筑後国府跡出土軒瓦の様相

小 澤 太 郎

作品タイトル

筑後国府跡第2期国庁跡にある阿弥陀堂脇の祠。祠内に大石がみえる。昭和30年代に現地を訪れた大場磐雄は、この石を国庁建物の礎石ではないかと言ったという。

Ⅰ.はじめに
 筑後国府跡出土の軒瓦については、最初の報告書(久留米市教委1976)で纏められて以来、殆ど検討されることがなかった。しかし、その後の継続的な調査や近年相次いだⅡ期国庁域での調査により、資料の増加と共に新型式の軒瓦も加わった。本稿では先学の成果に加え、現段階での資料を踏まえて再整理を試みる。さらに同笵瓦についても比較検討し、その分布・セット関係・年代についても触れる。

第1図 筑後国府跡における軒瓦の分布

Ⅱ.遺跡の立地環境と調査状況
 福岡県南部の中核都市久留米市は、筑後地方における中心的な都市として機能しており、九州の主要幹線が交差する交通の要衝でもある。その市街地の東側、標高10~17m程の低台地上に筑後国府域が広がる。現在の合川・東合川・朝妻・御井町に跨る、東西約1.5㎞、南北約700mの範囲である。
 発掘調査は1961(昭和36)年、九州大学考古学教室が阿弥陀地区(Ⅱ期国庁)にて実施し、築地塀跡や柱穴列、大量の古瓦類を確認している。その後、久留米市教育委員会が受け継ぎ、調査次数も2000年8月末現在169次を数える。前身官衙跡地において7世紀末に成立した国衙が、12世紀後半までの約500年間に渡り存続し、その間に国庁が3回移転する(松村1994)ことなど貴重な成果をあげている。

