蒼海なき「海軍王国」-幕末久留米藩海軍の挑戦-

小 澤 太 郎

久留米藩海軍士官たち。列左から2人目が梅野多喜(鶴久二郎・古賀幸雄編1970より転載)。


1.はじめに
 久留米には海がない。
 広大な筑紫平野のちょうど中ほどに位置する内陸の城下町なのである。筑後国北半部を占める旧久留米藩領を見渡しても海岸線は含まれていない。このように海を持たない久留米藩が幕末に7隻もの蒸気船や洋式帆船を所有していたと聞けば、奇異に思われる方もあるだろう。
 そもそも、内陸の藩で洋式船を保有していたのは、久留米藩以外では越前大野藩のみだ。但し大野藩は石高が4万石に過ぎず、保有もわずかに木造帆船1隻である。石高が21万石とはいえ7隻もの保有数(慶応3年末時点)は、明治維新の原動力となった薩長肥に次ぐ第4位の規模である。久留米藩は内陸にありながら、わが国でもトップクラスの藩に準じる強力な海軍力を誇っていたのだ。今回は、その久留米藩海軍の成立から終焉までを見ていこう

2.水軍事始め
 久留米藩に近代的な海軍が導入される以前、その原型ともいうべき水軍が設置されたのは二代有馬忠頼(ただより)の代に遡る。正保4年(1647)6月、長崎にポルトガル船2隻が来航し国交回復を求めた事件がきっかけである。この時、福岡藩や熊本藩、佐賀藩などの西国諸藩がぞくぞくと長崎警備に駆け付けた。緊張が高まる中、幕府は国交を拒否している。
 この事件を受け、忠頼は外国船の到来などに備えるため3隻の井楼(せいろう)船を中心に水軍を編成した。その後も長崎奉行からは有事の際に速やかに駆け付けるようにたびたび要請があった。4代頼元の代には大小約30艘の和船と500人程の船頭や水主(かこ)を編成し、後に御船手組(おふなてぐみ)(方)と称した。そしてこれらを若津・榎津(えのきづ)や豊前大里(北九州市門司区)に分置した。平時における彼らの主な任務は、藩主の参勤交代に伴う関門海峡の通過、藩内の米穀や特産物の江戸・大坂への回漕などであった。
 それから200年の月日が流れた。御船手組にも大きな時代変化の波が迫ろうとしていた。

3.村上量弘の海防論
 幕末になると日本近海にロシアやイギリス、アメリカ、フランスなどの外国船が頻繁に来航するようになった。特に、嘉永6年(1853)のペリー来航は日本中に衝撃を与え、これを契機に江戸湾周辺の台場構築をはじめとする沿岸警備が強化されていった。
 これに先立つ嘉永3年、久留米藩の参政だった村上量弘(むらかみかずひろ)が「海防治標」を記した。彼は文政2年(1819)京隈小路に生まれ、守太郎と称する。幼いころより聡明で神童と呼ばれた。藩命で水戸の昌平黌に遊学し、藤田東湖(ふじたとうこ)らとも親交を結んだ。江戸詰めとなり、野崎教景(のざきのりかげ)・今井栄とともに10代藩主頼永(よりとお)の中興改革を支えた。後に三名臣と評される。
 村上は同書中において軍艦建造と海軍強化を説いた。かつて林子平が「海国兵談」で唱えた沿岸警備論に疑問を呈したのである。すなわち、外国船は自走し航行が自由であるため、海岸への砲台構築によって「全国沿岸の守備の隅々まで行き届くようにするには、とても出来ぬことなれば、是煩いにして無益」というのである。そして、外国船に対抗するには、各藩が「大艦を製造」・保有して、沿海を「往来警備」することにより「全国沿岸の警備、隅々まで行き届く」ようになる。そのためには、経済的な方策(莫大な参勤の費用を節減するなど)の裏付けのもとに軍艦を建造するべきことを主張したのである。
 ところが、「海防治標」を記したわずか3ヵ月後、村上は江戸藩邸で刃傷事件を起こし不慮の死を遂げる。31歳の若さであった。しかし、経済論と結びついた彼の海防論は、盟友である今井栄へと受け継がれていった

