墳丘築造企画の継承-岩戸山古墳と善蔵塚古墳を例として-

小 澤 太 郎

作品タイトル

薄っすらと雪化粧をした善蔵塚古墳(福岡県八女郡広川町大字六田)

1. はじめに
 筆者は以前、古墳時代後期を代表する2基の古墳、今城塚古墳と岩戸山古墳の墳丘平面形態の比較検討を行ったことがある(小澤2003、以下前稿と称する)。前者は継体天皇の陵墓であり(森田1997)、後者は時の継体朝に対して「反乱」を起こしたとされる人物、筑紫君磐井の寿墓と考える説が一般的である(森1956・石山1987・佐田1991)。そこでは、墳丘計測値から導き出した指数の近似や散布図の分析、墳丘測量図の重ね合わせなどの方法から、二つの古墳が10:7の比率1)の相似墳である可能性を指摘した。本稿では、同様の方法を用い岩戸山古墳で採用された今城塚型の設計プランが、岩戸山古墳以降の八女古墳群の首長墓において継承されるのか追求してみたいと思う。すなわち、ここでとりあげるのは岩戸山古墳と、これに後続する善蔵塚古墳という2つの大形前方後円墳である。

2.墳丘企画の研究略史
 前方後円墳の平面形態に企画性があることを最初に主張したのは、上田宏範である(上田1950)。上田は、幾何学的な墳丘の形状から高度な設計技術の存在を想定し、後円部直径を6等分した長さを一単位とし、前方部の隅角稜線が古墳中軸線と交わる点で前方部を後長と前長とに分割、それぞれの整数比を求める方法によって、前方後円墳を8型式に分類した(上田1969)。このように仮想的な定点を設定して、変形や崩壊が進んだ墳丘測量図をもとに定規やコンパスを用いて復元していくやり方は「作図法」と呼ばれる(小澤一雅1988)。この方法はその後、甘粕健・椚国男・宮川□など数多くの研究を生むこととなった(甘粕1965・椚1975・宮川1983)。
 一方で上田氏は、河内や大和など近畿地方の大形前方後円墳の中に墳丘各部の計測値が極めて近いものがあり、墳丘測量図を直接重ね合わせるとプランが同型(同似)になるものがあることを指摘した。因みに筆者はこの方法を「重合法」と仮称する(小澤2003)。氏は、同形墳や相似墳の存在から、その築造における設計図の存在を想定した。
 以来、築造企画に関する先学の研究は数多く行なわれているが、作図法については、それぞれの研究者が独自に仮設した基準によって、推定される墳形を作図し形式分類し平面形態の変遷を追及しているため、推論が重なり多様な分析方法と指向性が生まれるだけでなく、それによって分析自体の有効性が低下するなどの指摘がされている(北條1986、小澤一雅1988、柳沢1995など)。このような作図法の方法論的な限界を踏まえて、和田晴吾や北條芳隆が採用したのは、重合法であった(和田1981・北條1986)。すなわち、測量図には墳丘に関する全情報が表現されており、重ね合わせることによって、墳丘各部の位置や等高線の方向など、類似性をはかる諸要素について検討が可能となるからである(岸本1992)。
 和田によれば、墳丘長と後円部径は、墳丘規模に大きな影響を与え、かつ時期的な形態の変化に左右されることが少ないとする。そこで、後円部径と墳長、前方部幅と墳長の割合を指数化し、京都府向日丘陵の前方後円墳とその他の主要な前方後円(方)墳とを比較した。その結果、奈良の箸墓古墳と向日丘陵上の五塚原古墳・元稲荷古墳が極めて近い数値を示したという。更に、測量図や墳丘の輪郭などを重ねた結果、後者の2基が箸墓古墳の1/3相似墳の関係にあることを発見した(和田1981)。
 この方法を引き継いだ北條は、箸墓古墳の相似墳を抽出する作業として、岡山県浦間茶臼山古墳・同湯迫車塚古墳・京都府元稲荷古墳・同五塚原古墳を取り上げ、それぞれの後円部/墳長・くびれ部/墳長・前方部幅/墳長の指数を求めた。それらと箸墓古墳の数値との近似から、和田が取り上げた元稲荷古墳・五塚原古墳だけでなく、浦間茶臼山古墳・湯迫車塚古墳についても相似墳である可能性を考えた。その上で墳丘測量図を重ね合わせて相似墳であることを追認し、箸墓古墳を基準とする一群として「箸墓類型」を設定している(北條1986)。 
 その一方で、近年は立体的な構築物である墳丘を、重合法により立面的に検討を進める研究もある(青木2003)。もとよりこのような視点も上田が先鞭をつけたものである(上田1969)。青木によれば、墳丘斜面の様態や段築数、墳丘高など、立体的な構築物であるが故に立体的に捉えねば考究が及ばない側面があるという。ただし氏の使用する立面図は、平面図からそのまま起こしたものではなく、模式図化されたものである。対象となる古墳が発掘調査されていない場合、墳丘測量図には築造後の自然崩壊や人為的な破壊などのバイアスが加わっている可能性は当然考慮されねばならず、作図の際、墳丘勾配の根拠をどこに求めるのかという問題が発生してくるだろう。
 以上、研究史を概観してきたが、前方後円墳の平面・立面形態を比較検討する場合、想定された復元図に基づいて作図操作を行うよりも、現状の墳丘測量図を使用する方がより客観性が高く、再現性にも優れているものと思われる。そこで本稿では、上田・和田・北條・青木らが行ってきた方法を採用し、岩戸山古墳と善蔵塚古墳についての検討を行う。

