「久留米」都市計画の系譜

小 澤 太 郎

昭和初期の久留米市街鳥観図(六ツ門図書館展示コーナー企画展「軍都久留米の風景とくらし」より)

1.都市の立地と形成
 都市とは「情報と物流の結節点に生まれた巨大な人口の集積体」だと金関恕はいう(金関1998)。そうだとするならば、その建設のための資材、構成員である市民への生活物資の安定的な供給は、都市成立の必須条件と言える。
 前近代においては、水運は唯一の大量輸送手段であり、海に囲まれ平地が少ない日本における都市の立地は、必然的に海や河川に面することになった(苦瀬2007)。筑後川の中流左岸に位置する久留米も、その例外ではない。
 一方で、都市の形成を考える時に、そのような好適地へ自然に人々が集って集落ができ、それが徐々に膨張して形成されたというイメージを持たれる方がいるかもしれない。
 しかし、藤田弘夫が指摘したように(藤田1993)、都市の建設には、権力の意思決定が必要であり、中核となる施設の設置をその契機とした。つまり都市は、当初から集落とは異なる非農業(漁業)共同体として成立したのである。権力は交通の要衝に都市を建設し、広域な軍用道路や烽(のろし)などの高速通信網を整備した。その区域内には、中心街路を軸に行政や宗教、各種産業に関わる施設、居住区域が配置されていく。また、住民の間には社会階層が形成されており、労働や職業が分化している。久留米でそのような都市の種子が植え付けられたのは、実に飛鳥時代に遡る。

2.飛鳥時代の大規模施設群‐都市の契機
 筑後川に面した低台地上、現在の合川町一帯に筑後国府跡が広がっている。国府が設置される以前の7世紀前半、同台地上には周辺の農村とは異なる大規模な建物群が突如出現し、低台地の周囲には土塁や大溝などの防御施設が築造された(前身官衙:ぜんしんかんが)。その中心となる大型建物は当時西日本最大級で、飛鳥の宮殿建築に匹敵する偉容を誇った(小澤2012)。
 このシンボリックな大型建物の周辺には、建築方位を揃えた規格的な建物群が配置され、それぞれ倉庫や兵舎などの機能が推定されている。また、東限の大溝周辺からは、鍛冶や工芸、筆記具など、各種工房や行政機構の存在を示す遺物が大量に出土している。
 以上からわかることは、防御施設に囲まれた区域内に行政府や関連施設、工房などが存在し、多くの人々が集められていたことだ。またこの施設は、軍事・政治両面において北部九州における中央政府の拠点となる施設であったと考えられる。さらには同じころ、古代山城である高良山神籠石と上津土塁が築造され、3遺跡は有明海方面の防衛を意識して有機的に配置されていたことも注目される(小澤2014)。
 この前身官衙は、朝鮮半島の友好国百済を救済するための拠点であった斉明天皇の朝倉宮(推定地朝倉市杷木町)を防衛する目的で設置されたと考えられる。その対外的な危機が去ったのちも、南九州では中央集権化の波に抗う隼人の乱が相次ぐなど不安定な情勢が続いた。久留米の地は、中央政府による国内支配の最前線としても、重要な位置にあったとみてよいだろう。

3.筑後国府という都市像
 筑紫国から分国し筑後国が成立したのは、690年代のことと考えられている(田中1989)。律令政府は中央から放射状に延びる道路網(七道)を整備、地方支配の拠点として国ごとに国府を設置して、中央から国司を派遣した。
 筑後国では水陸交通の要衝である前身官衙跡地一帯に国府が建設された。国府には、政務をつかさどる施設として政庁があり、国府内を通り西海道に通じる東西の幹線道路を軸に、曹司と呼ばれる行政実務を担う施設、倉庫、各種工房、国司の官舎、厨、役人たちの居住域などが機能的に配置されていた。
 国府の都市計画は、全国画一的なものではなく、地方の実情や実態に合わせ、多様な姿を見せながら変遷していく。筑後国府の場合、中心施設である政庁が筑後一宮である高良玉垂神社(現高良大社)が鎮座する高良山方向へ移転を繰り返し、それにつれて国府域も移動していく特徴がある。発掘調査からは、7世紀末から12世紀後半にかけて存続し、その間、3度移転することが判明している(松村1994a)。11世紀末に3度目の移転をした際には、西海道も高良山西麓を通るルートに変更され、これが後に近世薩摩坊津街道へ踏襲された(松村1994b)。
 このころすでに武家政治は確立している。高良山西麓一帯は府中と呼ばれ、新興の浄土宗寺院寺も建立された。物資の集積施設とみられる地下倉庫跡が密集し、付近一帯からは大量の輸入陶磁器や国産陶器、銭貨などの広域流通品が大量に出土する。南北朝時代ごろまで文書類に散見される筑後国府は、中世国衙としてこの地で存続し、引き続き都市としての役割を果たしていたことは想像に難くない。