4.藩論は殖産興業推進へ
 ペリー来航以来高まる尊王攘夷運動は、文久3年(1863)5月に長州藩の外国船砲撃事件を引き起こした。その2ヵ月後には、交渉が決裂した生麦事件をうけて薩英戦争が勃発、更にその翌月には、長州に対する四ヵ国艦隊の馬関砲撃が行われた。内外の情勢は確実に緊迫の度を増していた。
 このような情勢を踏まえ同年、江戸定府の今井栄が国元に呼び戻された。彼は早速、家老有馬監物(けんもつ)、参政不破美作(ふわみまさか)を説得、藩の方針を開港・重商主義へ転換することに成功する。翌元治元年から本格化した藩政改革は、元治の改革とも呼ばれる。

5.蒸気船雄飛丸の購入
 改革の第一歩は蒸気船の購入であった。文久3年末から、薩摩藩の御用商人を仲介して、長崎の英商トーマス・グラバーと交渉を開始した。翌年正月、7万5千ドルで英国製鉄製スクリュー船(250トン)を入手し、雄飛丸と名付けた。これは、グラバーが初めて販売した艦船である。まず頭金として4割強を支払い、残りは銀札で3ヵ年の分割払いとした。
 蒸気船の購入や運用、維持には、多額の費用がかかるため、新たに財源を確保する必要がある。そこで今井らが目を付けたのは、これまで薩摩商人が取り扱っていた領内産の茶をはじめとする特産品を藩の専売とし、輸出で仲介手数料を得ることであった。

6.開成方の新経済政策
 元治元年四月、藩は窮乏する財政の緩和を目的とし開成方・開物方・成産方の3部局を新設した。翌年3月には長崎にも支局を置いた。これは、蒸気船の購入・運用、軍備の洋式化などの富国強兵のための費用を捻出するためであった。それを束ねるのは開成方主宰となった今井栄である。
 今井が記した「上海雑事」に「一大地球の善なる物、皆取て我が有とすべし」という一節がある。東洋・西洋に限らず世界中の良いところは全て見習い取り入れて、自分のものにしようというのである。彼はこの基本理念の下、次々と新しい政策や計画を実行していった。
「子年より年々惣差引帳」などによると、蝋や紙、茶、菜種油、絣など30品目以上を国産品として生産奨励、藩が取り扱い領外へ輸出している。
 その他にも若津港(現大川市)で取引される諸国商品への課税や倉庫料の徴収、後に購入する洋式船舶の運用による運賃収入なども計上されており、これらも莫大な利益をもたらした。
 かつて村上量弘が提案した海防論は盟友今井栄の手によって花開き、政策は軌道に乗りつつあった。久留米藩は短期間のうちに洋式船の保有と運用を進めていくのである。

7.上海密航
 慶応2年(1866)9月3日、今井と松崎誠藏(まつざきせいぞう)、田中近江(たなかおうみ、久重のこと)ら6人の開成方一行は上海行きの船上にいた。これは藩命ではなく今井の独断による密航である。彼らは洋式船購入のため、藩命を帯びて長崎を訪れていた。しかし条件が合う船が無い。オランダ領事のA・J・ボードインに相談すると上海行きを勧められた。蒸気船の購入という藩命の遂行と密航との狭間で悩んだ末、一行は出島を訪れていた上海オランダ領事T・D・クルースの案内で同地へ向かったのである。
 上海では洋服と帽子に着替え、半植民地化された街の様子を視察しながら洋式船を探し求めた。だが、おびただしい船が行き交うにもかかわらず価格が折り合う船がなかなか無い。ようやく小型蒸気船1隻と帆船1隻を手に入れ、18日間の旅を終えて長崎に戻った。
 『加藤田日記』によれば翌月28日、家老有馬監物一行が「此節御買入の蒸気軍艦」他を見学するため若津を訪れた。上海から帰ったばかりの松崎が同行しており、彼が船を案内したのだろう。
その時、港に停泊していたのは、蒸気軍艦1隻、帆船3隻、川蒸気船1隻の計5隻であった。最初に雄飛丸を購入してからわずか2年足らず。この間久留米藩は、雄飛丸を含め6隻の洋式船を保有するまでになっていたのである。

