(講演録)古代山城・高良山神籠石の構造を考える

小 澤 太 郎

作品タイトル

西麓に位置する久留米大学から見た高良山

1. 高良山神籠石の位置とその周辺環境
 早速ですが、お手元の図1に北部九州の衛星写真を載せております。その中程に高良山神籠石の位置を示しております。この高良山神籠石、筑後川の南岸で東西方向に伸びる耳納山地の西端部に立地しています。耳納山地は地震による断層で出来た山でして、北裾には水縄活断層が走ります。そのために山の稜線は「水縄」を張ったようにまっすぐのびています。別名を屏風山という所以です。一昨年、福岡西方沖地震というのがありました。久留米市は震源地の福岡市からは離れているのですが、そこから地震波が南下してきまして、耳納山地に当たって震度5弱の大きい揺れを観測しました。これは水縄断層があるがために揺れ易いということらしいです。

図1 高良山神籠石の位置 

 この耳納山地は、筑紫平野の真ん中くらいにあります。ちょうど有明海から筑後川を溯ってくると、平野が一度くびれた部分に半島状のように突き出しています。高良山神籠石が立地するその先端部付近は、肥前や肥後、筑前、豊前方面など、九州各地に抜ける交通路が全部この辺りを通るという要衝であります。まさしく九州のクロスロードといえるでしょう。また、筑後川もありますので、近代以前は河川を媒介にした水上交通も非常に発達しておりました。このような環境ですから、中世でも耳納山地には山城がたくさん造られているという要害の地でもあります。
 その下の図2を見ていただくと、高良山神籠石と周辺の主要遺跡、および交通路を記入しております。飛鳥時代の終わり頃、西暦690年代ですから、いまから1,300年程前のことになります。筑紫国が分割されて筑後国が成立します。その直前くらいに路面幅が約9mの幹線道路が造られております。これは北の大宰府から南下してきまして、筑後国内を南北に貫いて走行し、南の肥後国府へと向かいます。これを西海道跡と考えています。西海道が筑後川を渡るとすぐ東側に筑後国府があります。現在の久留米市合川町一帯ですが、ここに我々が「前身官衙(筑後国府先行官衙)」と呼んでいる国府以前の役所が造られるわけです。この前身官衙が立地する台地上に、北から南に降りてきてカクッと西へクランクしている道、これが西海道路線であると言う研究者もいますが、確かに筑後国府内の発掘調査では、点々と道路の跡が見つかっています。一方、このクランク部分から逆に東方向へ曲がり、耳納山地の北麓添いに伸びていく道もあります。これは、耳納山地北麓に山本郡ですとか竹野郡などがありまして、これらの郡衙(ぐんが)を繋ぐ道、すなわち伝路(でんろ)といわれるものだろうと考えられます。このように古代の状況をみていただいても、高良山神籠石周辺には、主要な交通路ですとか、公的施設が集中しているという事がおわかりいただけるかと思います。

図2 高良山神籠石と周辺の主要施設、交通路

2. 研究史と神籠石論争
 さて、高良山神籠石がこういう重要な場所に立地しているという事を踏まえたところで次に参りましょう。学会では有名な「神籠石論争」というのがあります。高良山神籠石を語る時には、まずこれに触れなければ始まりません。今回もこのことからお話をさせて頂きたいと思います。
 そもそも「神籠石(こうごいし)」という名称は、この高良山神籠石が発祥なのです。すなわちここが本家で元祖なのであります(笑)。この高良山神籠石を学会に最初に紹介したのは、小林庄次郎という方です。1898年(明治31)のことですが、「筑後高良山中の神籠石なるものについて」という論文を『人類学雑誌』という学術雑誌に書かれました。ここでもう一人、坪井正五郎という先生がいらっしゃいます。東京帝国大学理科大学人類学教室の教授で、アイヌ人はコロボックルだという説を唱えられた有名な人類学者です。その方が高良山神籠石について語られた事と小林先生自身の現地調査をもとに論文としてまとめられたものです。この論文は神籠石自体を学会に周知したということで非常に重要です。

図3 明治末年頃の高良山神籠石(勢至堂山〔図8-④〕付近)(『明治44年大演習写真帖』より)