第2図 筑後国府跡出土軒瓦の諸型式

Ⅲ.軒瓦の型式分類
a.軒丸瓦
 Ⅱ期国庁域を中心として、6型式23点の軒丸瓦が出土・採集されている(表)。
 Ⅰ類  単弁十三弁蓮華文軒丸瓦である。中房径が6.1㎝、直径16.1㎝を測る。中房は大きく、弁区より一段高まる。蓮子は竹管文状で、円錐形の微妙な盛り上がりがあり、1+6に配列される。蓮弁は、狭長で十三弁と弁数も多く、各弁は半肉彫りでやや盛り上がる。蓮弁には、子葉が二枚配置される。珠文帯は、幅が狭いが、弁区より一段高まる。連珠文は、復元で33個と密に配置する。
 顎面は、横方向のヘラ削りで整形する。瓦当上面及び丸瓦との接合部についても、支持土を貼り付けた後、縦方向にダイナミックなヘラ削りで仕上げる。丸瓦部の凸面には、細かい斜格子目の叩きが残る。胎土は、1~5mm程度の礫を僅かに含むものの、概ね精良と言える。色調は灰色である。焼成は須恵質で堅く焼き締まる。但し、灰白色の色調を呈する資料が1点存在する。
 Ⅱ類  陰刻され簡略化された瓦当文様を有する単弁十三弁蓮華文軒丸瓦である。瓦当面がややひしゃげた造りのため、直径13.5~15.2㎝程となる。瓦当は厚みがない。中房径は、3.8㎝を測る。瓦当文様は全体的に扁平な造りで、凹凸が乏しい。中房の蓮子は、刺突文状に施して1+4に配置する。中房の周囲には凹んだ圏線をめぐらす。蓮弁は、卵形から台形状まで形状が揃わない。外区と内区の境は、幅広く浅い周溝で区別されている。外区には、手彫りによる沈線が1条めぐる。
 顎面は、荒くナデて仕上げている。瓦当上面は横方向の削り、丸瓦部との接合部分は、支持土貼り付け後、縦方向にヘラ削りする。丸瓦部凸面は、縄目スリ消し仕上げである。胎土は精良で、焼成も須恵質で堅く、色調は灰色を呈する。
 Ⅲ類  単弁七弁蓮華文軒丸瓦(註1)で、瓦当部の約1/4が残存する。復元径は約16㎝で、瓦当面は極めて平坦な造りである。中房の蓮子は、1+7の配置になるものと思われる。蓮弁は卵形で、中房に接して三角形の子葉が見られる。間弁は、蓮弁の間に独立して配される。外区と内区は、圏線で区別する。外区内縁は、幅が狭く連珠文が配される。その外縁は、やや内傾する平縁となっている。
 瓦当裏面と、顎面は丁寧なナデで仕上げる。胎土は、1~3mm大の礫が僅かに混入するものの、概ね精良といえる。色調は灰色、焼成は須恵質で堅い。
 Ⅳ類  老司系複弁八弁蓮華文軒丸瓦である。中房及び外区外縁を欠く小片資料である。まず、中房には圏線がめぐり、内区の蓮弁は弁長が短い複弁八弁と推定される。弁間は、蓮弁の輪郭と連続している。外区内縁には、推定36個の連珠文を配する。外縁は、三角縁で外行凸鋸歯文を有する。
 胎土は、1~2mm大の礫が僅かに混じる程度で概ね精良と言える。色調は、表面は暗灰色だが内面は灰白色で、焼成もやや軟質の仕上がりである。丸瓦は、瓦当部にくい込ませる形で接合する。
 Ⅴ類  鴻臚館系の単弁九弁蓮華文軒丸瓦で、瓦当部の1/4強が残存している。瓦当径は約18㎝と推定される。中房は外区外縁と同様に一段高くなっている。蓮子は、1+4+12の配置をとるが、極めて平坦である。中房には圏線がめぐり、蓮弁帯と区別している。蓮弁は輪郭を表現するのみで、内部に舌状の子葉を有する。蓮弁間には細長い楔状の間弁が配置される。外区と内区は圏線で区別する。外区内縁には、推定27個の連珠文が配置され、外区外縁はやや丸みをもつ直立縁となる。特徴的なの は、瓦当面中央やや下方に笵傷が認められる点である。笵傷は、瓦笵の木目に沿って横一文字についたものである。
 胎土は精良で、赤色粒子を多量に含む。色調は浅黄色でやや軟質の焼成である。ローリングを受け、調整は不明である。丸瓦は、瓦当部にくい込ませて接合し支持土で固定する。
 Ⅵ類  百済系とされる単弁七弁蓮華文軒丸瓦である。瓦当部の1/4強が残存する資料である。全体的に文様に明瞭さがなく、瓦笵の磨耗が伺える。復元径は18㎝程となる。外区よりも中房が低くなる造りで、中房上の蓮子は磨耗のために配置が明確でない。中房径は5.0㎝を測る。その周囲に配列される蓮弁は、鎬がなく盛り上がりに乏しい。蓮弁の先端部分は丸みを帯びており、反転の名残がようやく認められる。弁間には、楔形の間弁が存在する。外区には、二重の円圏が巡り、その外縁は平縁である。顎面は横方向のヘラ削りで仕上げる。胎土は、精良で赤色粒子を含む。色調はにぶい黄橙を呈し、焼成は不良でやや軟質の仕上がりとなっている。

表 筑後国府跡出土軒瓦一覧

 

b.軒平瓦
 Ⅱ期国庁域から1型式5点が確認されている。完形資料がなく、複数の破片から特徴をみた。
 Ⅰ類  扁行唐草文軒平瓦で瓦当部の1/3程が残存する資料である。幅の狭い内区と、外区の珠文帯が内区よりも一段と高くなる点が特徴的である。内区の文様帯には、2個単位で断続する左偏向唐草文が流れる。外区には上下共に、隆起が乏しく不明瞭な珠文が並ぶ。珠文帯よりも更に突出する外区外縁には、上下帯に外行する凸鋸歯文が認められるものの、こちらも極めて不明瞭である。
 顎部の形態は段顎で、包み込み技法で平瓦と接合する。瓦当上面や段顎部はナデによって調整するが、瓦当部側面は、ヘラ削りで仕上げる。平瓦部凸面には、細かい斜格子文叩きが見られる。胎土は1mm大の礫を僅かに含むものの、概ね精良である。色調は、瓦当面は灰色だが、その他の部分では赤褐色を呈する。焼成は良好で、須恵質で堅い。但し、焼成が軟質で色調が灰白色の小破片も2点認められる。

a.筑後国分寺跡第15次調査出土 b.筑後国府跡第145次調査出土 c.筑後国分寺跡第18次調査出土
第3図 瓦笵の磨耗と笵傷が進行する軒丸瓦Ⅴ類

 