8.諸艦の規則
 上海に密航した際に今井が記した日記「秋夜の夢談」には、航海中の整然とした指揮命令と船員たちの規律のとれた行動、手入れが行き届いた清潔な艦内に感嘆するくだりがある。1隻の洋式船を自在に動かすには、船長の指揮下に船員それぞれの一糸乱れぬ行動が求められる。外国船に乗り今井は改めて艦内規則の重要性を痛感したであろう。
 現時点では、久留米藩海軍全艦の諸規則がすべて確認されているわけではない。残されているもののうち最も古いのは、上海密航の月に購入した砲艦晨風艦の「碇泊中規則」「航海中規則」である。前者は「毎朝六時太鼓を鳴し、同時起出、衣服を改、人数相改、甲板上に出集、御船内一順、密に掃除致候事」との書き出しで始まり、終業までの勤務規則と心構えが述べられている。その後、慶応4年2月までに一般船員、小頭、士官など職務階級に応じた「心得書」や「職務規定」「日課」などが事細かに定められたのである。

停泊地だった若津の馬之丞。艦船は満潮時にはここで旋回して河口へ向かった。


9.停泊地若津
 久留米藩が所有する洋式船は、筑後川の河口に近い若津(現大川市)を拠点としていた。筑後川は若津付近で本流と早津江川とに分岐している。西流する早津江川には佐賀藩の三重津海軍所があった。因みに、田中久重は佐賀藩時代、ここで艦船用の蒸気機関を開発製造している。
 筑後川や早津江川が注ぐ有明海は、東京湾や大阪湾よりも広い九州最大の湾で、潮の干満差が最大6メートルにもおよぶ。干潮時には広大な干潟が広がり、満潮時には上昇する海水に押し上げられて河川の淡水が上流側に逆流する。かつて大潮の日には、久留米城付近まで潮が差していた。
 近代以前においては、このような干満の差は船の出入りに都合がよかったが、船が蒸気機関を備え自走するようになると、逆に障害となった。干潮時には若津へ入港できないため、河口沖のガンドウ(岸頭・強盗洲)へ停泊、小船に乗り換えて若津へ向かった。また、若津に入港する際も、川幅が狭く流れが速いため錨を下すと同時に四方から艫綱(ともづな)をかけて固定しなければならなかった。

10.操船技術の習得
 先述したように、久留米藩では17世紀中頃にはすでに御船手組(方)が設置されていた。しかし和船と洋式船とでは操船技術が大きく異なる。ましてや蒸気機関については全く未知の世界であった。
 元治元年(1864)正月、雄飛丸売買契約が成立すると、藩は御船手方小船頭弥永健吾・大津遠太に蒸気船の操船術修行を命じた。さらに同船の購入を斡旋した薩摩藩では「久留米藩の請を容し操縦士等を貸与」(公爵島津家編纂所編1968)して士官・水夫・機関師らが実践的な指導に当たった。また、8月には佐賀藩に同船を貸与することになったが、その際に西田元三郎や弥永健吾・梅野多喜蔵ら18名を同乗させ実習にあたらせた。
 9月には弥永・梅野ら4名を航海術修練のため江戸へ派遣した。開成方の今井と軍艦奉行の勝安房守は旧知の仲であり、彼らを勝の氷川塾に入門させて幕府の海軍操練所で修行させている。4名は慶応2年(1866)12月に修行を終え帰藩するが、翌年山田正之助・坂本金三郎(近代洋画家坂本繁二郎の実父)を氷川塾へ入門させ、継続的な人材の育成を図っている。
 なお、同年7月22日付で藩から今井・松崎ら4名に「水軍取調」が命じられた。名実ともに久留米藩の近代海軍が成立した日といえるだろう。