3.対象とする2基の前方後円墳
 以下では、本稿で取り上げる2基の前方後円墳について概観する。煩雑となるため、表題以外は「古墳」をはずし、それぞれ「岩戸山」、「善蔵塚」と呼称する。両者は「人形原」と呼称される東西に細長い丘陵上に位置する。両者間は直線距離で約1.2kmと近い(図1)。

図1 八女古墳群における前方後円墳の分布 

1)岩戸山古墳
 福岡県八女市大字吉田に所在する、北部九州で最大規模を測る前方後円墳である。標高約55mの丘陵頂部に立地する。本格的な発掘調査はなされていないが、戦後間もない1946年に、周堤部の円筒埴輪列等が調査されたことがある。また、1963年には、北部九州を襲った集中豪雨によって前方部封土の一部が流出し、露出した円筒埴輪列や散乱した石製表飾品を確認している(波多野・小田1964)。そして1969・1971年の環境整備事業に伴い、別区や周堤、墳丘の一部をトレンチ調査している(佐田編1972)。
 墳丘の主軸方位は、N-75°-Wである。墳丘形態の特徴は、前方部が大きく開き、後円部が僅かに高いものの、前方部との比高差はほとんどないところにある。墳丘は二段築成で、地山整形後、ほとんどが盛土で形成されている。中でも後円部の調査では、盛土の上半部と下半部で、明確に積土の状況が異なることが確認されており(佐田編1972)、寿陵であった可能性を示すものとして注目される(茂木1994)。古墳の規模は、全長175m、全幅160m、墳丘長約134mを測る。後円部径は約71m、同高さ約13.5m、前方部幅は約94m、高さ約12.5mである。墳丘の周囲は、一重の盾形の周溝と周堤が巡る。周堤の北東隅には、「別区」と呼ばれる一辺43mを測る方形の土壇がある。主体部については未調査だが、1994年に地中レーダーと電気探査が実施され、石室の存在が確認されている(森・門脇編2000)。
 出土品には、田辺編年TK15併行期の須恵器や川西編年Ⅴ期の埴輪片の他に、100点にも及ぶ石製表飾品、いわゆる「石人石馬」があり、後述する善蔵塚に先行する。なお、その被葬者については、『筑後国風土記』逸文に見える「筑紫君磐井之墳墓」の規模が岩戸山のそれと合致すること(森1956・石山1987・佐田1991)、かつ、本墳の規模や年代、郡衙との位置関係、石製表飾品の出土状況やその内容などから、筑紫君磐井の墳墓と考える説が一般的である。言うまでもなく、磐井は527年に時の継体朝に対して「反乱」を起こしたとされる人物である。
2)善蔵塚古墳図2の善蔵塚古墳の墳丘測量図(1/600)は省略)
 福岡県八女郡広川町六田に所在し、標高約69mの丘陵頂部に築かれた二段築成の前方後円墳である。2001年に広川町教育委員会によって詳細な測量調査が実施された2)。
 墳丘の主軸方位は、N-109°-Wである。墳丘形態は、前方部が大きく開き、後円部が1m程高いものの、前方部との比高差がほとんどないところに特徴がある。古墳の規模は、全長約116m、墳丘長約93.5mである。また、後円部径は約51m、同高さ約8m、前方部幅は約66m、同高さ7mを測る。前方部一段目の南側面、同二段目の西側端部付近は、開墾のため削平されている。法面が崩壊して崖状となっている部分では、墳丘盛土の状況を観察することができる。ここでは黒色土と橙色土が薄く互層状に重なっており、少なくとも二段目は全て盛土により形成されているものと思われる。また、かつて墳丘上がミカン畑となった際には(昭和30年代であろうか)、ブルドーザーがテラス部を走行し、埴輪を粉砕したとの地元証言もある。そのためかどうかは即断できないが、前方部頂部が平坦であったり、同先端部がいわゆる「剣菱型」の形状を呈していたりする点については、人為的な改変を受けている可能性を考慮する必要があるあるだろう。さらには、南側くびれ部付近が陥没し石材が散乱しているため、主体部についても盗掘を受けている可能性が高い。その前面のくびれ部一段目についてもテラス状の広がりがあり、これが造出しであるのか後世の開墾によるのかは、表面観察では判断が難しいところである。なお、墳丘表面には葺石も認められるが、墳丘の規模に対してやや小振りな印象である。墳丘には盾形の周溝がめぐり、後円部側と前方部北側には、周堤の一部が残存する。
 墳丘やその周辺からは、田辺編年TK10併行期の須恵器や川西編年Ⅴ期の埴輪片が採集されており、岩戸山より後出する。八女古墳群でも岩戸山、石人山古墳に次ぐ第三位の墳丘規模を有し、岩戸山の次世代の首長墓と考えられている。