Ⅳ.同笵瓦の分布とその製作技法
 上記の軒瓦のうち、軒丸瓦Ⅰ・Ⅴ・Ⅵ類、軒平瓦Ⅰ類については、他遺跡において同笵瓦が出土している。以下では、筑後国府例との差異を観察し、旧国毎に記述する。なお、軒丸瓦Ⅳ類については小片のため比較検討が難しく、現段階では同笵関係を把握していない(註2)ために除外した。
a.軒丸瓦
1)Ⅰ類の同笵瓦
 筑後国  久留米市に所在する筑後国分寺跡(櫻井1994)や広川町所在の堂ヶ平遺跡(小田1960、註3)から採集されている。前者では、表採資料の他に1995年(平成7)の第36次調査(東面築地の調査)で出土した資料1点がある。製作技法や胎土・焼成ともに筑後国府例と共通している。後者の例では、軒平瓦Ⅰ類とのセット関係が確認されている。報文の記述や採集資料(註4)を観察すると、色調は、灰色で焼成は須恵質に近く、胎土は精良、瓦当部との接合部は縦方向のヘラ削りで仕上げるなど、筑後国府例と酷似している。両例ともに、同時期に同一工房にて造瓦された可能性が高い。
 筑前国  まず、大宰府史跡出土例が挙げられる。大宰府政庁西面回廊出土例(福岡県教委1971)では、軒平瓦Ⅰ類とセットを成すことが判明している。瓦当面は、直径17.3㎝、中房径6.2~6.5㎝を測り、筑後国府例よりも若干値が大きい。また、胎土を観察すると多量の砂礫が混入する点で、胎土が精良な筑後国府例とは異なっていることがわかる。これは、整形を容易にすると同時に収縮率を小さくするという効果(大川1972)を意図したものと考えられ、ゆえに同笵品ながらやや大振りな仕上がりとなっているものと思われる。また、整形技法においても、瓦当顎部や丸瓦接合部は、ヘラ削りではなく極めて丁寧なナデで仕上げる。丸瓦部凸面の叩きについては、2種類の斜格子叩きがみられるが、筑後国府例とは異なる印象である。次に、鴻臚館跡でも採集資料(石松1980)が見られる。砂粒が含まれる胎土の特徴は、大宰府政庁出土例に類似するようである。太宰府市宝満山遺跡採集品(小田編1982)には、瓦当文様が極めて不鮮明になったものが含まれる。砂礫を多く含み、整形・接合時のナデが荒くなる。外縁部を彫り直し、連珠文が見られなくなった例もある。また、太宰府市浄妙寺(榎寺)跡からも採集例(九州歴史資料館1981)がある。
2)Ⅴ類の同笵瓦
 筑後国  軒丸瓦Ⅴ類は、筑後国分寺跡で最も多く出土する瓦(櫻井1994)で、出土量から創建瓦(第3図a)の可能性も考えられる。国分寺伽藍から北北西約300mの地点に、国分寺瓦窯(小田1966)があり、そこで焼成されたものである。筑後国府例(第3図b)は、明瞭な笵傷が入り、突出していた蓮子が平板化、瓦当文様もややだれている。また、筑後国府例よりも瓦笵の磨耗と笵傷が進行したことが伺える筑後国分寺跡出土瓦当資料(第3図c)は補修瓦であろう。
3)Ⅵ類の同笵瓦
 筑後国  井上廃寺Ⅲ式として知られる瓦であり、小郡市所在井上廃寺では最も多く出土する。色
調は灰色で瓦質に焼成される特徴がある(小郡市教委1998)。瓦当文様は、ややシャープさが残る。丸瓦部は無段式で、丁寧なナデで瓦当部に接合する。筑後国分寺跡出土例は、井上廃寺Ⅲ式と同笵であることが指摘されている(小田1966、小郡市教委1998)。一方で、筑後国分寺例は、瓦当文様の磨耗が進行し、色調が黄橙色を呈すること、丸瓦部との接合部は縦方向の荒いナデで仕上げるなどの差異が認められる。筑後国府例は筑後国分寺例に極めて近く、瓦笵の磨耗が更に進行する。
b.軒平瓦
1)Ⅰ類の同笵瓦
 筑後国  久留米市所在筑後国分尼寺推定地から出土した資料は、精良な胎土と赤褐色を呈し須恵質に近い焼成である。顎面の横ナデも筑後国府例と同様の手法である。平瓦部凸面には、細かい斜格子が観察できるが、これも筑後国府例と共通する。堂ヶ平遺跡からは軒丸瓦Ⅰ類とのセット関係が確認されている。断面形態や焼成は筑後国府例に類似するようであり、両例ともに同時期に同一工房にて生産された可能性が考えられる。
 筑前国  軒丸瓦Ⅰ類と共に大宰府政庁跡西面回廊から出土している。瓦当文様は、やや明瞭なものとやや崩れたものがある。瓦当部側面及び顎部を丁寧なナデで仕上げている点、共伴する軒丸瓦Ⅰ類と同様である。平瓦部は円筒桶で製作し、包み込み技法で瓦当部と接合する。その凸面の斜格子叩き、色調、砂礫が多量に混じる胎土等の点でも、同地出土の軒丸瓦Ⅰ類と特徴が一致する。宝満山遺跡採集資料は、内区の文様帯や外区上下の小さな珠文、外区外縁上下の凸鋸歯文がかなり明瞭である。 