筑後川・早津江川河口沖のガンドウを望む。主に干潮時はここに艦船を係留した。


11.久留米藩最大の船、千歳丸
 慶応3年(1867)9月、長崎に米国蒸気船コケットー(coquette)が入港した。この船は、英国で製造された新造船である。規模は全長56.4m、幅8.2m、排水量600トン。船体は鉄骨木造、2本マストのトップスル・スクーナーでありスクリューを推進装置とする。残された写真を見る限りでは、船体のフォルムも優美で、船名の通りコケティシュでもある。
 藩海軍の整備は急速に進んでいたが、それゆえにその主柱となる蒸気船の所有は大きな目標だったに違いない。久留米藩では早速、開成方の今井・松崎らを派遣し同船購入に動いた。しかし価格が折り合わず商談不調となった。このため、一時的にオランダへ船の製造を発注する案が浮上した。しかし、コケットーが横浜から長崎へ廻航すると、購入に向けた交渉が再開された。
 久留米藩の希望価格は雄飛丸と同額の7万5千ドルだったが、仲介したボードインからは、船主側の提示額が8万ドルからとの回答があった。結局、契約は8万5千ドルで折り合い成立した。
 同船を11月23日に受け取り、日没後、今井らを乗せて長崎を出港した。そして翌朝、筑後川河口沖のガンドウ(岸頭・強盗洲)に投錨した。
 翌月2日、11代藩主賴咸(よりしげ)が乗船し艦名を千歳丸(せんざいまる)と名付けた。「千歳」は「千年」と同じく「千載」のことで、「永遠」の意味である。今井らが推進してきた久留米藩の富国強兵政策は、ここに絶頂期を迎えたのである。

12.今井の失脚
 しかし、事態は急展開を迎える。そのわずか7日後、大政奉還を受けて王政復古の大号令が発せられ、明治新政府が樹立したのである。年が明けた慶応4年(1868)正月3日には、鳥羽・伏見の戦いが勃発した。刻々と変化する情勢を受けて、久留米藩でも旧幕府を支援するのか、新政府に加わるのか、ギリギリの政治判断を迫られていた。
 藩主賴咸は、公武合体を唱え開港・重商主義政策を進める家老有馬監物・参政不破美作らの意見に従ったのであろう。幕府への政権回復を助けるため、上京することを全家老と参政に伝えた。
 ところが、同26日夜、勤務を終え下城途中の不破を、尊攘派青年たち20人ほどが襲撃し暗殺したのだ。これは藩秩序を乱す不法行為であるが、こともあろうか賴咸は青年らの行いを許した上、その忠義は紛れもないものと称賛した。
 このクーデターを受け、尊攘派政権が成立、藩主賴咸は新政府軍に加わるため藩兵を引き連れ、上京した。一方、有馬監物や不破美作と近い佐幕派・開明派の藩士たちには次々と蟄居や揚屋入りの処分が下った。この中には、開成方の今井や松崎らも含まれていた。久留米藩海軍は、海軍創設の中心メンバーを失いながらも、戊辰戦争へと参加することになった。

13.神戸事件と初の「観艦式」
 鳥羽伏見の戦いで徳川軍は総崩れとなり、徳川慶喜が大坂城を脱出して品川沖へようやくたどり着いた慶応4年1月11日、神戸では大変な事件が勃発した。備前藩兵の隊列を横切ろうとしたフランス人水兵らと藩兵が銃撃戦を展開したのである。いわゆる神戸事件である。さらに悪いことに、隣接する神戸居留地を見分していた欧米の公使達へ一斉射撃を加え、列国の国旗を穴だらけにしてしまった。直ちに各国軍隊が出動、神戸港に周辺にいた日本の船舶が拿捕されるという事態になった。明治新政府初の外交事件である。
 この時拿捕された6隻の中に、久留米藩の砲艦晨風丸がいた。事件を報告した雨森伝左衛門によれば、暮6つ半(午後6時半)頃、スループ7艘に分乗した外国兵が300人程乗り込んできて、船を差し押さえられ、船内の備品や刀剣類、現金が強奪された。この船は筑後の船で備前の船ではないと主張したが、「同じ日本の船だ」と取り合ってもらえなかったという。しかし、発足したばかりの新政府が直ちに対応し、同艦は同月16日に解放された。
 晨風丸艦は江戸城総攻撃が目前に迫った3月4日に関東行きを命ぜられたが、風浪により大坂天保山前で座礁、16日になってようやく江戸へ向けて出港している。
 その十日後、天保山沖ではわが国初の観艦式が挙行された。明治天皇や公家らが列席する中、佐賀藩の電流丸を先頭に薩摩・長州など6藩とフランスの計7隻の軍艦が参列した。久留米藩からは千歳丸が式典に参加している。