 さて、この論文中では、高良山神籠石というのは霊域であるという風に考えられておられます。確かに、高良山の中腹には式内社で筑後一の宮高良大社があります。高良玉垂命という神様が鎮座される場所です。ですから、神様がお住まいにあっている範囲を霊域として、神籠石の列石で囲っているのだというのです。
ところが1900年(明治33)、八木奘三郎という方が「九州のそういう遺跡を回ったけども、あれは霊域ではありません。山城です。」という意見を唱えられました。山城説の登場です。その後、この霊域説と山城説をめぐって、喜田貞吉先生に関野貞先生を加えた大論争が始まります。お二人は、法隆寺の創建年代でも学史上有名な論争をされておりまして、永遠のライバルとでも言えるような間柄です。まず喜田先生が1902(明治35)、「神籠石とはなんぞや」というタイトルで、先の八木論文に対する反論を出されました。霊域説を強調された訳なのですが、それに対して翌年八木先生が反論された後、朝鮮半島の古代山城を調査された関野先生もちょっと遅れて1913年(大正2)に、「所謂神籠石は山城なり」と応酬されます。その後は喜田・関野両先生が中心となり、霊域説と山城説で論争が続く訳です。
 ほかにも谷井済一(やついせいいち)さんという方が、朝鮮式山城と神籠石の構造を詳細に比較検討された上で、神籠石も山城なのだと強調されています。しかし、結局のところ、現状の表面観察だけでは決定打に欠けたわけですね。ですから、やがて議論は平行線となり、神様が住んでいらっしゃる所なのか、はたまた山城なのか、水掛け論に陥ったような状態になります。ついには大類伸(おおるいのぶる)氏の「神籠石問題解決時期尚早論」なんていう論文まで出る始末です。結局現時点では何を言っても、発掘調査をしない限りはわからない、結論が出せないという事になって、これ以降の議論は停滞していきました。
 しかしその後、ついにこのような状況が打開されることになります。ここで登場するのが鏡山猛先生です。この方は久留米出身で、九州大学の考古学教室の先生をされていました。当時助手であった小田富士雄先生とともに、1963年(昭和38)に佐賀県武雄市のおつぼ山神籠石、続いて翌年には佐賀市の帯隈山神籠石を発掘調査しています。その結果、山の斜面に綺麗に石が連なり並んでいる状況や、上部には土塁があって、その前面に約3m間隔で柱が並んでいる様子が明確になりました。こういう列石を伴う土塁が、山の裾から山頂付近をめぐり再び山裾までと、山をぐるっと取り囲んでいます。ちなみにこの土塁前面に並ぶ柱穴は、最近では土塁を造る際に版築をするための堰板を支える柱の穴だとも言われています。この他にも、谷を遮断する城壁部分には水門ですとか、城壁の切れ目には掘立柱で造られた城門などが発見されています。ですからこれは大野城とか基肄城など、当時の日本の正史である『日本書紀』に記載されている、いわゆる「朝鮮式山城」と構造がそっくり似ているじゃないかということになりました。このようにして神籠石は霊域ではなく、山城だということで最終決着したわけです。

図4 南西上空から見た高良山神籠石(破線は列石線の位置を表す)(松村1994より)

3.神籠石という名称の問題
 さあ、そうなるとこの神籠石という名称に違和感がでて参ります。最初に紹介された小林先生自身もこれは霊域だと思われていますから、「神が籠る石=神籠石」ということで、その名称を強調されたと思うんですね。ところがこうやって鏡山先生が発掘調査されて、「いや、これは山城だ」という事になりますと、神籠石という名称自体が山城という性格とはそぐわないことになる訳です。
では、ここで学会紹介以前の状況について古い順にみてみましょう。最初に採り上げるのが「高良玉垂宮縁起」です。これは高良大社に伝わるものですが、鎌倉時代後期以前に成立したといわれています。この縁起の中に、高良玉垂命が高良山に元々住んでいらっしゃった地主の神様、高牟礼神から住まいを強引に借りる話がでてきます。
 高良山は別名、高牟礼山(たかむれやま)といいます。俗に言う「三韓征伐」から凱旋した高良の神様が高良山にやってくるのですが、高牟礼神にお願いして宿を借りたんですけど、その際に山にグルッと石を巡らせた「八葉の石畳」と呼ばれるものの真ん中にお住まいを構えられた。「八葉の石畳」というのは八弁の蓮華の事で、結界の意味です。ちなみに追い出された形になった高牟礼神は、現在山裾の高樹神社にお祀りされております。ここで皆さんアレッとお思いではないでしょうか。山にグルッとめぐらせた列石は「八葉の石畳」と呼ばれていますから。じゃあ、「神籠石」はいったい何だということになりますが、実はこのお住まいになった場所を「神籠石」と呼ぶのだそうです。