第4図 「筑後国府Ⅰ式」同笵瓦の分布

Ⅴ.軒瓦のセット関係
 筑後国府域における軒瓦の出土は、Ⅱ期国庁域に集中しており、周辺地域では散発的な分布を示す。軒平瓦に至っては、Ⅱ期国庁域でのみ出土している(第1図)。
 Ⅱ期国庁で出土した軒丸瓦はⅠ・Ⅱ・Ⅴ・Ⅵ類、軒平瓦はⅠ類のみである。出土量を考慮すれば、型式不明分を除いた軒丸瓦14点のうちⅠ類9点(64%)、軒平瓦についてはⅠ類5点(100%)とが圧倒的数値を占めており、両者がセット関係にあるものと考えられる。両者は、丸・平瓦部凸面の細かい斜格子文叩き目や、瓦当部側面のヘラ削り仕上げ、須恵質に近い焼成、精良な胎土等、素材や製作技法・仕上がりについて多くの共通点が見られる。前項で述べたように、同様の組み合わせは、大宰府政庁・宝満山遺跡・堂ヶ平遺跡で確認されており、この組み合わせでⅡ期国庁建物の屋根を葺いたことは間違いない。以上を踏まえた上で、軒丸瓦Ⅰ類と軒平瓦Ⅰ類のセット関係を筑後国府跡Ⅱ期国庁における主要軒瓦と認定し、「筑後国府Ⅰ式」と仮称しておきたい。
 軒丸瓦Ⅱ類は、筑後国府跡独自の軒瓦で、それ以外での出土例がない。瓦当文様は軒丸瓦Ⅰ類をモデルとし、その文様構成を意識しつつも簡略化したもので、形式学的には後出するものと考えられる。瓦当の厚みがⅠ類と比較して薄いなどの点も後出する要素として捉えられるかもしれない。しかしながら、丸瓦部凸面の叩き・調整については、Ⅰ類が細かい斜格子目、Ⅱ類が縄目スリ消しであり、縄目から斜格子への技法の流れからは逆行している。一方で、丸瓦との接合時の調整がヘラ削りである点は共通し、胎土・焼成についても極めて類似する。総体的にみれば、それほどの差が感じられないともいえ、ほぼ同時期に製作したものと考えてよいのではないだろうか。軒丸瓦Ⅰ類は「大宰府軒丸瓦第3段階」に属し、この段階まで一部に縄目文を残す丸瓦も使われる(栗原1998)ことからも、Ⅰ・Ⅱ類の同時併存を考えても差し支えないものと思われる。Ⅰ+Ⅱ類では、Ⅱ期国庁での出土率が86%(12点)と極めて高率になる。出土量から考えても、Ⅰ類の不足分を補った補助的な瓦であったと解釈すべきだろう。
 軒丸瓦Ⅴ・Ⅵ類については組み合わせるべき軒平瓦が見いだせない。両者ともに筑後国分寺跡出土品と同笵であるものの、セット関係にある同笵の軒平瓦が出土していない。
 その他、Ⅰ期国衙から出土した軒丸瓦Ⅲ類、推定国司館跡から出土した軒丸瓦Ⅳ類がある。両者共に単発的な出土であり、現段階では組み合わされるべき軒平瓦が見いだせず、使用箇所も判然としない。