箱館戦争に徴用され偵察中に竜飛崎で座礁沈没した砲艦晨風丸(公爵島津家編纂所編1968より転載


14.北越・函館戦争へ
 江戸が無血開城され、上野の寛永寺に籠った彰義隊も壊滅、7月には江戸が東京に変わった。しかし強硬派の旧幕臣は江戸を脱出し蝦夷地(北海道)へ向かい、新政府に対抗する奥羽越列藩同盟が成立、戦いの局面は東北・北越、蝦夷地へと移っていった。
 この月、千歳丸と雄飛丸にも出撃命令が下った。しかし、その主な任務は北越への兵員と物資の輸送であった。早速、千歳丸は西郷隆盛・従道ら薩摩藩士を乗せ鹿児島へ廻航、途中故障した機関部品を山口の長府で修理することもあったが、8月22日、無事薩兵は新潟へ上陸した。一方の雄飛丸は長州藩兵を乗せ、途中暴風に遭い水難者を出しながらも、ようやく九月中旬に新潟に着船した。
 やがて2隻は軍務を終了し、12月1日には帰国した。明治2年2月15日、新政府は千歳丸・雄飛丸の働きに対し乗組員に金子を下賜した。しかしそれも束の間、再び千歳丸は五月に函館戦争に徴用された。また、それに先立つ2月8日には、晨風丸が函館戦争に徴用されている。だが同艦は松前海峡で偵察中、不運にも竜飛崎で暗礁に触れて座礁沈没してしまった。新政府軍は5月に函館を総攻撃、約1年4か月に及んだ戊辰戦争はようやく終結した。太政官は晨風丸の戦功を賞し、3ヶ年間にわたって400石を艦長以下に与えることを決定している。
 だが、その栄誉を久留米藩海軍の創始者今井栄が聞くことはなかった。彼はそれに先立つ1月25日、「国是の妨げ」という理由で、切腹が申し渡された。世に言う久留米藩殉難十志士の一人である。開国開明派の筆頭として、尊王攘夷派政権から、葬り去られていたのである。

15.千歳丸、商船となる
 戊辰戦争終結後も、兵員や物資の輸送に従事していた千歳丸(せんざいまる)であったが、明治3年(1870)正月、兵部省より帰藩休船命令が下った。これは軍艦としての役割に終わりを告げるものであり、藩海軍艦船としての活動は大きな転換点を迎えた。
 同年春、久留米城下の商人の間では、一つのアイデアが進行していた。中島屋武助ら有志が商社組織を結成し、藩所有の千歳丸を借り受けて、全国各地で沿岸貿易を行うというものである。主に九州の米を積み込み、北海道で売り捌く。復路は鯡(にしん)や昆布などの海産物を仕入れて西国で販売すれば、「其の益、是より多き甚だしきは眼前」だ。この企画は4月10日に協議が成立、ただちに藩庁の許可も下りた。だが「故障起こり易きを慮る」との理由で、東京・大坂・横浜・神戸への寄港は除外された。
 その9日後、筑後川河口のガンドウ(岸頭)から千歳丸は出港した。乗船していたのは、結成したばかりの北航商社の社員たち10人程と、船長の前野雅門、士官梅野多喜蔵・竹内岩五郎をはじめとする藩海軍のメンバーだった。積み込んだ商品は、特産の米・大豆・紙・蝋燭・葛粉・紺絣などである。
 この時代、貿易のために遠く北海道まで遠征するということは、生死の別れを覚悟するくらいの冒険的事業だったという。ここに外洋を持たぬ久留米人の海への執着と気概が感じられる。