図5 「絹本着色高良大社縁起」(部分)に見える『神籠石(馬蹄石)』と崩壊した列石(画面右下)(小澤編2009より)

 もう少し例をあげて話を進めてみましょう。「絹本着色高良大社縁起」というのがあります。県指定の文化財で、詳しい時期はわかりませんが、江戸時代初期には修復されていますから、それより古いものであることは確かです。中世末に遡るのではないかと思われます。図5にはその部分図をあげております。そこには参道脇に磐座とお堂が描かれています。参道には方形の塊が6個、散らばっています。この参道は現在も使われておりますけれども、このようなものは散らばっておりません。これは形状や大きさから列石の石材だろうと私は思う訳ですが、このお堂の中に入っている磐座の方に神籠石と注記されています。やはり列石とは別に神籠石というものがあるようですね。
 では、次の史料にいきましょうか。「高良記」、これは中世末から近世初期に成立したといわれるもので、大祝保房によって記されました。「大祝」とは神職の方ですね。普通は「オオハフリ」というんですが、高良山の場合はなぜか「オオホウリ」と読むらしいです。「高良記」はこの方が書いた書物でして、後に「高良玉垂宮神秘書」と呼ばれるようになります。これによると、高良山の神様は八葉の石畳を一夜のうちに築いてお住まいになったと記されています。一方、神籠石とは、神様が八葉の石畳を造るときに立たれた場所(馬蹄石)だという事です。ここでも神籠石と八葉の石畳は別々に区別して書かれてありまして、やはりどうも我々が言っている列石は、当時「神籠石」とは呼ばれていないという事です。
 その後、江戸時代初めの史料ですが、高良山中興の座主(五十世)で、寂源僧正という方が書かれた「高良山八葉石畳記」があります。この方が、列石は神聖な結界だから顕彰しようという事で3ヶ月近くもかけて発掘調査をしたようです。現在、高良大社のお手水鉢脇に3つに折れた石碑が横倒しに置かれていますが、それがその発掘の由来を書いた石碑です。ここにも「神籠石」ではなく、「高良山八葉石」を発掘したと書いてあります。因みにこの発掘は、「神籠石」における最古の事例ともいえるかもしれません。その意味でも貴重なモノです。
 さらに次にまいります。安永6年に(1777)久留米藩士だった杉山正中と友人の小川正格が編さんした『筑後志』という史料があります。この高良山に関する記述の中に、「山頂社地の周囲、方十町を限り、巨石魚貫せり。これを神籠石(かうごせき)という。」とあります。列石が並ぶ状況を魚が一列に連なって泳ぐ様になぞらえてあって、なかなかユーモラスな表現だなぁと思うのですが、この註に、「俗に蓮花石と云は非也」とあります。すなわち、列石を蓮花石と呼ぶのは間違いで、実は神籠石と呼ぶのだということが言われた最初の例です。