Ⅵ.年代
 まず、筑後国府Ⅰ式の年代を押さえておきたい。筑後国府跡Ⅱ期国庁域では、第145次調査において西脇殿と西面築地が調査されている(久留米市教委1998)。ここでは、当初掘立柱建物であった西脇殿が礎石建物へ変化(註5)しており、築地塀についても改築がなされている。この際に、筑後国府Ⅰ式を軒瓦の主体とする瓦屋根を採用したものと考えられる。改築時の築地基礎積土中や整地土中からは、8世紀後半~9世紀前半にかけての遺物が出土しており、少なくともその下限である9世紀前半には、造瓦・使用されていたと考えられる。また、風祭地区で実施された第25次調査のSD1057において、10世紀前半の土師器と共伴している(久留米市教委1979)ことから、その廃棄年代が推定できる。
 一方、同笵瓦が出土した大宰府政庁西面回廊では、回廊の西雨落溝から大量の焼土とともに、投棄された状態で軒丸・軒平瓦がセットで検出され、火災で焼けた回廊の瓦と推定されている(福岡県教委1971)。Ⅱ期遺構面に認められる焼土層については、天慶4年(941)の藤原純友の乱によるものとの見解があり、出土遺物からもⅢ期の造営が10世紀中頃とされる(横田1983)ことから、それ以前に遡ることは間違いない。軒丸瓦に注目すると、瓦当文様・調整方法・胎土・焼成等が類似するものに、大宰府政庁・学校院跡・筑前国分寺跡等から出土する単弁十四弁軒丸瓦がある。同瓦は、同系統ながら瓦当文様が便化したもので、軒丸瓦Ⅰ類よりも形式的には後出する(石松1980)。大宰府史跡第35次調査SK678出土例では、9世紀後半の年代を示す大量の土器とともに、極めて粗雑になった単弁十四弁軒丸瓦が出土している(九州歴史資料館1975)。更に、福岡県筑穂町大分廃寺検出のSK025は、出土土器の年代から9世紀第1四半期末~同第2四半期に比定されるが、単弁十四弁軒丸瓦は、ここから出土した軒丸瓦と並行して使用された(栗原1998)と考えられている。
 以上の事例から、大宰府政庁においては少なくとも9世紀前半には製作、瓦屋根に使用され、10世紀中頃に廃棄されたものと考えることができよう。すなわち、筑後国府跡・大宰府例ともに年代的に矛盾はなく、ほぼ同時期に製作・使用・廃棄されたものと考えてよいだろう。
 軒丸瓦Ⅱ類は、先述した理由からⅠ類と同様、9世紀前半の年代を想定したい。
 軒丸瓦Ⅲ類については、第50次調査SD2425から10世紀中頃の一括土器とともに出土しており、それ以前のものである。小片ゆえ断定はできないが、瓦当文様からは久留米市ヘボノ木遺跡出土の単弁五弁・六弁軒丸瓦、同市所在高隆寺跡採集の単弁七弁軒丸瓦と同系統と捉えたい。本資料は瓦当文様が平板化し瓦当の厚みもないことから、何れよりも後出するものと思われる。概ね9世紀代としておきたい。
 軒丸瓦Ⅳ類が出土した第77次調査SD3385は、8世紀半ばに人為的に埋め戻されている(久留米市教委1988、松村1994)。瓦当文様の便化した状態を勘案して、8世紀半ば頃の年代を与えておきたい。
 軒丸瓦Ⅴ・Ⅵ類は、いずれも筑後国分寺跡出土例と同笵であり、特に前者については、筑後国分寺の創建瓦の可能性が考えられていることは先述した。筑後国分寺は、『続日本紀』に見える記述から、天平勝宝8年(756)までには、主要堂宇が建立されていたと考えられている(小田1975)。筑後国府例は、文様のダレや笵傷の進行状態から、国分寺例より後出することは確実である。では、製作年代をいつ頃まで下げるべきだろうか。Ⅱ期国庁では9世紀前半に筑後国府Ⅰ式が採用されるものと考えられる。量的に極めて少ない本類は、その補助瓦として製作、使用されたものとするのが妥当であろう。
 だが一方で、二度改築されている掘立柱建物段階の西脇殿は、その最終段階の柱抜き跡から若干の瓦片が出土している。加えて、築地塀改築時の基礎積み土中から、縄目文叩き調整の丸・平瓦がまとまって出土している。これらを考慮すると、礎石建物が採用される以前の8世紀末~9世紀初頭頃に、筑後国府Ⅰ式に先行して、軒丸瓦Ⅴ・Ⅵ類と縄目瓦で構成される瓦屋根が採用されていた可能性も捨てきれない。出土量が少ないことから、それが極めて部分的な採用であったとの解釈も可能かもしれない。しかし、確証に乏しく現段階では断定できない。