16.沿岸貿易
 梅野が記した「海隠日乗」(原本は戦災で存在せず)によると、翌日、長崎に着船し砂糖などを積み込み、25日には下関で絣の大半と塩を交易した。5月4日に敦賀(福井県)で、絣や下関で仕入れた塩500俵を販売し、大和縞を購入した。同月10~14日にかけては新潟で砂糖を売却し、干鰯を仕入れた。このように販売と仕入れを繰り返しながら、酒田(山形県)・土崎(秋田県)を経て、6月2日に北海道にたどり着いた。箱館・江差などでは米や大豆、砂糖、紙、葛、油、蝋燭などを陸揚げする一方、鱈腸や鯡、鯡〆粕(肥料)などを大量に積み入れた(~17)。
 北海道で海産物を仕入れた千歳丸は日本海沿岸を南下、三保ヶ関(島根県)を経て、7月2日、境港(鳥取県)に至った。ここで大量の北海道の海産物を販売したが、日本海側の重要港湾である同港にとって、汽船による貿易は初めてのことであり、近代の幕開けを象徴する出来事であった。
 同月25日には下関に入港、鯡や鱈などを売り込み、大量の塩を仕入れている。8月6日に下関を出港、再び日本海沿岸を北上し、同25日には佐渡小木、9月4日には箱館に至り、主に昆布や塩の取引を行った。閏10月17日出港、今度は太平洋沿岸を南下し、浦賀(神奈川県)・鳥羽(三重県)などを経て、11月20日に大坂に着いた。大坂・堺で塩鱒などを販売し、酒を仕入れて12月14日長崎着、長旅を終え16日に馬之丞(若津港の最上流、現大川市)に錨を下した。
 しかし貿易は、順風満帆ではなかった。10月1日に根室行のため別れた米屋市太郎ら3人は、鮭を積んで帆船で東京へ向かう途中難破し、大変な損失を被った。また他の商人たちも同様で、利益は出なかったという。

17.明治四年の久留米藩難事件
 慶応4年(1868)1月のクーデター以降、藩政は水野正名を首班とする尊攘派メンバーが掌握していた。明治3年4月、彼らを頼って久留米領内に大楽源太郎(だいらくげんたろう)が潜入した。彼は先ごろ解隊された長州藩の奇兵隊幹部であり、反政府運動を起こしたため、新政府より追われていた。
 尊攘派の若手指導者だった小河真文(おがわまふみ)や古松簡二(ふるまつかんじ)らは大楽を隠匿し、尊王攘夷を実行しない政府を転覆させるため、彼らとともに挙兵計画を企てた。
 しかし、久留米藩の謀反計画は、ほどなく政府の知るところとなった。その調査のため、同年冬に陸軍少将四條隆謌(しじょうたかうた)が兵136人を引き連れ、日田や久留米・柳川・福岡藩を巡視した。調査が終了した一行は、千歳丸に乗船、明治4年1月11日馬之丞を抜錨し大坂へ向かった。
 ところが、政府の久留米藩への嫌疑は深まるばかりであった。同年3月、四条少将は巡察使として再び兵を率い日田に駐屯した。この件が露見すれば、藩知事有馬賴咸にも類が及ぶ。窮地に追い込まれた尊攘派内では、若津に停泊していた千歳丸に密かに大楽らを乗り込ませて脱出させる案も浮上した。だが巡察使の手配は早く、若津への船と人の出入りは直ちに監視下に置かれた。千歳丸からは、大砲が取り外され、機械類も封印されてしまった。
 同月13日、水野大参事や小河らが捕縛された。窮地に陥った尊攘派は、16日夜、ついに大楽と従者の計4名を誘殺した。だが、政府は追及の手を緩めず、結果的に処罰者は死罪となった小河、終身禁獄となった水野をはじめ100名を超えた。
 4月19日、千歳丸は巡察使と兵138人を乗せ、大坂へ向かった。ところがその帰路、瀬戸内海を航行中に平戸から石炭を積載してきた和船が右舷に衝突し、破船沈没した。乗組員8人を救助し、路銀として金25両を渡している。

18.青龍丸と名を改める
 同年7月14日、ついに廃藩置県となった。藩は廃止され、久留米県が成立した。これを受け、藩海軍に所属していた艦船は、正式に商船として利用申請されることになった。間もなく9月30日付で兵部省宛へ届出されている。それによると、千歳丸・翔風丸・玄鳥丸の3隻を、管内の商人2人に貸し与えて、商用利用させるという。
 その5日後には、千歳丸の名称を青龍丸と改める届けが提出された。同時に、先に提出した千歳丸以下3隻の商船利用届けを一旦取り下げ、改めて青龍丸のみ商船利用を届けている。
 しかし、それから約2ヵ月後、一度取り下げられた翔風丸と玄鳥丸に加えて、和泉丸(函館戦争で沈没した晨風丸の代わりに新政府より貸与)も管内の商人へ貸与されることになった。藩難事件のあおりを受け、久留米県はわずか4ヶ月ほどで廃止、柳河県・三池県と統合されて、三潴県が成立するという慌ただしい時期のことである。