図6 参道脇の馬蹄石。本来は磐座であろう。近世以前は「神籠石」と呼ばれた。

 さて、幕末の史料の例として嘉永6年(1853)の「筑後将士軍談」を紹介いたしましょう。筑後一円の考古学を語る際には、まず名前を挙げなければならない先駆者として矢野一貞の名前が挙げられると思いますが、これはこの方が書かれたものです。矢野は、例えば八女市の岩戸山古墳を綿密に現地踏査し、筑紫君磐井の墓として当時有力だった広川町石人山古墳説を退け岩戸山古墳説を唱えるなど、実証的な研究方法で知られる方です。彼は高良山神籠石について次のように述べています。俗に蓮華石と呼ばれる石塁は要害のために築かれていると。ただし彼の場合は筑紫君磐井が造った要害である、つまり磐井が倭王権と戦うためのお城だと考えたようです。一方、文久2年(1862)の『筑後国郡史』では、八葉蓮華壇という呼称は仏教の話をこじつけただけだといってます。また、これを神籠石とも八葉石ともいうと記しております。
 ここまで見てきますと、何となくおわかりいただけたことと思います。要するに、明治31年に小林先生が紹介された「神籠石」というのは、元々「八葉の石畳」と呼ばれていたものを指している訳なのです。江戸時代中期以降に「神籠石」と呼ぶ例もでてきますが、それ以前の史料全てに共通しているのは、「神籠石」というのは「八葉の石畳」とは別にある石、磐座なんだという事です。幕末の矢野一貞は「蓮華石」とも「神籠石」とも呼んでいますから、そのまま明治には「蓮華石」・「神籠石」と名称が混用されていた可能性も考えられます。あるいは、最初に学会に報告された際に、「神籠石」と「八葉の石畳」を取り違えられた可能性が考えられている訳なんですね。この時、霊域説を唱えられましたから、あるいは意図的に選択された…ということもありうるかもしれませんが。いずれにせよ元々の呼名である「八葉の石畳」を「神籠石」としたために、以降、現在に至るまで同じような列石遺構を「神籠石」と呼ぶようになってしまったという事になります(注)
 研究史でも触れましたが、神籠石はどういう機能をもっていたかということで、霊域説と山城説が長年対立してきました。しかし現在では、発掘調査の成果がありその結果、古代山城である事が確定的になっています。霊域説を唱える際に、いかにもふさわしい響きの「神籠石」という名称の方を採用されたのかも知れません。しかしこうなっては、どうもそぐわないという感じがします。しかも本来「八葉の石畳」と呼ばれていたものを取り違えて、別の石の名称である「神籠石」を採用しているわけですから、二重に違和感が重なります。本来の呼び方に忠実であるならば、「高良山八葉の石畳」とか、「雷山八葉の石畳」とか(笑)。長いし響きもよくはありませんが、こちらの方が元々の名称と言うことで筋は通っています。それは冗談としても、小林先生以来、長年慣例的に使用されてきた「神籠石」という名称を-来年で110周年になりますが(※2007年講演)-今さら別の呼び方にするのも混乱を招きますし、非常に難しいかと思います。そういう史料的な、更には学史的な事実関係を明確にして踏まえた上でならば、一向に残しても構わないと私自身は思います。しかし、機能面での誤解を招かないように、葛原克人さんとか斉藤先生がおっしゃっているように、「神籠石型山城」とか「神籠石式山城」「神籠石系山城」などと呼んで、「朝鮮式山城」と対比させる方がよいように思います。

4.高良山神籠石の構造
1) 列石・土塁・水門の概要
 図4を御覧ください。これは南西側上空から見た高良山の写真ですが、山の中腹にめぐる点線は列石線を示しています。次に図7の方もご覧ください。図面の右手に杉ノ城とあります。図からははみだしますが、この右側に高良山があります。現在森林ツツジ公園となっているところです。これが標高312.3mの高良山の一番高い部分にあたります。そこから西に延びた尾根の先端に本宮山があり、その西斜面に高良大社があります。そこを仮に起点とすれば、列石線が連続して山の中腹から裾まで廻っていることがおわかりになるかと思います。しかし山の北側斜面部分は、波線となっています。地形からみると、この部分にも恐らく列石が続くだろうと思われますが、今のところ全く発見されておりません。ですから現況で列石が残存しているのは、想定される列石線の約南半分という事になります。では南半分の列石線を簡単にみていきましょう。
 まず、高良山の北西斜面に虚空蔵山がありますが、そこが現況では残存する列石の先端部となっています。この付近は何度も行ったんですけど、そこから北側の列石は存在するのかどうかよくわかりません。ここは昭和40年代に人為的に崖が削られているとのことですが、その際も列石が出たかどうかもはっきりしていません。