天保年間久留米城下図(久留米市史編さん委員会1979より)

4.久留米城下町の形成
 永正年間(1504~20)になると、高良山座主麟圭によって、現在の久留米市街地の西北端に城が築かれた。この地は、筑後川に面する小高い丘で、筑紫平野のくびれ部に位置し軍事戦略上重要な場所である。次いで天正15年(1578)に入城したキリシタン大名毛利秀包夫妻は、城下に教会を造ったことが知られており、城下町建設に着手していたと考えられるが実態は明らかになっていない。
 慶長5年(1600)に筑後国主となった田中吉政の次男則政は、引き続き城下町整備を進めた。城下町の東西の軸となる長町(のちの通町)筋は高良玉垂神社に向かって伸びており、この通りが都市計画の基準線の一つとなった可能性がある。
 城下町を完成させたのは、元和7年(1621)に入国した有馬氏である。改築された久留米城は、北側に都市のシンボルである本丸、その南に二ノ丸・三ノ丸・外郭・城下町を配置していた。土地の標高も概ねその順番で徐々に低くなっている。また、北・西側は筑後川を天然の外濠とし、北・東側は湿地帯を防衛線とした。元々東向きであった城を南向きの連郭式に変更したのは、西・北・東側にこうした天然の要害があり、城郭と城下町の拡張に制限があったからだと考える。
 城下には、東西に延びるメインの通町筋を軸として、主要な通り筋に京隈小路・庄島小路・櫛原小路・十間屋敷・鉄砲小路・寺町といった防衛拠点を配置した。これらは天然の要害が無い城の正面と南側を守るようなレイアウトになっている。また、城下の西側には筑後川の川港である瀬下町があり、南側からは柳川往還、東側からは日田街道が延びるなど、水陸交通網の整備も進んだ。日本の歴史的な都市の多くがそうであるように、近世城下町が、現代都市久留米の起源といえる。

昭和4年の通町筋(久留米市役所編1932より)

5.軍都久留米と戦後の復興
 明治維新後、明治22年(1889)に市制を施行させた本市であったが、市域は旧城と城下町が中心で非常に狭いため、生産性が低く経済力も貧弱であった。そこで市の発展策として選択したのが、軍の誘致である。
 市をあげた積極的な誘致活動の結果、明治30年には第四十八連隊、同40年には第十八師団が移駐した。司令部や兵営、各軍施設は市街地近郊の農地などを切り開き造営された。同時に、各施設と市街地をつなぎ、鉄道へアクセスするための幅広く直線的な軍用道路が建設されていった。このような都市インフラ整備によって、近代産業や観光が大いに発展した。
 しかし、太平洋戦争も終戦を迎える直前の昭和20年(1945)8月11日、久留米は米軍の空襲を受け、木造家屋が中心だった市街地の西半分を中心に約七割が焼失し、都市は破壊された。
 戦後は同22年から戦災復興事業が本格化し、市街地の区画整理が始まった。近世以来の狭くひなびた街路は次々と拡幅され、現代都市にふさわしい街並みが整っていったのである。

参考文献
小澤太郎 2012「西海道における四面廂建物の様相」『四面廂建物を考える』報告編、奈良文化財研究所研究報告第9冊、クバプロ。
小澤太郎 2014「古代山城・高良山神籠石を考える」『鞠智城とその時代』熊本県。
金関 恕 1998「都市の出現」『都市と工業と流通』古代史の論点3、小学館。
苦瀬博仁 2007「江戸期における物流システム構築と都市の発展衰退」『海事交通研究』56、山県記念財団。
久留米市史編さん委員会 1979『久留米市史』第2巻、久留米市。
久留米市役所編 1932『久留米市誌』上巻。
田中正日子 1989「成立期の筑後国府と大宰府」『筑後国府跡・国分寺跡-昭和63年度発掘調査概要-』久留米市文化財調査報告書第59集、久留米市教育委員会。
藤田弘夫 1993『都市の論理』中公新書、中央公論社。
松村一良 1994a「筑後国府跡」『久留米市史』第12巻資料編考古、久留米市史編さん委員会。
松村一良 1994b「古代官道跡」『久留米市史』第12巻資料編考古、久留米市史編さん委員会。

*本稿は一般財団法人西日本文化協会発行『西日本文化』第484号(2017年10月)掲載原稿を再構成し、一部字句の修正、主要参考文献を加え、写真の差し替え・追加を行ったものである。
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