4.平面・立面形態の比較分析
1)分析の方法とその過程
 前稿では、前方後円墳の平面形態が、全長と後円部径、前方部幅、くびれ部幅によって決定することができるという和田晴吾の認識(和田1981)を前提に、岩戸山を含む近畿・北部九州を中心とした8・9期(近藤編1992)の代表的な古墳25基について、①後円部/墳長・②くびれ部/墳長・③前方部幅/墳長の指数を求めた。この方法は北條芳隆も採用し、箸墓古墳の数値との近似から、同古墳の相似墳を抽出することに成功していることは先述した(北条1986)。前稿では更に①と③について、二次元プロットにもとづく散布図による分析を試みている。
 このように岩戸山・今城塚古墳をはじめ、従来から今城塚古墳と相似墳の関係にあると指摘されている古墳(奈良・西山塚古墳、京都・五ヶ庄二子塚古墳、愛知・断夫山古墳、同・味美二子山古墳)と、その他の古墳との散布図上における分布状況から、データの集中やバラツキなどをみた。この結果、岩戸山をはじめとする今城塚型とされる前方後円墳は、プロットされた状況がきわめて集中していることが判明している。今回も墳丘計測値から示数を求め、これらの古墳との関係をみる。その上で、岩戸山・善蔵塚両古墳における平面形態と立面形態、墳丘細部を比較するために、「重合法」を用い、その結果を図示した。
2)平面示数による分析
 今城塚型とされる6基の古墳の指数①は、0.505~0.544、同③については0.700~0.784という数値を示す(前稿)。今回新たに採り上げる善蔵塚については、指数①が0.545、同③が0.706であり、今城塚型の範囲とほぼ重なっている。因みに岩戸山については、指数①が0.532、②が0.700であり、善蔵塚と極めて近い平面形状を呈していることがわかる。