図7 高良山神籠石の現況①

 さて、この山にはその名が示すように虚空蔵堂があります。このお堂脇の列石については、後ほど詳しく取り上げたいと思います。付近の列石はその脇を通り抜けて南に下っていきます。そうすると吉見嶽に登る谷道に出ますが、一帯が北谷と呼ばれるところです。ここでは列石が途切れ、谷の両端側に列石が見えるだけです。谷に当たるにもかかわらず、他の神籠石に見られるような水門遺構が全く残っていません。明治時代の初めに工兵隊がこの道路を造り直した際に、現在谷を流れる渓流も付け替えているようです。その工事の際に遺構を破壊したという記録も残っていませんし、実際にここに水門があったという具体的な証拠もありません。けれども地形から判断すると、列石の両端部は谷へ向かって斜面を下りながらやや谷奥側へと進みますし、ちょうどその部分は地形図でも等高線が込み合っている場所です。このように地形の転換部分に水門があったと考えると、列石線がスムーズに繋がります(図8-①)。
 それから谷を渡って急斜面を登りきると、列石線にコーナー部分があります。そこからは徐々に再び南へ斜面を降りていきます。やがて現在も利用されている高良大社の参道にでます。この脇には、先ほど神籠石の名称についてお話ししましたけれども、元々神籠石と呼ばれていた「馬蹄石」があります。ここから更に南へ下っていきますと、南谷水門にでます。高良山神籠石で唯一見学できる水門ですが、石積みはほとんど壊れています。昨年も集中豪雨が多く、土砂に埋まっていた前面の石積みがかなり露出している状況です。最近踏査をして、この背後の石積みの状況がわかってきましたので、このことについても後からお話しましょう。
 南谷南側の急斜面には、方形の石材を並べるのではなく扁平な石材を四段積みした部分があります(図8-②)。また、母岩の露頭部分では、両サイドの列石の上面に合わせるように線刻され、それより下部の列石に当たる部分は、表面を列石と同じようにハツリ加工がされています(図8-③)。
 斜面を登りきると再びコーナー部分があります。ここはほぼ90度屈折しており、列石の上面も揃っていて水平に近いですね。で、だいたい磁北にあっていますので、かなり意識的にコーナーを直角に作っているという事がわかります。ですから何か櫓のような、例えば角楼みたいなものがあったと考えてもいいのかも知れません。現在は雑木が茂っていますけど、西側への見通しが非常にいい所ですので、そういう施設があったのかなという気がします(図8-④)。
 ここから列石線は東へ折れますけれども、ほどなく、列石が基盤岩に埋め込まれている箇所があります。この部分は緑泥片岩の露頭であり、それを成形して列石の代わりとしています。基盤岩にある隙間には、新たに切り出した石を隙間の形に合わせて加工し、嵌め込んで仕上げているところもあります。この嵌め込み加工を施している場所は、石の目の節理の方向が全然違いますから、よく見ればすぐにわかります(図8-⑤)。
 さて、この付近は高良大社へ登る車道に面していますが、車道添いに下って行くと谷があります。この部分は列石線が埋没しているものと思われ、もしかしたらここにも水門や城門のような構造物があった可能性もあります(図8-⑥)。
 そこからは鷲ノ尾獄を通って高良大社の社殿の裏まで登っていきます。最後の本宮山に登る斜面は、とても急でして、よくこんな所にこのような大きな石材を持ってきたなと感心します。一番大きな石は長さが3m20cmもあります。高さ、奥行きとも80cm以上ありますから、これ一つでも重さは相当なものになると思います。近世城郭の石垣に持っていったとしても非常に大きく立派な部類に入るでしょう。大手門の近くにあってもおかしくないくらいの石材です(図8-⑦)。
 それから高良大社の社殿の裏、本宮山の東側斜面部分ですけど、ここでも列石と土塁状の高まりが見えます。そして本殿の東側に、確認できる列石の一番北東の端部があります。ここから北側は大変急な崖面となっています(図8-⑧)。もちろん列石は途切れています。『日本書紀』の天武7年条(西暦679)に筑紫国で大地震が起きるという記事がでてきます。筑後国内の遺跡を掘ると、ちょうどその頃の地割れなどの痕跡が見受けられます。松村一良さんは、高良山神籠石に関しても、この北側の急斜面が地震による円弧摩擦滑りをおこして、斜面が滑落して、できたものだとおっしゃっています。この場所に関しては、地形からみてもそういう事が言えると思います。そうであれば、これは重要な事ですが、679年にはこのお城がすでにあったという事になります。