久留米藩最大の船千歳丸。明治初年頃長崎港波の平町から撮影(鶴久二郎・古賀幸雄編1970より転載)


19.千歳丸(青龍丸)の終航
 青龍丸への改称と商船への転用を願い出た前野船長以下乗組員一同は、明治4年11月20日、東京築地運上所へ足を運び、商船免状を受け取った。
 早速、東京に滞在していた元柳河県兵と唐津県兵を九州まで移送する依頼があり、両県兵180人を乗せて12月2日に品川を出航した。大里(北九州市門司区)、唐津城下を経由し、16日にガンドウへ帰着した。
 翌5年1月、元厳木県(旧対馬藩領)の貨物を東京品川へ回漕する商談がまとまった。燃料を多久の石炭山から手配し、同月24日、長崎から出港した。積み荷には豚や羊もおり、賑やかな船旅であったが、これが久留米の船としての最期の航海となった。そのため、士官の中には、この年の学制改革で必要となった洋算や英語などの教職に転身する者が多かった。

20.諸艦船の行方
 この後、藩海軍の艦船には、様々な運命が待ち構えていた。
 帆船遼鶴丸。明治四年に長崎で売却。その後の足取りは不明。
 蒸気船雄飛丸。同年長崎裁判所に引き渡し、その後は不明。
 蒸気船千歳丸と帆船翔鶴丸・玄鳥丸は、明治5年に三潴県から大蔵省へ上納された。千歳丸は最終航海の後、品川に係留されたまま、9月には郵便蒸気船会社に払い下げるための査定の手続きが進んでいた。その間の6月には、所有船が一隻もなくなってしまった三潴県から払い下げの運動が起こったが、これは全くの不調に終わった。
 帆船2隻はその後民間に払い下げられ、翔鶴丸は明治11年に北海道の個人が所有、同13年さらに2度転売された。玄鳥丸は郵便蒸気船会社に払い下げられ、直後の明治六年には横浜の英国人商人に売却された。
 なお、晨風艦の代わりに貸与されていた和泉丸についても、同年大蔵省へ返還している。

21.青龍丸の活躍
 明治政府は、国内の海運業をテコ入れするために、青龍丸など旧藩から接収した洋式船を直ちに郵便蒸気船会社に下げ渡した。そこで青龍丸は陸軍の中国・四国地方沿岸部測量などに従事したようである。しかし間もなく同社は、経営が悪化し明治8年9月に解散した。政府は、解散直前の6月に青龍丸など同社所有船を買い上げ、解散直後に設立された郵便汽船三菱会社に無償で下げ渡した。
 青龍丸は、ほどなく西南戦争に応徴され、兵員や弾薬輸送に従事、復帰後は小笠原諸島定期航路に就航した。さらに明治12年、函館‐青森間の青函定期航路が開設されると、同航路に追加投入された。
 その後、神戸‐仁川線へ就航し、明治18年(1885)、前年に朝鮮で勃発した甲申政変の全権使節が帰国する際、神戸から青龍丸に乗船した(一行は長崎から独船に乗り換え帰国)。この時、乗り合わせた人物に、朝鮮半島最初のキリスト教宣教師として著名なアペンゼラーとアンダーウッドらがいる。彼らは長崎を経由し、4月5日のイースターの日に合わせて念願の仁川上陸を果たした。

