小河吉右衛門褒状


年代標記:庚午十月(明治3年10月)
形  状:竪紙・墨書
法  量:縦38.5㎝×横53.7㎝
所  蔵:環有明海歴史考古学研究所

解説
 小河吉右衛門(真文)は、嘉永元年(1848)8月19日生まれの久留米藩士。馬廻組300石で屋敷地は城内外郭(篠山町)。佐々金平(真武)らと尊攘派青年リーダーとなる。慶応4年1月26日夜の参政不破美作暗殺クーデターを主導し、藩政を公武合体から尊王攘夷へ一変させることに成功した。尊攘政権樹立後は、公用人、応変隊参謀を経て、明治4年の反政府事件(久留米藩難事件)では首謀者として東京へ護送され、政府転覆の陰謀企画の罪で12月3日に除族の上斬罪に処せられた。享年25。京町梅林寺には変名の「池田八束」名の墓碑がある。
 さて、明治3年1月、山口藩では諸隊解隊を不満として反乱が発生した。これを扇動したとして奇兵隊幹部大楽源太郎らは追及されることになった。3月ころ応変隊の古松簡ニを頼って久留米に潜入した大楽は、古松の盟友である小河らに保護され、藩内各地の同志宅を転々としていた。
 本史料が書かれた翌月の閏10月1日、山口藩の要求に応じた久留米藩は、同藩使者とともに応変隊1中隊を大楽らの潜伏先であった上妻郡溝口村(現八女市溝口)庄屋横枕覚助宅へ派遣した。しかし、肝心の大楽は柳川領へ脱出しこの時は難を逃れている。
 この史料は大楽らを潜伏させている小河が、上妻郡室岡村の勘次から50両の献金を受けたことに対する褒状である。大楽らの隠匿と反政府活動について、新政府への言い逃れが難しい段階に来ていた。このような献金は、事態の好転を画策する小河らの政治的な活動資金となったのではないだろうか。
 追い詰められた尊攘派青年らは翌年3月16日、藩知事に類が及ぶことを恐れ、ついに大楽らを口封じのために殺害した。程なく事件は発覚し、多くの逮捕者を出している。受刑したのは斬刑の小河をはじめ、大参事水野正名・古松簡ニら(終身禁獄)、横枕覚助ら(禁獄3年)など57人にのぼった。
 尊攘派による明治元~2年にかけての公武合体・開国開明派の殺害や大量処分。この明治4年久留米藩難事件での尊攘派の大量処分によって、久留米は多くの有為の人物を失ってしまったのである。
(文・翻刻/小澤太郎)

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