図8 高良山神籠石の現況②

2)列石線と土塁について
 さて、以上見てきました列石線と土塁についてもう少し詳しくみてましょう。まず、列石線ですが、高良山がありまして、峰が5つあるんですけど、その5つの峰を繋ぐように構築されています。一番高い所は本宮山、これは高良大社が鎮座するところで標高251m、一番低い所は北谷で65m、その比高差は180m以上あります。ですから斜面の下から上にかけて城壁がグルッと廻っている。現存する列石線の長さは、南半分だけしか残っていませんが1,500mくらいです。北斜面まで回ることを考えると、本来は2,500~3,000mくらい長さがあったんだろうと考えられます。
 列石は立方形の加工石を使用しています。高さが70~80cmくらい、幅が小さいもので20~30cm、大きいものだと長さ3.2m、私の身長と同じ、長さ180cm位のものも結構あります。平均は一辺80cmくらいでしょう。しかし、城壁基部に板石材を表面上はめ込んだだけのヤツもあります。一方、大体1.2cmくらいまで奥行きがあるのに、間口は20~35cm位の石もあります。それに関しては、ごぼうみたいに奥まで根っこが入っている事で、土塁といいますか、城壁の強化を計ったものと思われます。その列石材なんですけども、据えつけた後に表面と側面、上下面の一部(ただし下半分はあまり加工してないんですが)を加工しています。トントントンとハツルか、あるいはノミで削ったような跡もあるので、表面をなるだけ平らに見せるために行っているようです(図9-⑨)。別の例では、石材下端部が飛び出し、顎が出ているようにみえる石があります(図9-⑩)。据えた後に出過ぎた上部を平らに削って、他の列石と面を揃えているものの、下は見えないからそのまま自然の形を残しているという極端な例です。
 また、石材の下に石を詰めたりして据えたものもあります。大きい石でしたら少し下を掘り込んで据える、背が低い石でしたらかさ上げしてということで、下縁ラインはともかく、列石線の上縁のラインを綺麗に揃えるという事を意識したようです(図9-⑪)。ただし、石材上縁部をL字形に切り欠いて、上縁ラインを揃えていくという、他の神籠石に見られる加工はされていません。それと、石積みは基本的に一段です。しかし、部分的に北谷水門の両岸は二段積みですし、勢至堂コーナーの北斜面など四段積みというのもあります。板石状に割れやすい片岩の性質のためにそうしたのかもしれません。上縁のラインは一段積みの石材と揃えられていますから。そして列石前面は傾斜角度70~90度くらいで、ほぼ垂直に近い角度に整形してあります。
 石材は、高良山自体が緑泥片岩でできているので、地の石を使っています。因みに、この石材は久留米とか八女、広川など、付近一帯の古墳の石室に使われています。しかし、耳納山地東側のうきは市や田主丸町近くに行くと石室の石材は花崗岩になります。
 土塁に関しては内托式(ないたくしき)を採用しています。まず、山の斜面にテラスを造成して石を据えます。その後、列石に沿って板を渡し、斜面との間に土を入れ、約50%の厚さになるまで突き棒で突き固めていきます。板を上方へずらしながら、作業を繰り返して高めてく「版築」というやり方で城壁を築きます。すなわち、内托式土塁というのは急角度の城壁を築き、敵が侵入できないようにする防御施設の事です。そのような土塁の痕跡が点々とみられます(図9-⑫)。

