久重はどのような人物だったか-伝えられるその言葉から-

小 澤 太 郎

田中久重生家は、大正13年(1924)に開業した九州鉄道路線(現西鉄天神大牟田線)建設によって取り壊され、現在に残る敷地の一角に生家跡の碑が建つ(福岡県久留米市南薫町)

1.発明工夫に没頭する日々
 「私は発明工夫で、天下に名を揚げたい」。弟に家督を譲り、全ての相続を放棄した久重は、発明工夫に邁進する人生を選んだ。彼の頭の中は、いつも新しいものづくりのことで満ちている。「私は発明工夫の事以外、考えたことも無い。夜はアイデアを考え、昼は実際の作業をする。食事や(好きな)晩酌の時も、常に考えをめぐらせているだけでなく、食事の際に最も美味だと感じるのは発明工夫のことで、これに勝る好物は無い」。これは、常々弟子や周囲に語っていたとされる田中久重の言葉を現代語に意訳したものである。
 没頭する姿を同居の家族や親族は次のように証言する。「部屋(通町十丁目の離れ)は2階でしたが、2年ばかりほとんど外出しなかったことがあります。また、実際3時間以上眠ったことがありません。それでも平気なようでした。6・7日徹夜した次の日、今夜こそはと梯子を登って部屋を覗くと、変わった様子もなく打ち込んでいます」。毎度の食事についても、「没頭しているときは、何度食事の準備ができたことを告げても返事がない。仕方なく食膳や握り飯を階上に運んでも、結局手をつけないことがしばしば」という有様であった。
 発明工夫一筋の生活スタイルは、大人になっても変わらなかった。「(久重はなかなかの酒好きで、晩酌で気持ちよく酔ったあと、そのまま眠り込みます。時計が12時を報じ(万年時計か)、家族が就寝したとたん、大あくびとともに起床。家族は眠り、久重は机に向かう。明かりは煌々と明け方まで消えない。夜明け頃、家族を起こし、自分は仕事を始めます。近所の人は皆、久重さんは眠らない人だといいます」。

久留米リサーチパーク(福岡県久留米市百年公園)内にある田中久重の胸像。

2.努力と根気の人
 このような並外れたものづくりへの情熱と探究心が、彼自身の信念に裏づけられていたことは、次の言葉にもよく現れていると思う。「人が一度思い描いたアイデアは、成就しないことはない。例えば糸のもつれを解くようなもので、注意深く物事に打ち込めば、どんなもつれも解けぬことはない。それが解けないのは、打ち込み方が足りないのである」。生まれながらにして「ものづくりの才能」に恵まれていたと思われがちな久重だが、実は強靭な体力に裏打ちされた、大変な努力家でもあったのである。
 また、別の証言によると、日々ものづくりに没頭する久重は、普段から無駄なことをしゃべらない無口な人物だったという。しかも思い立ったことは曲げず、決して途中で投げ出さない。我慢強く、一心不乱に物事に取り組む。一見頑固な性格にもみえるが、間違ったことに気づけば、ひるがえってその説を受け入れるという柔軟さも持ち合わせていたといわれる。

3.無垢な心の持ち主
己に厳しい反面、温和な人柄であり、周囲の人たちへは大変優しく接した。気分転換に一旦戸外へ出ると、近所の女性たちの仲間に入っては、楽しげに談笑したという。また、「儀右衛門さんが来た!」と近所の子どもたちがたくさん群がってくる。一緒になって戯れる姿は、一見ほとんど「あほう」のようだったという。真夏には製作した製氷機を使って氷を製造、ニコニコ子どもたちに近づいてきて、「雪を馳走する」と配ったというエピソードもある。無垢な子どもらとの交流は、彼が純粋な心の持ち主であったことを伺うに十分であろう。

田中久重生家の古写真(武藤1931より)

4.からくり師から近代技術者へ
 「往け、我々の技術を試すのだ」。これは晩年、工部省に招かれた門人・田中精助にかけた激励の言葉である。その直後に上京した久重の元を、浅草の興行師が訪ねてきたことがあった。興行師は、からくり人形の制作を依頼、制作費は高額になってもよい、できるだけ巧妙なものをと注文した。しかし、久重はこの申し出を即座に断ったのである。「私は今や、国のために有用な機械を製造して、誠心誠意奉公し、世の中全体の利益になるよう広めること以外に、一つの利欲もない。からくり人形ごときものは、若かりし頃の子どもの遊びに等しい」と。からくり師から近代的な技術者へ、久重は大きな飛躍を遂げたのである。

引用
武藤直治 1931『田中近江大掾』田中近江翁顕彰会

*『久留米発、ニッポンのものづくり・からくり儀右衛門展』22013年11月、同展実行委員会〔一部加筆修正、写真追加〕
・著作権は著者が所有します。引用の際は、出典を明示してください。
・個人の研究目的における利用以外の一切の複写を禁止します。