海水皆赤し-百済戦役と「日本」成立-

小 澤 太 郎

百済最後の首都泗沘(扶余)を防衛する扶蘇山城の発掘現場にて。日本の朝鮮式山城は、百済の亡命者による技術指導で建設された。 

 時は西暦690年、奇跡的に一生を得、再び故国の土を踏むことができた一人の男がいました。彼の名は、大伴部博麻(おおとものべのはかま)。筑紫国上陽咩(かみつやめ)郡(注1)出身の兵士です。

 話は、その30年程前にさかのぼります。当時の東アジアの国際情勢は、唐・新羅両国に対して百済・倭両国とが一触即発の緊張状態にありました。そして661年、滅亡した百済を復興するために百済救済戦争の火ぶたが切られました。この時博麻は、ヤマトの大王から動員された筑紫君薩夜麻(さちやま)(注2)に従って出征し朝鮮半島へ渡海していたのです。

 ついに663年8月、白村江の闘いが勃発しました。この戦いは百済救済戦争の天王山ともいうべきものでしたが、わずか2日間で勝敗が決しました。した。数万の倭国水軍は、統率のとれた唐水軍の前に大敗を喫して壊滅状態となり、400艘の倭船が炎上、倭兵の流す血で海水が赤く染まったといいます。

 奮闘むなしく博麻主従は百済戦役中に唐軍の捕虜となります。ここから、長い抑留生活が始まります。しかし、その苦渋に充ちた日々を伝える史料はありません。

 抑留生活も十年程過ぎたころ、唐が倭国を征討する計略を聞き及び、故国に知らせねばと考えます。しかし、衣服や食料がなく到底帰国できそうにもありません。意を決し博麻は、その身を奴隷に売り費用を調達し、薩夜麻らを無事帰国させる事ができたのです。

 博麻は更に20年の唐滞留を余儀なくされました。そして留学僧らと共にようやく八女の地へ帰ってきたのでした。

 驚くべきことに、戦後50年近くを経た西暦707年、筑後国山門郡から出征していた許勢部形見らが帰還します。彼も百済戦役で捕虜になり、唐の都長安で奴隷とされていたのを遣唐使粟田真人一行に発見されたのです。

 奇跡的に生還することができた薩夜麻・博麻・形見。高齢となっていたであろう彼らの目に、懐かしい故郷の風景はどのように映ったのでしょうか。白村江の戦いで大敗を喫した倭国は、対外的な危機感から、水域や朝鮮式山城等(注3)の防衛施設の建設や狼煙台の設置、計画道路網等の整備を急ピッチで進めています。

 また、東アジア国際社会における後進性を痛感し、大陸・朝鮮半島から律令制度仏教思想を本格的に導入します。やがて郡役所や地方寺院の建設が進み、筑紫国が筑前・筑後国に分割されると、地方支配の拠点として国府が建設されます。短期間に次々と大規模公共工事が実施されていくわけです。

 こうして倭国は、わずか30年足らずという驚異的な速度で古代国家への変貌を遂げ、7世紀末には、「日本」と名乗ることになります。

 ようやく帰ることのできた故郷でしたが、その風景だけでなく社会の仕組みや思想、国の名称までも大きく様変わりしていたのです。

 百済戦役では、郷土出身者を含む多数の死傷者を出しただけでなく、異国の地で無念のうちに骨を埋めることになった無数の捕虜たちがいたに違いありません。

 また、男手が不足する中、戦後の相次ぐ公共工事に労働力として駆り出された人々の負担も相当なものであったと思われます。「日本」という国の始まりには、先人たちの多大な犠牲があったことを忘れてはならないのです。

注1 後に筑後国上妻(こうづま)郡となる。郡の中心は太田郷(現在広川町古賀付近)であった。
注2 筑紫君磐井の子孫、上妻都の国造であったと考えられる。
注3 代表的なものに、現在の太宰府市に残る水城、大野城、佐賀県基山町の基肆城などがある。

*「広報ひろかわ」2001年1月号、広川町役場より〔写真差し替え〕。
・著作権は著者が所有します。引用の際は、出典を明示してください。
・個人の研究目的における利用以外の一切の複写を禁止します。