日本茶の歴史

小 澤 太 郎

古賀前遺跡(福岡県久留米市)から出土した茶釜・茶臼と茶碗の破片(上津・藤光土地区画整理組合・久留米市教育委員会発行 1998年『上津・藤光遺跡群』より)

 山野が鮮やかな新縁のじゅうたんに包まれるこの季節、日本有数の茶所、八女地方では、新茶の収穫を迎えます。我が家も、無類のお茶好き揃い。日常茶飯事という言葉の通り、食卓からお茶の香りが途切れることがありません。

 さて、広く日本人の生活に定着した喫茶文化ですが、日本に伝えられたのは、今から約1,200年前、平安時代の初めの頃でした。当時、遣唐使とともに中国に派遣された留学僧が、お茶を飲む習慣を持ち帰ったことが最初とされます。

 ちなみに、日本の茶の木については、中国から渡ってきたという渡来説と、もともとあったという在来説とがありますが、いまだに結論は出ていないようです。

 このころのお茶は、団茶といいました。これは、摘んだ茶葉を蒸してやわらかくし、型で整形して塊にして乾燥させたものです。飲むときには、必要な量をほぐして粉末にしたものを熱湯に入れて煎じました。また、塩やしょうがを入れて味付けをしたともいいます。

 弘仁6年(815)、長期留学経験のある大僧都永忠は、近江国を行幸中の嵯峨天皇に茶を献じます。その味が忘れられなかったのか、わずか2か月後に天皇は、畿内およびその周辺の国々に茶の木を植えさせ、毎年、茶を貢進するように命じています。

 しかし、この喫茶の文化は貴族社会で珍重されただけで、一般に根付くことはありませんでした。嵯峨天皇(上皇)が没すると、急速に廃れていき、平安時代に日常的に飲まれたのは、茶ではなく白湯であったと考えられています。この後、300年以上もの間、お茶に関する記録はありません。

 次に、日本史上に再びお茶が登場するのは、鎌倉時代です。建久2年(1192)、宋での留学から帰国した栄西禅師は、持ち帰った茶の種を脊振山地の山寺で栽培したといわれます。やがて、このお茶は、栄西が博多に聞いた聖福寺や京都の禅寺、そして各地の禅寺へと広がっていきました。このお茶と禅宗との結びつきは、やがて茶道という独特の文化を生み出すことになります。

 当八女地方へお茶が伝わったのは、室町時代でした。伝承では応永30年(1423)に霊巌寺(八女郡黒木町※)を建立した周瑞禅師が、明国から持ち帰った茶の種をまき、その製法を伝えたことに始まるとされています。

 ところで、室町時代の城跡や屋敷地などの遺跡を発掘調査していると、当時の喫茶文化をうかがわせる遺物に出会うことがあります。 

 古賀前遺跡(久留米市上津町)では、屋敷が6軒以上隣り合わせになった、14世紀後半~15世紀前半頃の村が発見されました。中でも、敷地面積が2,000㎡(約600坪)もある最も大きな屋敷からは、中国や朝鮮から輸入された青磁の茶碗類や、天目茶碗・茶釜・茶臼が出土しています。ただし、敷地が狭い他の屋敷からは、ほとんど出土しません。

  一方、筑後川に面した標高約4mの低地にある海津城跡(久留米市安武町)の調査でも、15~16世紀頃の天目茶碗や明染付碗・茶釜・茶臼が出土しています。

 以上の発掘調査の例からも分かるように、15~16世紀頃には、武士の間だけではなく有力な農民の間にまでお茶を飲む習慣が広がっていました。また、抹茶をひく茶臼が出土することから、現在の抹茶と同様の方法でお茶を加工して飲んでいたものと考えられます。

 慶長年間(1596~1614)の古文書史料によると、筑後地方ではお茶が年貢として納められており、少なくとも15世紀以降には、当地方でお茶の栽培が広く行われていたようです。

 なお、現在のような蒸し製の煎茶が、日常の飲み物として一般に広く普及するのは、江戸時代も中頃以降になってからのことです。

 八十八夜にあたる5月2日頃、新しい生命力にあふれた新茶をみいただき、人々は一年間の無病息災を祈ります。

※八女郡黒木町は、現在八女市黒木町となっている。

*「広報ひろかわ」2003年5月号、広川町役場より〔写真・図面追加〕。
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