図9 虚空蔵堂東側列石の現況

3)後世の改変について
 今回踏査した成果の一つですが、後世に積み直された部分がわかってきたことがあげられます。従来、高良山神籠石では、特にそういう指摘はされていなかったんですけど、後世に明らかに積み直された部分があるようなんです。
 列石の北西側起点が虚空蔵山と言いますが、その斜面を造成して虚空蔵堂を造ってあります。このお堂、どうみても近世以降に造られたお堂です。その東斜面に列石線があるんですが、ここはどうも本来のものとは違うようです(図10-③)。斜面には片岩を平積みにした石垣が造られていますが、列石自体が石垣の石材の直上に乗っているんですね。石垣を登って、触って確認しましたが、列石との間に何がある訳でもない。要するに近世以降に造られた石垣の上に列石が乗っていて、しかも横から見ると石垣の上縁の傾斜に添って、列石も並んでいる。新しい石垣と一体化している部分があるという事です。列石の並べ方も、虚空蔵堂から南側のそれとは明らかに違っています。虚空蔵堂横から北側は、幅が60cmくらいの石を、摂理が縦方向になるようにズラーッと並べてあります。一方、虚空蔵堂から南側では、長さ1.2mくらいの大きい石を平置きにして、次に幅20cmくらいの石が二つあり、また同様に大きい石があるというパターンです(図10-②)。この並べ方はこの辺りでは一般的な積み方です。しかも石の上縁ラインもポイントでして、斜面に対して平行に、石と石の継ぎ目が解らないくらいスーッと通ってますが、虚空蔵堂から北側の石積みは、上縁の線が階段状となっています。このように、石の並べ方が全く違う訳です。また、前者は自然の岩盤を削ってテラスを造り、そこに石を置いているのに対して、後者は新しい石垣の上に乗っています。両者ははっきりと境界線があり区別できます(図10-①)。後者は近世以降、近代までに積み直されたものだということができると思います。
 このような事例からわかるように、我々の方も新しい石積みと本来の石積みとをしっかり区別していかなければいけないなと思います。なお、江戸時代には寂源僧正という高良山座主が顕彰のために列石線の発掘調査をされています。あるいは、このような際にも破損箇所などを修復をしている可能性も考えられます。

図11南岸斜面側から見た南谷水門の現況

4)水門について
 次に水門について見てみます。水門は北谷と南谷にありますが、先ほど申しましたように、南谷のものしか残っていないという現状です。南谷水門は、最も低い部分にあります。谷というのは標高が低いところですから、いわば敵が侵入しやすい防御上の弱点です。ですから当然、高い石積みで敵が城内に入ってこれないような造りにしなくてはなりません。
 南谷水門ですが、その前面、背後とも大きく壊れています。これはおそらく、切石を重箱積みに近い積み上げ方をしていたからです。例えば、ドラマなんかで、ちょっと昔のそば屋の出前が箱を積んで片手で持って配達するシーンなんかがありますけど、ああいう感じで同じくらいの大きさの石を上下に縦一列に積み上げますと、縦方向に目地が通りますから、隣の石との噛み合わせがなく、背後からの土圧や水圧に非常に弱いものとなる訳です。どうかするとバタッと倒れちゃいます。一方、街でもよく見かけられるレンガ塀とかは普通、布積みという方法で積んでいます。これは横一列に並べてあって、二段目は一段目とは目地が縦に通らないようずらしながら積んでありますよね。あれ、非常に強いんです。横のとの噛み合わせがありますから、壊れにくいです。おそらく、この水門は重箱積みに近い構造だったので、崩壊が早かったんだと思います。
 さて、水門の規模ですが、長さが約7m、高さが約2.5~3m確認できます。その基底部幅、今回これもわかった事ですが、約9mあります。これは、約30尺ということになります。石材は、列石と同じ片岩系の石を方形に加工して使っていますが、一部、安山岩が混じっております。その基底部の石は、前面の方が大きいですね。幅が1.5mあります。一方、背後の方はずっと小形の石になっています。城外の見られる方、前面にやはり大きい石材を使っているという事が言えるかと思います。芯の部分、前面の石積みと背後の石積みの間には、角礫がたくさん混じった土砂が充填されています。谷ですから地盤が弱いわけですよね。ですから、最初に角礫を下に敷いて、その上に石塁を構築する。つまり弱い地盤でも重量物が沈まないように、最初に礫を敷いて軟弱地盤対策をして、それから積んでいったのではないかという事がわかりました。ただし、全てが石塁だったのか、下部は石塁だが上部は土塁だったのかなど詳しいことはわかりません。また、谷の水が溜まることによって、水圧がかかるのを防ぐために、どこかに谷の水を抜くための施設があったはずです。他の神籠石の例でも、排水溝や吐水口が見つかっています。けれども今のところは、この南谷水門では確認できていません。

