広川・八女地域の古瓦

小 澤 太 郎

教育方針イメージ

 

1.重要施設のシンボルだった「瓦」

 多種多様な建築技法が生み出された現代、一般住宅の屋根にもスレート瓦、ガルバリウム鋼板など、かつて主流であった和瓦に代わり、軽量な屋根材が自由に選択できるようになりました。しかし、新しい屋根材として瓦が伝来した古代においては、瓦の生産や供給は、一部の支配者層や国が行う公的な事業で、とても庶民の住宅に使用されるような建材ではありませんでした。当時、「瓦葺き」といえば、寺院のことを指しました。すなわち、瓦葺きの屋根は、寺院や役所など公的な建物を象徴する存在であり、都や地方の景観において、重要施設であることを人々に認識させる役割を担っていました。

2.瓦窯の出現

 筑紫君の本拠地であった広川・八女地域では、古墳時代(6世紀前半)以来、その主導で埴輪や須恵器の生産が行われていました(八女古窯跡群)。飛鳥から奈良時代(7世紀末~8世紀)になると、上妻郡の牛焼谷窯(八女市大字本)で瓦の生産が始まります。この瓦のうち、丸瓦の内側には、竹状模骨痕と呼ばれる古い技術的特徴を示す痕跡が残っています。

 片岡宏二さんの研究によると、広川下流右岸の大善寺遺跡(久留米市大善寺町)から発見された丸瓦が全く同じ特徴を持つといいます。大善寺遺跡は大善寺玉垂宮の神宮寺である御船山大善寺(旧名高法寺)の跡地にあたります。また、近年の発掘調査でも、上妻郡衙推定地である久泉の正恵・大坪遺跡や、大善寺遺跡対岸に位置する古賀遺跡(久留米市大善寺町)からも同様の瓦が出土しています。つまり、牛焼谷で生産された瓦が、三潴郡の大善寺へ、郡を越えて供給されたことを示しています。その運搬には、恐らく広川の水運が利用されたと考えます。

 大善寺は、古墳時代に当地方を治めた水沼君の子孫が建立した私寺と思われます。古墳時代以来、同じ広川水系を上流と下流で共有する筑紫君と水沼君は良好な関係を保ってきました。そうしたことから、寺院の造営に当たっては、筑紫君の協力があったことは想像に難くありません。

3.筑後国営の生産体制

 7世紀末に成立した筑後国では、奈良時代後半(8世紀後半)以降、大規模な建築工事が相次ぎ、瓦の需要が高まります。そのきっかけになったのが、聖武天皇の発願で全国に建立されることになった国分寺・国分尼寺です。一棟の建物の屋根を葺くには、数千枚から数万枚に及ぶ大量の瓦が必要となります。瓦一枚の重量は、2~3キログラムにのぼることから、建築現場に近い場所で製造する方が効率的です。筑後国分寺では、国分尼寺との間の谷地に瓦窯(馬場田瓦窯跡)を設けました。そこで生産されたのは、西海道を管轄する上級官庁の大宰府の影響を受けた、鴻臚館系デザインの瓦当文様の軒先瓦です。

 平安時代初頭の9世紀前半になると、筑後国分寺では大規模な改築を行い、筑後国府の政庁も瓦葺きの建物に改築されました。また、高良山の高隆寺(久留米市御井町)をはじめとする耳納山地の山麓や、堂ヶ平廃寺(広川町大字水原)などのように奥まった山中にも、瓦葺きの山岳寺院が建立または改築されました。この時期、新たな公共事業の発生によって、更に大量の瓦が必要になったのです。

4.生産拠点の増設

 この時、瓦の生産に当たったのが、西行山瓦窯跡(久留米市高良内町)です。この時大宰府から、単弁十三弁軒瓦、扁行唐草文軒平瓦の瓦笵を貸与され、大宰府政庁と同じ模様の軒瓦を生産しています。筑後国の瓦工房では、この型を使い、国府や国分寺をはじめ、堂ヶ平廃寺などの筑後国営の山岳寺院へ供給したと考えられます。

 平安時代中頃の 10世紀後半になると、老朽化した諸施設の屋根が補修されたようです。西行山瓦窯跡や川原谷窯跡(広川町大字長延)からは、「延喜十九年」の紀年銘を有するものや、「囲弓」とも「弓曲」とも読めそうな文字がある瓦が発見されています。これらは、筑後国分寺跡をはじめ、筑後国府跡、高良山だけでなく、国境を越えて筑前国の鴻臚館にまで広く供給されたことがわかっています。

 西行山と川原谷瓦窯の瓦に残る文字を観察すると、瓦を叩いて整形する際に使用する、木製の「叩き板」に彫り込んであった文字がプリントされていることがわかります。しかもこれは、全く同一の叩き板を用いていることがわかりました。また、叩き板の損耗具合もほとんど違いがありません。さらには、瓦に使用した粘土の状態や焼き具合も類似していることから、同じ技術者集団が直線距離で約5㎞離れた2つの窯跡間を、移動しながら瓦を生産していた可能性が考えられます。ただ、その理由については、今後の検討課題といえます。

5.デザインと生産の多元化、そして終焉

 平安時代中頃の 10世紀後半になると、軒先瓦のデザインは、大宰府の影響が弱まったこともあり、各地でこれまで使われた文様を簡略化するなどの独自色が強まります。川原谷瓦窯跡でも、単弁十二弁軒丸瓦と、それを参考に模様を簡略にヘラで線描きした単弁十弁軒丸瓦、硬直化した蔓草模様の扁行唐草文軒平瓦と扁平な鬼面文鬼瓦などが採集されています。しかし、ここで生産された瓦の供給先は、未だに該当する遺跡が見つかっていません。恐らくは、近隣の寺院に供給されたのでしょう。

 その後、律令国家の衰退とともに、公的な財政的な支援を受けられなくなった寺院は、独自の経営で中世寺院へ脱皮するものもありました。しかし、筑後国分寺や国分尼寺をはじめ、多くの古代寺院が衰亡の道を歩んだと考えられます。堂ヶ平廃寺も、採集された土器からみて、平安時代後半以降、終焉を迎えたと考えられます。同時に瓦の生産も急速に縮小の一途を辿ったことは想像に難くありません。

 ただ、一点、川原谷瓦窯跡から採集された瓦に、中世末から近世初頭の棟込瓦があります。川原谷では、平安時代から中世に至る間、瓦の生産は細々と続けられていたのでしょうか。そして、この瓦はここで生産され、近隣の寺院や城郭に供給されたものなのでしょうか。「川原谷」という地名は、瓦生産が盛んであったことから、もともとは「瓦谷」と呼ばれていたのかもしれません。しかしその実態は、未だ謎に包まれているのです。

*第 19回広川町古墳公園資料館企画展「南筑後の古瓦」パンフレットより〔一部修正〕。2016年 11月、広川町教育委員会

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