Ⅶ.まとめ
 以上述べてきたように、筑後国府跡の軒瓦は基本的に大宰府系と筑後国分寺系で構成される。前者の例としては軒丸瓦Ⅰ・Ⅳ類・軒平瓦Ⅰ類、後者の例としては軒丸瓦Ⅴ・Ⅵ類がそれに該当する。他に2種の軒丸瓦がある。軒丸瓦Ⅱ類については、筑後国府跡独自の軒瓦と言えようが、軒丸瓦Ⅰ類の稚拙な模倣品である。軒丸瓦Ⅲ類は、筑後国内の古代寺院関連遺跡に見られる単弁系の瓦である。
 軒瓦の出土が集中するⅡ期国庁域では、大宰府政庁との同笵品が絶対多数を占め、その不足分を補うかのように筑後国分寺跡の同笵品が補助的に使用されている。瓦葺きの時期は、脇殿の基礎構造が掘立柱から礎石へと変化する9世紀前半頃である。軒瓦の主体を占める同笵瓦の状況から、改築に際しての大宰府との密接な関係(註6)を伺える。
 では、Ⅱ期国庁の屋根景観は具体的にどの様であったのだろうか。Ⅱ期国庁は、10世紀前半頃まで存続する(松村1994)ものの、丸・平瓦の量と比較して軒瓦の種類や出土点数が極めて少ないのも事実である。丸・平瓦については新しく追加されている(註7)のだが、軒瓦は後出する型式のものが現段階では見あたらない。すなわち、軒瓦の追加・補修が必要でないか、もしくは極めて少量で事足りる屋根景観が想定される。出土した丸・平瓦の絶対量の不足(註8)を考慮すれば、西脇殿の瓦屋根は軒瓦を大量に必要とする総瓦葺きではなく、熨斗棟かそれに類した瓦屋根であったと考えられる(小澤2000)。因みに、Ⅱ期国庁における軒瓦の出土量が少ない原因の一つとして、築地塀に軒瓦が使用されていなかった(註9)ことも挙げられよう。なお、軒瓦や丸・平瓦の出土分布から見て、Ⅱ期国庁の廃絶以降はⅢ・Ⅳ期国庁に瓦屋根が採用されることはなかったものと思われる。
 一方、筑後国府Ⅰ式の分布域は筑後・筑前国の2カ国にすぎない。筑後国内の出土例は、調整方法・胎土・焼成等が共通している。一方の大宰府政庁や宝満山遺跡出土例を観察すると、調整方法・胎土・焼成等が筑後国例とは明らかに異なっている。つまり、両者は同笵ではあるが、異なる工人及び工房にて製作された可能性が高いと言えるのではないだろうか。従来言われていたように、筑後国で生産された製品が大宰府にまで供給された(久留米市教委1999)のではなく、工人を伴わず「瓦笵のみが移動した」と考えられるのである。つまり、筑後国府・大宰府などそれぞれの消費地において、同笵を用いて瓦を生産していたものと解釈する方が妥当であろう。だが、その生産瓦窯は現段階では発見されておらず、今後の調査に期待したい(註10)。
 今回、同笵瓦における生産の前後関係、そこから導き出せる瓦笵の供給元の特定・移動経路については、実見資料数の不足もあり論じることができなかった。別稿にて検討したい。(2000.8.31稿了)

