて大きい。近世以前の遺物では味わえない追跡作業がここから始まる。

写真2 京隈侍屋敷遺跡(第7次)から出土したガラス瓶。大學目薬(左)と健脳丸(中)、右端は丸善のインク瓶。明治41年(1908)に公文書でのインク使用が認められ需要が増加した(久留米市埋蔵文化財センター提供)。

3.医薬品の瓶
 本市出土のガラス瓶を例にあげてみよう。筆者が担当した京隈侍屋敷遺跡第7次調査地点で出土した小瓶のひとつには、「健脳丸」「大阪・丹平商会製」の文字があった。丹平商会(現丹平製薬)は、明治27年(1894)創業の医薬品製造会社で、2年後、当時としては画期的な脳神経薬「健脳丸」を発売、大ヒットとなった。現在は厚生省の指導で成分を変え、「健のう丸」として市販されている。必要ないため使ったことはないが、便秘には非常に効果を発揮するという。
 もうひとつの瓶には「大學目薬」「参天堂藥房」とある。参天堂藥房は、明治23年(1890)、大阪で創業した製薬会社で、明治32年(1899)大學目薬を発売。これまた大ヒット商品となった。明治40年~大正2年(1907~1912)の期間のみこの商号を使用、現在は参天製薬と名乗っている。こちらももちろん、100年に渡って市販される大ロングセラー商品である。使い心地には特に違和感はない。

写真3 左は日本麦酒鉱泉株式会社のビール瓶(サイダー瓶?)。肩部に「BNK」のエンボスが見られる。中は「GENUINE INDIA CURRIE POWDER」とあるカレー粉の瓶。輸入品なのか、輸入品にスパイスを添加したものか不明。右は山城屋の「イカリソース」瓶である(久留米市埋蔵文化財センター提供)。

4.飲料水・食品瓶
 上記の例は医薬品の瓶であったが、他にも液体や粉末など様々な容器として用いられている。城下町・侍屋敷遺跡の出土例から見てみよう。例えば、飲料水・食品瓶である。櫛原侍屋敷遺跡第3次調査出土の瓶には、「日本麦酒鉱泉株式会社」と陽刻されている。この会社は大正10年~昭和8年(1921~1933)にかけてビールとサイダーを製造していた。因みにサイダーの商標名は「三ツ矢サイダー」で現在はアサヒビールが製造販売している。
 同じく第4次調査では「GENUINE INDIA CURRIE POWDER(純粋インドカレー粉)」と読める瓶が出土した。カレーは幕末にその存在が知られていたが、一般に普及するのは明治後期からである。日露戦争で海軍が毎週金曜日をカレーの日とし、戦後復員した兵士が家庭の食卓でも作り始めたのだ。当初はイギリスC&B社(現ネッスル傘下)からの輸入品であったが、昭和5年(1930)日賀志屋(現ヱスビー食品)が一般家庭用の国産品を発売している。
 次に、城下町遺跡第16次調査出土の瓶は、胴部にエンボスされた大きな錨マークが印象的である。「ANCHOR BRAND(錨印)」「SAUCE(ソース)」などとあり山城屋(現イカリソース)のソース瓶であることがわかる。これら3つの瓶は、大正末~昭和初期のものと見て間違いないだろう。

写真4 大正時代の化粧品3題。左から、平尾賛平商店(後のレート化粧品)の「レートフード」、天野源七商店(後のヘチマコロン)の「ヘチマコロン」、堀越嘉太郎商店の「ホーカー液」である。いずれも美白を謳い、女性のみならず男性や子供にも売り込もうとした(久留米市埋蔵文化財センター提供)。

5.化粧品瓶
 最後に大正時代の化粧品から3例。櫛原侍屋敷遺跡第4次調査で出土した瓶の側面には、「レートフード」「LAITFOOD」と陽刻されていた。当初、レートフードとはいったいどんな食べ物かと想像をめぐらしていたが、平尾賛平商店(後のレート化粧品)の美白科瓶と判明した。
 もう一方には「堀越」「ホーカー液」というエンボス加工が見られた。これは、堀越嘉太郎商店製の高級美白液の瓶である。想像するにこの商品名は「りこしたろう」という人名の頭文字からとったものであろうか。
 3点目は城下町遺跡第17次調査で出土した「ヘチマコロン」の瓶である。この商品は現在もヘチマコロン社から発売されているためご存知の方も多いだろう。この会社は大正4年(1914)創業の化粧水製造会社で、竹久夢二の美人画や同人作詞のテーマソング、ハリウッド女優を使った宣伝広告などで知られる。
 以上の出土資料は大正8年~昭和8年(1919~1933)に製造されたもののようである。宣伝広告と言えば、先のホーカー液なども凄まじい。大正に入ると化粧水市場は大変な競争の時代に突入したようで、堀越商店は、「ホーカーデー」を設定し行楽シーズンの臨時列車などで無料配布していたという。タイアップソングとして「カチューシャの歌」を採用し、大々的な宣伝広告を展開した。ホーカー海水浴場へご招待などというおまけ企画まであった。

6.おわりに
 以上、いくつかの例を見てきたが、本市では明治の後半以降になるとガラス瓶の出土量が増加していることが指摘できる。特に明治末から大正に入ると種類も増え、一般への浸透振りが窺われる。ガラス瓶は、液体を漏らさず、酸やアルカリなどの腐食にも耐え、溶かして様々な形や色をつけることもでき、最後は再び溶かしてリサイクルできるなどの、素材革命とでも呼ぶべき優れた特徴を持っている。無菌状態で密封すれば中身の腐敗を防ぐことができ、長期保存・長距離移動が可能となる。これは商品の生産や流通の観点から非常に有効であったが、一方では消費者側の清潔志向ともマッチした。ガラス瓶は、江戸時代以来の人々のライフスタイルを近代化へ導いたともいえる。
 また、この流通を支えたのは鉄道である。本市では明治23年(1890)に九州鉄道(後の国鉄)の久留米駅(現JR久留米駅)が開業した。これにより、それまでの大川市若津港を中継地とする筑後川を利用した水運から鉄道へと物資の輸送手段が移行していく。ガラス瓶はこうした輸送手段の変化とともに、大量に久留米へと流入してきたのである。
 さて、ガラス瓶は商品を包む容器であるがために、目的の中身を使えば即廃棄という運命が待っている。商品名やメーカー名などから製造・流通期間が特定できるものもあり、遺構の年代決定にも重要な役割を果たすと考えている。また、その中身が特定できることによって、文字史料などには表れない、当時の人々の暮らし振りがより鮮明に浮かび上がるのではないだろうか。遺跡から日々出土するガラス瓶から、久留米の近代が語られる日もそう遠くはあるまい。

*参考文献
加藤孝次 1976『明治大正のガラス』光芸出版
黒川高明 2005『ガラスの技術史』アグネ技術センター
桜井準也 2004『モノが語る日本の近現代生活‐近現代考古学のすすめ‐』慶応義塾大学出版会
桜井準也 2006『ガラス瓶の考古学』六一書房
谷一 尚 1999『ガラスの考古学』同成社
山本孝造 1990『びんの話』日本能率協会

*『久留米市文化財保護課年報』Vol.4、2008年3月、久留米市教育委員会より〔章題挿入、誤字訂正、参考文献付加〕。
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