22.日本郵船から敦賀貿易汽船へ
 明治18年9月、三菱商会と共同運輸会社が合併して日本郵船会社が設立されると、青龍丸は青函航路に復することになった。同26年(1893)2月には、航路が室蘭まで延長され、三港定期航路が開設された。同33年(1900)10月、新たに北海道小樽‐稚内間の運行が開始され、同航路へ就航した。しかし翌年3月、敦賀貿易汽船株式会社へと売却された。
 敦賀は明治29年、外国貿易のための特別輸出港の指定を受け、32年には開港港則に加えられ開港場(外国貿易港)となった。青龍丸は、外航最初の船として朝鮮半島の牛荘に向かい、大豆・豆粕(肥料)を買い付けて帰港した。これは敦賀港における外国商品輸入の第1号ともなった。しかし、業績は芳しくなく、打開策として敦賀‐小樽間の定期航路を、同35年にはロシアのウラジオストックまでの航路を開設した。
37年、日露戦争が勃発すると青龍丸は海軍の雇船となり、主に佐世保と対馬竹敷間を結ぶ通信船として、また、長崎港監視や武装を施して水路嚮導の任務についた。しかし、日露戦争終結後の明治40年(1907)、神戸で海運業を営む井上文太郎に売却された。

石油タンカー時代の青龍丸(柏崎市史編さん委員会編1985より転載)


23.石油タンカーとして
 翌年には新潟の長岡商業会議所会頭で宝田(ほうでん)石油会社専務取締役であった渡辺藤吉に転売された。ここで石油運搬船(タンカー)として改装され、青龍丸は新たな道を歩むことになった。同氏が取締役社長を務めた株式会社国油(こくゆう)共同販売所では、宝田石油の石油製品を東京や大阪、下関など各地に海上輸送し専売する業務に従事した。
 なお、この時、実際の回漕業務に携わっていたのは、柏崎回漕株式会社である。青龍丸は石油一斗缶2本入りの木箱を、一度に5千~1万箱ほど積み込んで、柏崎から出港していた。その後、同45年には、青龍丸の所有権が新潟の塩谷合名会社へと移り、船籍港は越中国射水郡伏木町(富山県高岡市)となった。

24.青龍丸の最期
 大正2年(1913)3月3日の午後4時30分、青龍丸は下関から柏崎に向けて出港、最終寄港地の佐渡小木港を16日午前零時41分に抜錨した。柏崎までは直線で約54㎞の距離である。当日は、晴天であったが暗い夜で、水面には靄が立ち込め、激浪だった。
 柏崎港まで600mの距離へ近づいた時、突然左舷前方に暗礁が見えた。慌てて錨を投じて機関停止、全速力後退を行ったが、あえなく座礁、沈没した(小澤2017)。    
 その後、長らく青龍丸の残骸は打ち捨てられたままであったが、同7年6月から引き揚げ作業が始まった。回収された金属類は、第一次世界大戦による金属需要の高まりから、売却額は8千円に達した。それがその後どう再生されたのかは、もはや誰にもわからない。

主要参考文献
浅野陽吉 1937a『梅野多喜蔵先生伝』筑後郷土研究会。
浅野陽吉 1937b『十志士の面影』筑後郷土研究会。
浅野陽吉編 1937~39『郷土研究筑後』6巻3・5・7~9・12号、7巻2・6号、筑後郷土研究会。
小澤太郎 2017「青龍丸乗揚事件の顛末」『久留米市文化財保護課年報』12、久留米市。
柏崎市史編さん委員会編 1985『柏崎市史資料集』近現代編3上、柏崎市。
久留米郷土研究会編 1979『加藤田日記』久留米郷土研究会。
公爵島津家編纂所編 1968『薩藩海軍史』下、原書房。
鶴久二郎・古賀幸雄編 1970『明治二年殉難十志士余録』。
樋口一成 2015「久留米藩海軍千歳丸の船歴について」『久留米郷土研究会誌』第29号、久留米郷土研究会。
深谷眞三郎・古賀幸雄 1985「変貌する久留米藩」『久留米市史』第3巻、久留米市。
道永道子 1982「幕末の藩財政と軍備強化策」『久留米市史』第2巻、久留米市。
※その他の刊行史料と未翻刻史料については省略した。

本稿は『筑後地域文化誌Agena Dogena』(中南米マガジン社)第11号(2017年8月)、第12号(2018年2月)第13号(2018年8月)に連載された原稿を元に再構成し、一部字句を改め、主要参考文献を追加し、掲載写真を一部省略したものです。
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