資料調査に際し、諸賢・各機関に多大なご指導とご協力を賜った。芳名を記して感謝の意を表したい。
石松好雄、城戸康利、栗原和彦、古賀 壽、小西信二、櫻井康治、佐々木四十臣、神保公久、永見秀徳、横田賢次郎、九州歴史資料館、久留米市埋蔵文化財センター、太宰府ふれあい館(敬称略、五十音順)。
    

1.久留米市教委1984では単弁八弁としている。しかし再復元の結果から、単弁七弁になるものと思われる。
2.同紋瓦は、大宰府史跡や同条坊跡、筑前国分寺跡・般若寺跡・杉塚廃寺等から出土している。
3.小田1960では「堂ノ平」と記述されているが、小字名は「堂ヶ平」である。佐々木四十臣氏教示。古瓦採集地点の隣接地は、「カネツキ」と俚称されていたといい、古代寺院の存在を伺わせる重要な遺跡である。
4.佐々木四十臣氏表採資料中に、軒丸瓦の丸瓦部広端部に近い破片がある。
5.第145次調査地では遺構期を第1~4期に分割し、そのうち第2・3期をⅡ期国庁の存続期に当てている。第2期は西脇殿が掘立柱建物の段階であり、二度の建て替えが認められる。第3期は、築地塀が改築され、西脇殿が礎石建物に変化するものと考えられる。この礎石建物は、一度改築された後に再び掘立柱建物となる。その後、再び礎石建物となり終焉を迎える。このように第3期の脇殿は、計三度の建て替えを伴う。
6.Ⅱ期国庁の西脇殿は、成立当初の掘立柱建物段階から、築地塀で囲繞される政庁の南側に片寄って検出されており、北側にもう一棟の西脇殿が存在する可能性が考えられている(久留米市教委1998・1999)。このことから、Ⅱ期国庁造営にあたって、同様の脇殿配置形態を有する大宰府政庁の影響が伺われる。
7.その代表例としては、採集資料中に叩き文字「延喜十九年」銘の文字瓦がある。延喜十九年は西暦919年にあたり、10世紀前半頃の製作年代が考えられている。
8.西脇殿が総瓦葺きと仮定した場合の瓦の最低必要枚数は、丸瓦約1、500枚、平瓦約4、000枚、軒平・軒丸瓦各140枚、総重量約20tにのぼる。同調査では、軒瓦はゆうに及ばず、丸・平瓦についても想定量の1割程度が出土したに過ぎない。以下、第145次調査出土瓦の計量については、小澤2000を参照していただきたい。
9.西面築地側溝からは、大量の瓦類が出土したにもかかわらず、軒瓦が一切出土していない。
10.久留米市教委1999では、市内西行山瓦窯跡で焼成、供給されたものとされている。しかし、古賀 壽氏によれば、採集された瓦当資料は単弁7弁軒丸瓦(高隆寺跡所用瓦と同笵)のみで、軒丸瓦Ⅰ類は確認していないとのことである。ただ、将来的に正式な発掘調査等が実施されれば、軒丸瓦Ⅰ類が確認できる可能性はあるだろう。

参考文献
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大川 清  1972『日本の古代瓦窯』考古学選書3、雄山閣。
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小田富士雄 1975「日本各地の寺院跡:九州」『新版仏教考古学講座』2
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久留米市教育委員会 1988『筑後国府跡:昭和62年度発掘調査概報』久留米市文化財調査報告書第54集。
久留米市教育委員会 1998『筑後国府跡・国分寺跡:平成9年度発掘調査概要』久留米市文化財調査報告書第139集。
久留米市教育委員会 1999『筑後国府跡・国分寺跡:平成10年度発掘調査概要』久留米市文化財調査報告書第149集。
櫻井 康治 1994「筑後国分寺跡」『久留米市史』第12巻、資料編考古、久留米市史編さん委員会。
筑穂町教育委員会 1997『大分廃寺』筑穂町文化財調査報告書第3集。
福岡県教育委員会 1971『大宰府史跡:昭和45年度発掘調査の概要』福岡県文化財調査報告書第47集。
松村 一良 1994「筑後国府跡」『久留米市史』第12巻、資料編考古、久留米市史編さん委員会。
横田賢次郎 1983「大宰府政庁の変遷について」『大宰府古文化論叢』上、九州歴史資料館開館十周年記念。

*『福岡考古』第19号、福岡考古懇話会、2001年3月刊より。
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