5.まとめ
 このように高良山神籠石の現状をお話ししてきました。しかしいかんせんですね、最初に学会に報告されたにもかかわらず、いまだ正式な発掘調査はされた事がありません。現在、高良山の広い範囲を国指定にかけています。土地も買収してます。ですから当市の方針としては、現状で保存するんだということです。他の例でも、水沼君の奥津城とされている、二重周濠の大円墳とか三重周濠をもつホタテ貝型古墳として有名な、御塚・権現塚古墳という国指定の史跡があるんですが、これに関しても最低限必要な範囲確認のトレンチ調査はしたけれど、基本的に周辺整備だけで、過度な復元や修景はしていない。現状そのままの姿を尊重して残しています。
 高良山神籠石に関しても、現状のままというのが基本です。ですから当面、発掘調査を行う計画はありません。しかし、ここのところ問題なのは、ゲリラ豪雨などで非常に壊れやすくなっていることです。これについては、早急な対策が必要ではないかという事で、協議を始めたところです。
さて、最後に、神籠石築造の背景について私見を述べて締めたいと思います。神籠石の年代というのは、遺物の出土も少なく、直接的な文献記事もないので、本当に難しいのですが、だいたい7世紀代とするのが大方の見方です。高良山神籠石の場合、西暦679年の「筑紫大地震」で列石が壊れていると考えれば、少なくともそれ以前には完成していたという事になります。

図12 神籠石型山城の配置(小澤2002より)

 歴史的にみると、その当時の東アジア情勢からして、百済の救援に向かった660年代、百済救済のための戦争というのが背景に浮かんでくると思います。神籠石の分布をみますと、それぞれが筑紫平野に抜ける交通の要所に位置しています。資料をご覧いただきますと、福岡県朝倉市(旧杷木町)にある杷木神籠石を中心として放射状に配置されているのがおわかりになるかと思います。杷木神籠石に隣接する朝倉宮には、斉明天皇とともに中大兄皇子もやってきますけど、奥さんを連れてきたり、しかも移動途中で出産もされています。このように、朝廷丸ごと移動といいますか、百済救済戦争のために、朝倉宮へ正式に遷都する訳なんです。やはり杷木神籠石とその他の神籠石群は、そこを守るためのお城ではないかという風に考えております。
 ところが、斎明天皇は高齢でしたし急に亡くなるんですね。そうすると、もう百済救済戦争というのは立ち行かなくなる。トップが亡くなって中大兄皇子が奔走しているのですが、その後、663年に白村江の戦いで、倭国軍が唐と新羅の連合軍に朝鮮半島で大敗しております。それによって連合軍が日本に攻め込んでくる可能性があるということ、664年に大野城とか基肄城を急いで造ることになります。
 ですから私の考えとしては、それ以前、百済救済戦争を遂行するための拠点として、朝倉宮が造営され、それを防御するための施設として神籠石が造られるわけですが、突如斉明天皇がお亡くなりになって、朝倉宮が役割を失い、その直後、白村江の戦いで負けて大きく情勢が変わった。だから国土防衛網を再構築する必要がでてきたんじゃないかと考えるわけです。その際、九州における軍事・外交の拠点が大宰府に設置されることになり、それを防御するために大野城や基肄城が設置されてきます。そうすると、神籠石型山城というのは、新しい大宰府防衛網を防衛するために有効でないものについては、段々廃れて使われなくなったのではないかと思うのです。具体的に高良山神籠石が、どの時点で廃絶したのか判りませんが、地震で崩れたのちも修復されていないという様子からして、その後ほどなく廃絶したのかなという感じが致します。
 以上、一時間にわたりお話しして参りましたが、途中、早口になり非常に聞き取り難い点もあったと思いますが、長い時間おつき合いいただきましてありがとうございました。本当につたない話で申し訳ございませんでした。

 小林が学会発表時に「神籠石」という名称を採用した件については、その後史料調査を進め、小林が取り違えたり意図的に採用したわけではなく、明治維新以降の高良神社の事情が大きく影響していることが判明した(「八葉石から神籠石へ」「古代山城・高良山神籠石を考える」参照)。 

※小稿は、2007年2月11日に熊本県立博物館・温故創生館で行なった講座の講演録を加筆修正したものである。
※音声の文字データ化は、丸山裕見子氏にお願いした。

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高良山神籠石についての主要参考文献(発表順)
武藤直治・石野義助 1930「高良山神籠石」『福岡県史蹟名勝天然記念物調査報告書』第五輯。
久留米市教育委員会 1977『史跡高良山神籠石保存管理計画策定報告書』久文報第15集。
樋口一成 1981「高良山神籠石」『久留米市史』第1巻、久留米市史編さん委員会。
松村一良 1994「高良山神籠石」『久留米市史』第12巻、久留米市史編さん委員会。