図3 善蔵塚古墳(赤)と岩戸山古墳(灰)の平面形態比較

図4 善蔵塚古墳(黒)と岩戸山古墳(灰)の立面形態比較

3)重合法による分析3)
 次に、前章に記載した計測値から岩戸山古墳の墳丘長を10とした場合、善蔵塚の墳丘長の比率は7となる。その比率から墳丘平面図および立面図を拡大縮小し重ね合わせたのが、図3・4である4)
まず墳丘について、指数値の近似からも当然想定されることながら、両者のプランが極めてよく重なっているといえる。平面図では、墳丘長・後円部・くびれ部・前方部の開きだけでなく、テラスや二段築成の状況もほぼ重なっているように見える。墳丘以外についても、善蔵塚の周溝と周堤帯は、岩戸山のそれと概ね重なっていることがわかる。 立面図をみても、断面形状はほぼ重なっているといえる。ただ、善蔵塚の後円部・前方部が、ともに岩戸山のそれよりも若干低いのは、前章で紹介したように、ミカン畑造成時に削平されたためかもしれない。次に、主軸線上における墳丘の勾配を立ち上がり部分の現状傾斜角度によって記すと、岩戸山の場合、後円部一段目45.5°・二段目40°、前方部一段目20°二段目33°となる。善蔵塚は後円部一段目61°・二段目45.5°、前方部一段目11°・二段目44°となる。一方、岩戸山の後円部一段目と前方部一段目については、トレンチ調査が行われたことがあり、それぞれ45°・65°の勾配であることが報告されている(佐田編1972)。良好に残存する善蔵塚の後円部と、岩戸山後円部の発掘データを考慮すれば、後円部一段目の勾配は60~65°程度になるものと思われる。後円部二段目の勾配については、比較的残りのよい現状から判断すると、40~45°程であろう。善蔵塚の前方部二段目先端部は、開墾のため崖状となっているが、主軸より南側の墳丘残存状況を考慮すれば、図4にみられるように岩戸山のその部分の縦断面ラインとほぼ重なるように復元できる。前方部については、両者とも改変が著しいものの、一段目・二段目ともに、その勾配は40~45°程度であったものと思われる。
 以上、指数値の近似から両古墳が相似形ではないかとの想定したのであるが、平面図と立面図の重合法による分析で、視覚的にも支持されたものと考える。このことから、善蔵塚が岩戸山の7/10相似墳であろうということができる。

図5 「今城塚型」前方後円墳の分布

5.おわりに
 先述したように、前方後円墳の平面形態の研究に先鞭をつけた上田宏範は、プランが同形や相似形となるものについて、その築造において何らかの「設計図」が存在したものと考えた(上田1950)。また、箸墓古墳とその相似墳との関係を検討した北條芳隆は、「箸墓類型」を設定し、それらは大和連合内でその墳形・地割の枠組みと規模、工法などが規定され、かつ、保存されて、各古墳造営者に「配布」されたものととらえた。そして、それが各地で再現されるためには、一定の測量術や土木技術が駆使されたであろうとし、「配布」には、墳墓造営のための技術集団の派遣を伴っていた可能性を想定した(北条1986)。一方、筆者は前稿において、筑紫君磐井の墳墓とされる岩戸山古墳が、継体天皇の陵墓とされる今城塚古墳の7/10相似墳であろうと結論し、同古墳の築造に際しても、同様の手続きがとられたものと考え、筑紫君磐井と倭王権との緊密な関係を想定した。
 さて、本稿においてとりあげた善蔵塚は、その規模から筑紫君宗家の墳墓と考えられ、『筑後国風土記』に登場する磐井の子、葛子の墳墓の可能性もある前方後円墳である。この古墳と磐井の墳墓とされる岩戸山とは、墳丘計測値から導き出した指数と重合法による分析から、7:10の相似墳の関係にあるだろうことが判明した。
 すなわち、善蔵塚の築造に当たっては、岩戸山の設計プランが継承されたものと考えてよいだろう。しかし、この「設計図」は、元をたどれば今城塚古墳の設計プランが原型となっている。これは、善蔵塚の墳丘測量図を今城塚古墳のそれと重合法によって分析すると、両者が1:2の比率で相似墳の関係にあることからもわかる(小澤2005)。あるいは、善蔵塚の築造の際に、大王陵の設計プランが再配布された可能性も残る。
 いずれにせよ、筑紫君の奥津城である八女古墳群では、大王陵である今城塚型の設計プランを磐井の次世代、つまり「磐井の乱」以降も引き続き採用していることが明らかになったと思う。その他にも八女古墳群において、岩戸山以降も断絶することなく続くものとして、環有明海地域独自の「石人石馬」文化が挙げられる。これには、従来から知られていた幕末の記録にある乗場古墳や古くから地元信仰の対象となっている「豊福の石人」だけではなく、近年の童男山古墳群からの採集例(小澤1992)や、2005年に善蔵塚と前後する時期の首長墓である鶴見山古墳の周溝から円体武装石人が出土した例(大塚2006)も追加されている。このような考古学的事象に接するとき、『日本書紀』継体天皇条に記述された「磐井の乱」の天皇に対する大逆のイメージとは大きく異なるものを感じるのである。

謝辞
執筆にあたり,次の方々や機関からご教示や関連資料の提供を受けた。
阿部常樹・石神裕之・岩崎厚志・尾﨑源太郎・江口壽高・加藤久雄・古賀正美・佐々木四十臣・堤 諭吉・西谷 正・深澤太郎・山田広幸・渡辺正気〈敬称略・五十音順〉 
以上、ご芳名を記して感謝申し上げたい。


1)整数比を示していることが、ただちに当時の設計技術に「比」の概念が存在したことを主張するものではない。これは古代ギリシアのピタゴラス学派が生み出した特殊な概念であり、古墳時代の日本列島にそのまま当てはめてしまうことは危険である。しかし、精度の高い物差しが未成立の段階でも、数の操作に還元しない「整数倍」や「等分割」はもっとも基本的なアイデアで根源的な操作であり、長さや大きさを制御することは可能であったと考える(溝口2007)。
2)同教委作成の原図は25cmコンターであるが、今回使用したものは、岩戸山古墳測量図と統一をとるため、50㎝コンターに簡略化したものを使用している。原図コピーは広川町教育委員会から提供を受け、快く掲載の許可をいただいた(20広教社第1175号)。
3)前稿では、岩戸山古墳と今城塚古墳について、主に平面図からの検討を行った。このため、國學院大學日本文化研究所の青木敬氏より、平面図だけの分析から立体的な構築物である古墳について相似形と判断できるのか疑問であるとのご批判をいただいた(青木2004)。その後、両者の立面について簡単に触れたが(小澤2006)、今回の事例については、若干ではあるが立面の検討も行っている。これによって、より説得性も増したのではないかと自負している。同氏のご指摘に感謝申し上げる。
4)岩戸山古墳の図面については、岩戸山歴史資料館発行の図録に掲載されたもの(八女市教育委員会1988)をベースに、佐田茂氏作成のトレンチ配置図(佐田1973)を合成して作成した。善蔵塚古墳については、註2に述べたとおりである。

引用・参考文献
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追 記  佐田先生との出会いは、小学4年生の頃だったでしょうか、実家の近所に住む江口壽高氏の紹介で筑後考古学研究会へ入会したことがきっかけです。そして中学生の時には、同研究会の有志で実施した八女市真浄寺2号墳の測量調査に毎週のように参加させていただいたことが、人生の方向を定めるきっかけになったように思います。その後、考古学を学ぶため大学へ進学することになり、一回生の夏休みには、先生が調査団長で、江口氏が現場指揮を執っていた筑後市欠塚古墳の発掘調査に参加することになりました。生まれて初めて実測した葺石の実測図をお見せしご指導願うと、いつものにこやかな表情のまま、例の少し甲高い声で「ジャガイモだな」とぼそっとおっしゃいました。そういわれると本人の目にも、陰干しして無造作に並べられているジャガイモにしか見えなくなるから不思議なものです。今となっては懐かしいばかりの情景ですが、その時はすっかり落ち込んでしまいました。また、卒業後就職した久留米市とも関係が深く、文化財専門委員・筑後国府跡調査指導員だけでなく、九州山口地区文化担当者ソフトボール大会久留米チームの不動のエースとして長年に渡って務めていただきました。そんなこんなで先生との出会いから、早くも30年が経過しようとしています。
 文末ではありますが、このたび退官された佐田茂先生の学恩に感謝し、今後のますますのご健勝をお祈りして、この小文を献呈いたしたいと思います。

*『地域の考古学』佐田茂先生佐賀大学退任記念論文集、2009年6月13日、佐田茂先生佐賀大学退任記念論文集刊行会〔一部図面割愛、修正〕
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